まだまだ続けます。
今回は第6話より。
久利生検事のセリフ
”そういうのを誤認逮捕っていうんじゃないですか”
”とりあえず謝ったらどうですか”
まるで私の友人の高橋喜一弁護士を彷彿とさせるこのセリフ。
久利生検事は、特捜部の検事に対して今回の逮捕は誤認逮捕じゃないのか、誤って身柄拘束された人に謝ったらどうかと迫った。
この後、特捜部の検事は謝るのだが・・・。
誤った逮捕、誤った身柄拘束があってはならない。それはそのとおり。
しかし、なぜ検察が謝るのか。
実はこのテーマ、もうすでにこのブログに書いている。
「誤認逮捕が示唆するものは」
また同じことになるのだが、もう一度書こう。
被疑者を身柄拘束することを決めるのは検察ではない。警察でもない。裁判所である。
政府である検察が、その一存で市民の身柄を拘束できるなんてことがあったら、これほど恐ろしいことはない。私たちはいつ政府から捕まえられるかわからないということになる。
いつもお上の批判ばかりブログで書いている私は恐くて外も出歩けなくなってしまう。
そのような世の中には誰も住みたくない。
だからこそ、市民の身柄を強制的に拘束する権限は政府には与えられていなくて、裁判所が出す令状がなければならない。もちろんこれは憲法に書いてあることで、国を統治する上で基本的なことだけれども、実は頭からすっぽり抜け落ちていると感じることが多々ある。
誤認逮捕、誤った身柄拘束があったとき、よく警察や検察が謝罪するシーンがある。
なぜ警察や検察は謝罪するのか。それは、自分たちが自分たちの力で身柄拘束したからという意識があるからではないか。
違う言い方をすれば、裁判所なんて関係ない。裁判所は自分たちが令状を出せと言えばオートマチックに令状を出してくれるところだから、自分たちの責任なんだ、という意識があるのではないだろうか。
私はこれは絶対に見過ごしてはならないことだと思う。
誤認逮捕、誤った身柄拘束で誰が責任を負うか。それは裁判所に決まっている。
誤った身柄拘束の責任の所在は裁判所になきゃおかしい。
今回、遠藤事務官が”誤認逮捕”され、”誤った身柄拘束(勾留)”をされたが、ドラマの中に裁判官の姿は一度も出てこなかった。
このこと自体がおかしいと思う。検察が自分たちの力で権限で身柄拘束できるんだということを勘違いしていることを如実に表しているような気がした。
そして、このことは身柄拘束の問題だけではなくて、裁判にも影響を及ぼしているのではないかというのが私の意見だ。
日本の刑事裁判は99.9%有罪判決が出る。
つまり、検察官にしれみれば、「おれが有罪だと思って起訴したから有罪なんだ」という意識が働くのではないか。そして、裁判官もまた「検察官が起訴したのだから有罪なんだろう」という意識があるのか・・・。
冤罪事件で警察や検察が謝罪するということがたまにあるが、これも間違いである。
誤った有罪判決の責任は100%裁判所にある。検察官は全く悪くない。謝る必要なんて何も無い。
誤った有罪判決に対して、検察官が謝罪するのは裁判所に対する冒涜だと私は思う。
それは身柄拘束についても同じ。
久利生さん、”とりあえず謝ったらどうですか”と言う相手は、その特捜検事ではなく、裁判官なのではないでしょうか。
まだまだ続けます。
今回は第5話より。--「じーーっくり話を聞きますから」異論
今回は川尻支部長の名セリフより
「われわれ検事の捜査は話を聞くことです。どんな大きな事件でも、小さな事件でも人と人が向き合うことによって真実が見えてくる。私たちはそう思っています。しかし、相手が何も話をしてくれないと私たちは何もできません。実は検事っていうのは事件のことを何も知らないんです。そこで何が起きたのか。目の前にいる被疑者が本当に犯人なのか、だとしたら動機は何なのか。最初は何にも知りません。知っているのは真犯人と被害者と目撃者、その場にいた当事者だけです。みんなだってそうだろう。相手と正面から向き合わないとその人のことは分からない。本当のことも分からない。当事者が正直に話してくれれば真実が見えてくる。そのためにわれわれ検事はいろいろなことを勉強します。専門的な難しいことも、事務官の助けを借りて一生懸命勉強します。そうやって犯罪者が正当に罰を受ける世の中、確かな正義が存在する世の中に近づけていくこと、それがわれわれ検察の仕事なんです」
そして、今回何度も出てくる久利生検事のセリフ
「じっくり話聞かせてもらいますよ」
検事がじっくりと関係者から話を聞く。これはもちろん必要なことだろう。
そのことによって見えてくる真実はもちろんあるだろう。
犯罪捜査に限らず、刑事裁判というのは、過去にあった出来事について、人(証人)の話を聞いて何があったのかを認定する手続と言える。なので、人の話を聞くというのはすべての基本。そのことに何の異論もない。
ところが、検事が「被疑者からじっくり話を聞く」というのは全く違う要素がある。
じっくり話を聞くことがすばらしいこととは言えない。
刑事手続において、被疑者は捜査や裁判の対象物ではない。かつては被疑者は捜査の客体、対象物とされ、その被疑者を利用して国家が真相解明、事案解明をする、それが捜査だとされてきた。
これを”糾問的捜査観”と言ったりする。
この糾問的捜査観のもとでは、検事は被疑者からじっくり話を聞いて、真相解明、事案解明をし、そしてその被疑者に罰を与えるのが職務だとされた。
ところが、これは戦前の話である。
現代の刑事裁判、捜査では、被疑者は捜査の客体、対象物ではなく、刑事手続の一方の当事者としての地位があり、その反対の当事者に検事がいるとされている。そして、裁判の場において、一方当事者である検察の言い分が間違いないと言えるのかどうかを判断することになる。
これを”弾劾的捜査観”という。
この弾劾的捜査観の元では、検察官と被疑者はお互い対等な対立当事者である。
そこからは、被疑者が検事に対してじっくりと話をしなければならないということには結びつかない。
久利生検事たちがよく被疑者に言う「じーーっくり話聞かせてもらいますよ」とか、検事がじっくり話を聞いて真実に辿り着き、犯罪者に罰を与えるというのは一昔も二昔も前の検事の役割のように思える。
被疑者と検察官は対立する当事者だから、被疑者は検事の取調べに協力しなければならないわけではない。本来的には、取調べも拒否できなきゃおかしい(現実は拒否できないが)。
黙秘権はあるが、現状は黙秘を妨害するさまざまな仕組みがたくさん残っている。
今の制度では、逮捕された被疑者は約20日間検事の取調べを受けることとなる。これは異常なまでに長い。どんなに事実を争おうが、検事には20日間、被疑者からじーーーーっくり話を聞く機会が与えられている。
これは現代の検事と被疑者のあるべき関係からすれば異常な制度だ。
20日間みっちり取調べられることによって、虚偽の自白をしたり様々な問題があることはいろんなニュースを見ればわかるとおり。
なぜこのようなニュースが後を絶たないか。
それは、検事の中に、未だに被疑者からじーーーっくり話を聞いて、被疑者に検事の前で犯罪事実を認めさせることがすばらしいことだという感覚が蔓延してるから。
そして、それをやらせるのに十分な20日間という極めて長期間の取調べ時間を検事に与えているからだと思う。
一見すると正しいことのように感じる、「じーーーっくり話を聞きますから」という言葉。
実はこれは極めて時代遅れなのだ。
今回は第5話より。--「じーーっくり話を聞きますから」異論
今回は川尻支部長の名セリフより
「われわれ検事の捜査は話を聞くことです。どんな大きな事件でも、小さな事件でも人と人が向き合うことによって真実が見えてくる。私たちはそう思っています。しかし、相手が何も話をしてくれないと私たちは何もできません。実は検事っていうのは事件のことを何も知らないんです。そこで何が起きたのか。目の前にいる被疑者が本当に犯人なのか、だとしたら動機は何なのか。最初は何にも知りません。知っているのは真犯人と被害者と目撃者、その場にいた当事者だけです。みんなだってそうだろう。相手と正面から向き合わないとその人のことは分からない。本当のことも分からない。当事者が正直に話してくれれば真実が見えてくる。そのためにわれわれ検事はいろいろなことを勉強します。専門的な難しいことも、事務官の助けを借りて一生懸命勉強します。そうやって犯罪者が正当に罰を受ける世の中、確かな正義が存在する世の中に近づけていくこと、それがわれわれ検察の仕事なんです」
そして、今回何度も出てくる久利生検事のセリフ
「じっくり話聞かせてもらいますよ」
検事がじっくりと関係者から話を聞く。これはもちろん必要なことだろう。
そのことによって見えてくる真実はもちろんあるだろう。
犯罪捜査に限らず、刑事裁判というのは、過去にあった出来事について、人(証人)の話を聞いて何があったのかを認定する手続と言える。なので、人の話を聞くというのはすべての基本。そのことに何の異論もない。
ところが、検事が「被疑者からじっくり話を聞く」というのは全く違う要素がある。
じっくり話を聞くことがすばらしいこととは言えない。
刑事手続において、被疑者は捜査や裁判の対象物ではない。かつては被疑者は捜査の客体、対象物とされ、その被疑者を利用して国家が真相解明、事案解明をする、それが捜査だとされてきた。
これを”糾問的捜査観”と言ったりする。
この糾問的捜査観のもとでは、検事は被疑者からじっくり話を聞いて、真相解明、事案解明をし、そしてその被疑者に罰を与えるのが職務だとされた。
ところが、これは戦前の話である。
現代の刑事裁判、捜査では、被疑者は捜査の客体、対象物ではなく、刑事手続の一方の当事者としての地位があり、その反対の当事者に検事がいるとされている。そして、裁判の場において、一方当事者である検察の言い分が間違いないと言えるのかどうかを判断することになる。
これを”弾劾的捜査観”という。
この弾劾的捜査観の元では、検察官と被疑者はお互い対等な対立当事者である。
そこからは、被疑者が検事に対してじっくりと話をしなければならないということには結びつかない。
久利生検事たちがよく被疑者に言う「じーーっくり話聞かせてもらいますよ」とか、検事がじっくり話を聞いて真実に辿り着き、犯罪者に罰を与えるというのは一昔も二昔も前の検事の役割のように思える。
被疑者と検察官は対立する当事者だから、被疑者は検事の取調べに協力しなければならないわけではない。本来的には、取調べも拒否できなきゃおかしい(現実は拒否できないが)。
黙秘権はあるが、現状は黙秘を妨害するさまざまな仕組みがたくさん残っている。
今の制度では、逮捕された被疑者は約20日間検事の取調べを受けることとなる。これは異常なまでに長い。どんなに事実を争おうが、検事には20日間、被疑者からじーーーーっくり話を聞く機会が与えられている。
これは現代の検事と被疑者のあるべき関係からすれば異常な制度だ。
20日間みっちり取調べられることによって、虚偽の自白をしたり様々な問題があることはいろんなニュースを見ればわかるとおり。
なぜこのようなニュースが後を絶たないか。
それは、検事の中に、未だに被疑者からじーーーっくり話を聞いて、被疑者に検事の前で犯罪事実を認めさせることがすばらしいことだという感覚が蔓延してるから。
そして、それをやらせるのに十分な20日間という極めて長期間の取調べ時間を検事に与えているからだと思う。
一見すると正しいことのように感じる、「じーーーっくり話を聞きますから」という言葉。
実はこれは極めて時代遅れなのだ。
前回の記事「毒殺で死刑とされたのが、じつは「溺死」だった」の続きを。
トリカブト入りあんパンを食べさせて、トリカブト中毒で殺したとされて死刑判決を受けている八木茂さん。
ところが、再審の手続の中で裁判所が行った鑑定で、佐藤修一氏の死因は溺死と判断されるとの鑑定結果が出たことは、前回の記事で書いたとおり。
この記事についての感想、コメントを見ていたら、
「とはいっても、トリカブトが体内から出てるんでしょ。因果関係の錯誤でしょ。」
「とはいっても、トリカブトを食べさせられて瀕死になった人が溺れただけだから殺人でしょ」
といったものが見受けられた。
おそらく多くの人が同じような感想を持っているだろうから、そのような感想をお持ちの方に事実をお伝えしよう。
この事件では、人が死ぬほどのトリカブトの毒(アコニチン系アルカロイド)は佐藤氏の体内から出ていません。
これは八木さんを死刑にした判決自体が認めていること。判決でも「本件では、科学捜査の結果によっても、佐藤の死因がトリカブト中毒によるものと一義的に明らかになっているわけではない」とされているのです。
そうです。体内から人が死ぬほどのトリカブト毒が出ていないにもかかわらず、トリカブト中毒で殺したとして死刑判決が下されているのがこの事件なのです。
もう少し詳しい説明を。
トリカブト毒の正体であるアコニチンのヒト致死量は3~4mg前後とされている(1~2mgだとする説もあれば6mg以上とする説もあるが、だいたいこれくらい)。
ところが、佐藤氏の臓器から検出されたアコニチンの量は腎臓や肝臓などの組織1gあたり、0.1ng(ナノグラム)(=100億分の1グラム)とか、0.2ng程度である。
これを佐藤氏の体重を参考に、この濃度で全身にアコニチンが行き渡っていたとしても、0.005mg未満のベンゾイルアコニンと、0.01~0.13mgのベンゾイルメサコニンだけである。
どう見ても致死量には至らない。
しかも、この鑑定の手法そのものにも多くの疑問がある。臓器にこのような成分があるかどうかを判断するのはガスクロマトグラフという方法を用いるのだが、佐藤氏の臓器のガスクロマトグラフの結果は、そもそもアコニチン系の成分と判断できるかどうかもかなり際どい程度のものであった。このことも判決は認めている。
このように、この事件ではそもそも佐藤氏の体内から致死量にいたるトリカブト毒は出ていないのだ。
ではなぜ八木さんは「トリカブト入りあんパンを食べさせて、トリカブト中毒で殺した」として死刑判決を受けたのか。
次回は、この事件の唯一の証拠である武まゆみ証言について書こうと思います。
他に冤罪事件はあるかもしれないが、八木茂だけは冤罪ではない。そう思っている人はいるだろう。
溺死だという鑑定が出た、この事実は見て見ぬふりをしたい。そう思っている人はいるだろう。
これまでの死刑判決、さいたま地裁の再審棄却決定は決して事実を正面から見ることをせずに、八木さんに死刑を言い渡した。
しかし、いま東京高裁で行われている即時抗告審はこの事実に真っ正面から向き合っている。
マスコミは、いつまでも事実から目を背けずに、なぜこのようなことになっているのか、この事件の唯一の証拠である武まゆみ証言はどのようにして生まれたのか、検察官と武まゆみとの間に何があったのか、いいかげんそこに目を向けるべきだ。
今日ここに書いたことを詳しく知りたいと思った方はこちらをどうぞ。
偽りの記憶―「本庄保険金殺人事件」の真相/現代人文社

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トリカブト入りあんパンを食べさせて、トリカブト中毒で殺したとされて死刑判決を受けている八木茂さん。
ところが、再審の手続の中で裁判所が行った鑑定で、佐藤修一氏の死因は溺死と判断されるとの鑑定結果が出たことは、前回の記事で書いたとおり。
この記事についての感想、コメントを見ていたら、
「とはいっても、トリカブトが体内から出てるんでしょ。因果関係の錯誤でしょ。」
「とはいっても、トリカブトを食べさせられて瀕死になった人が溺れただけだから殺人でしょ」
といったものが見受けられた。
おそらく多くの人が同じような感想を持っているだろうから、そのような感想をお持ちの方に事実をお伝えしよう。
この事件では、人が死ぬほどのトリカブトの毒(アコニチン系アルカロイド)は佐藤氏の体内から出ていません。
これは八木さんを死刑にした判決自体が認めていること。判決でも「本件では、科学捜査の結果によっても、佐藤の死因がトリカブト中毒によるものと一義的に明らかになっているわけではない」とされているのです。
そうです。体内から人が死ぬほどのトリカブト毒が出ていないにもかかわらず、トリカブト中毒で殺したとして死刑判決が下されているのがこの事件なのです。
もう少し詳しい説明を。
トリカブト毒の正体であるアコニチンのヒト致死量は3~4mg前後とされている(1~2mgだとする説もあれば6mg以上とする説もあるが、だいたいこれくらい)。
ところが、佐藤氏の臓器から検出されたアコニチンの量は腎臓や肝臓などの組織1gあたり、0.1ng(ナノグラム)(=100億分の1グラム)とか、0.2ng程度である。
これを佐藤氏の体重を参考に、この濃度で全身にアコニチンが行き渡っていたとしても、0.005mg未満のベンゾイルアコニンと、0.01~0.13mgのベンゾイルメサコニンだけである。
どう見ても致死量には至らない。
しかも、この鑑定の手法そのものにも多くの疑問がある。臓器にこのような成分があるかどうかを判断するのはガスクロマトグラフという方法を用いるのだが、佐藤氏の臓器のガスクロマトグラフの結果は、そもそもアコニチン系の成分と判断できるかどうかもかなり際どい程度のものであった。このことも判決は認めている。
このように、この事件ではそもそも佐藤氏の体内から致死量にいたるトリカブト毒は出ていないのだ。
ではなぜ八木さんは「トリカブト入りあんパンを食べさせて、トリカブト中毒で殺した」として死刑判決を受けたのか。
次回は、この事件の唯一の証拠である武まゆみ証言について書こうと思います。
他に冤罪事件はあるかもしれないが、八木茂だけは冤罪ではない。そう思っている人はいるだろう。
溺死だという鑑定が出た、この事実は見て見ぬふりをしたい。そう思っている人はいるだろう。
これまでの死刑判決、さいたま地裁の再審棄却決定は決して事実を正面から見ることをせずに、八木さんに死刑を言い渡した。
しかし、いま東京高裁で行われている即時抗告審はこの事実に真っ正面から向き合っている。
マスコミは、いつまでも事実から目を背けずに、なぜこのようなことになっているのか、この事件の唯一の証拠である武まゆみ証言はどのようにして生まれたのか、検察官と武まゆみとの間に何があったのか、いいかげんそこに目を向けるべきだ。
今日ここに書いたことを詳しく知りたいと思った方はこちらをどうぞ。
偽りの記憶―「本庄保険金殺人事件」の真相/現代人文社

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私も弁護人をやっている、本庄保険金殺人事件の再審請求。
即時抗告審で、東京高裁はトリカブト毒によって殺されたとされた佐藤修一氏の死因を再鑑定する決定をし、その鑑定結果が出た。
その結果は「溺死」。
詳細は、本庄事件弁護団ホームページに随時情報をアップするのでそちらを。
トリカブト毒で殺したとして死刑判決を受けた八木茂氏だが、死亡した人は溺死だった。
つまり、死刑判決は間違っていたということ。
こんな出来事そうそうない。そもそもあってはならないこと。
これほどのニュースにもかかわらず、マスコミの反応はかなり鈍い。
読売新聞「本庄保険金殺人、中毒死でなく溺死」
朝日新聞「被害者の死因は溺死」埼玉・本庄保険金殺人で鑑定
毎日新聞「埼玉・本庄保険金殺人:判決と即時抗告審で別の死因鑑定」
テレビはほぼ皆無。
この事件、ご存じの方も多いだろうが、当時マスコミが大々的に取り上げた事件。
ある意味においてマスコミによって作り上げられた事件。
そのようなマスコミの報道から、「他に冤罪はあるかもしれないが、八木茂だけは冤罪ではない」と思っている人も少なくないのではないか。
しかし、いま、「死因は溺死」という専門家の意見が出たのである。これはまったく色をつけていない厳然たる事実である。
例え、過去にマスコミが騒ぎ事件を作り上げたということがあったとしても、この事実は絶対に報じなければならないはずだ。
なぜかと言うと、八木氏は死刑判決を受けているから。
国家が国民を死刑で殺そうとしていたのが、誤りだったという証拠が出ているという事態だからだ。
マスコミの役割は、この事実を受け止め、なぜこのようなことになったのか、そのことに注目をし、報道することではないか。
続きの記事:「そうは言ってもトリカブトが体内から出てるんでしょ」と思ったあなたへ
即時抗告審で、東京高裁はトリカブト毒によって殺されたとされた佐藤修一氏の死因を再鑑定する決定をし、その鑑定結果が出た。
その結果は「溺死」。
詳細は、本庄事件弁護団ホームページに随時情報をアップするのでそちらを。
トリカブト毒で殺したとして死刑判決を受けた八木茂氏だが、死亡した人は溺死だった。
つまり、死刑判決は間違っていたということ。
こんな出来事そうそうない。そもそもあってはならないこと。
これほどのニュースにもかかわらず、マスコミの反応はかなり鈍い。
読売新聞「本庄保険金殺人、中毒死でなく溺死」
朝日新聞「被害者の死因は溺死」埼玉・本庄保険金殺人で鑑定
毎日新聞「埼玉・本庄保険金殺人:判決と即時抗告審で別の死因鑑定」
テレビはほぼ皆無。
この事件、ご存じの方も多いだろうが、当時マスコミが大々的に取り上げた事件。
ある意味においてマスコミによって作り上げられた事件。
そのようなマスコミの報道から、「他に冤罪はあるかもしれないが、八木茂だけは冤罪ではない」と思っている人も少なくないのではないか。
しかし、いま、「死因は溺死」という専門家の意見が出たのである。これはまったく色をつけていない厳然たる事実である。
例え、過去にマスコミが騒ぎ事件を作り上げたということがあったとしても、この事実は絶対に報じなければならないはずだ。
なぜかと言うと、八木氏は死刑判決を受けているから。
国家が国民を死刑で殺そうとしていたのが、誤りだったという証拠が出ているという事態だからだ。
マスコミの役割は、この事実を受け止め、なぜこのようなことになったのか、そのことに注目をし、報道することではないか。
続きの記事:「そうは言ってもトリカブトが体内から出てるんでしょ」と思ったあなたへ
第4話より--「飛田の跳び蹴り」による立証は許されない
今回も久利生検事のセリフより。
”目撃者の話によると、「その人は何者かにいきなり跳び蹴りされて、後ろにひっくり返っちゃったんです」って。それでその人は亡くなった。
「跳び蹴り!・・といったら飛田さんですよね。」ヤンキー仲間の間では超有名な話です”
ホームレス殺人の犯人が捕まっていないところ、別件のマンホール窃盗で捕まった飛田さん。この飛田さんは昔ヤンキーをやっていて、「飛田の跳び蹴り」というあだ名がつくくらい、いきなり跳び蹴りをして名を馳せていた。
それから数年後、ホームレス殺人が起き、その事件の目撃者の言葉が冒頭の言葉。
このシーンはまだ取調べの段階なので何とも言えないが、もし今後ホームレスを跳び蹴りしたのが飛田さんだということを示す証拠(誰かの話、防犯ビデオなど)がなかったら、「飛田の跳び蹴り」によって、ホームレス殺人の犯人が飛田さんだということを立証することになる。
そのような立証は許されるか。
答えはNOだ。
飛田さんがいかに跳び蹴りが得意で、ケンカになったら真っ先に跳び蹴りをする人だったとしても、ホームレスの人に向かって跳び蹴りをしたのが飛田さんだということには直接結びつかない。
そうなると、「飛田の跳び蹴り」からホームレスを襲ったのが飛田さんだということを結びつけようとしたら、
飛田さんは跳び蹴りをする人だ→そのような飛田さんはまた跳び蹴りをして襲うに違いない→今回跳び蹴りをして襲ったのも飛田さんだ
という過程を頭の中でたどることになる。
これを”性格立証”という。その人の過去の行動から、その人はそのような行動をする人だ(性格)を立証し、今回もその性格に沿った行動をしたに違いないから、今回の事件もその人が犯人だ、と考えること。
なんとなく正しいように思えるが、これはとても危険な考え方である。
過去に跳び蹴りをしていた人だからといって、また跳び蹴りをするとは限らない。
また、今回の跳び蹴りがその人の仕業とは限らない。
つまり、このような思考過程を経ることは、たまたま過去に跳び蹴りをしていた人を、誤って今回も跳び蹴りをしたと判断してしまう危険がある。
だからこのような立証は禁止されている。
禁止されているとはどういうことかと言うと、法廷で「飛田の跳び蹴り」の事実を出すこと、つまり昔のヤンキー仲間とか、元ヤンだった事務官の麻木千佳さんが「飛田はすぐ跳び蹴りをしていた」等と証言すること自体が禁止されるということだ。
なぜかと言うと、この言葉を聞いた瞬間、聞いた人は「飛田の跳び蹴り」から今回も飛田が跳び蹴りをしたんだろうと考えてしまうからだ。
これは何も私の勝手な意見ではなく、最高裁も平成24年9月7日と平成25年2月20日の判決で言っていることだ。
「前科,特に同種前科については,被告人の犯罪性向といった実証的根拠の乏しい人格評価につながりやすく・・・前科証拠によって証明しようとする事実について,実証的根拠の乏しい人格評価によって誤った事実認定に至るおそれがないと認められるときに初めて証拠とすることが許される」
今回の「飛田の跳び蹴り」は前科ではないが、飛田さんが過去にそのような行動を取っていたという意味では前科と同じだ。なので、この最高裁判所の言っていることは今回もあてはまる。
つまり、「飛田は昔から跳び蹴りをしていたから、今回も跳び蹴りをしただろう」というのは、「実証的根拠の乏しい人格評価」なのである。
この”性格立証の禁止”のルールには例外がある。
それは、最高裁の言葉を借りるならば、「前科に係る犯罪事実が顕著な特徴を有し,かつ,それが起訴に係る犯罪事実と相当程度類似することから,それ自体で両者の犯人が同一であることを合理的に推認させるようなもの」であれば、過去の事実、今回で言えば「飛田の跳び蹴り」の事実を法廷に出すことができる。
つまり、「跳び蹴り」というものが、昔跳び蹴りをしていた人と、今回ホームレスに跳び蹴りをした人が同一人物だといえるほど顕著な特徴があればいいということ。
なぜかと言うと、これが言えると”性格立証”にならないからだ。
けれど、今回のように、跳び蹴りをして人を襲う人なんて世の中にはいくらでもいる。
ただ跳び蹴りをしたというだけで、それは飛田さんだ、ということにはならない。
両方が同一人物の犯行だと言えるためには、その手口の特徴がまるで”署名をした”かのような特徴じゃなきゃいけない。
こう考えれば、”飛田の跳び蹴り”によって、ホームレス殺人の犯人が飛田さんだということを立証することは禁止されている、やっちゃいけないことだということが理解いただけただろう。
この事件は久利生検事がこれからじっくりと飛田さんを取調べするそうなので、どうなるかわからない。
久利生検事がじっくり取調べて、飛田さんが「自分がホームレスを殺した」などと自白をしたり、あるいは共犯者が「跳び蹴りをして襲ったのは飛田だ。おれは見た」などと供述をしたら、それらを根拠に飛田がホームレスを襲ったことを立証することはできるだろう。
だが、誰もそのような話をしなかったらどうなるか。
おそらく飛田が跳び蹴りをしてホームレスを襲ったということで起訴することはできないだろう。
ちなみに、冒頭の言葉で久利生検事が飛田さんに迫ったのに対して、飛田さんは「冤罪だ!」と言った。
その飛田さんに対して、久利生検事はこう言った。
”それダメですよ! 冤罪って言葉だけは簡単に使わないでください。ウチらもそこだけはすんげえ気をつけてやってるんで”
しかし、久利生検事が飛田さんに迫ったそのやり方、その発想、それは典型的な冤罪を生み出す発想で、やっちゃいけないことなんです。
久利生さん、あなたこそ”それダメですよ!”
今回も久利生検事のセリフより。
”目撃者の話によると、「その人は何者かにいきなり跳び蹴りされて、後ろにひっくり返っちゃったんです」って。それでその人は亡くなった。
「跳び蹴り!・・といったら飛田さんですよね。」ヤンキー仲間の間では超有名な話です”
ホームレス殺人の犯人が捕まっていないところ、別件のマンホール窃盗で捕まった飛田さん。この飛田さんは昔ヤンキーをやっていて、「飛田の跳び蹴り」というあだ名がつくくらい、いきなり跳び蹴りをして名を馳せていた。
それから数年後、ホームレス殺人が起き、その事件の目撃者の言葉が冒頭の言葉。
このシーンはまだ取調べの段階なので何とも言えないが、もし今後ホームレスを跳び蹴りしたのが飛田さんだということを示す証拠(誰かの話、防犯ビデオなど)がなかったら、「飛田の跳び蹴り」によって、ホームレス殺人の犯人が飛田さんだということを立証することになる。
そのような立証は許されるか。
答えはNOだ。
飛田さんがいかに跳び蹴りが得意で、ケンカになったら真っ先に跳び蹴りをする人だったとしても、ホームレスの人に向かって跳び蹴りをしたのが飛田さんだということには直接結びつかない。
そうなると、「飛田の跳び蹴り」からホームレスを襲ったのが飛田さんだということを結びつけようとしたら、
飛田さんは跳び蹴りをする人だ→そのような飛田さんはまた跳び蹴りをして襲うに違いない→今回跳び蹴りをして襲ったのも飛田さんだ
という過程を頭の中でたどることになる。
これを”性格立証”という。その人の過去の行動から、その人はそのような行動をする人だ(性格)を立証し、今回もその性格に沿った行動をしたに違いないから、今回の事件もその人が犯人だ、と考えること。
なんとなく正しいように思えるが、これはとても危険な考え方である。
過去に跳び蹴りをしていた人だからといって、また跳び蹴りをするとは限らない。
また、今回の跳び蹴りがその人の仕業とは限らない。
つまり、このような思考過程を経ることは、たまたま過去に跳び蹴りをしていた人を、誤って今回も跳び蹴りをしたと判断してしまう危険がある。
だからこのような立証は禁止されている。
禁止されているとはどういうことかと言うと、法廷で「飛田の跳び蹴り」の事実を出すこと、つまり昔のヤンキー仲間とか、元ヤンだった事務官の麻木千佳さんが「飛田はすぐ跳び蹴りをしていた」等と証言すること自体が禁止されるということだ。
なぜかと言うと、この言葉を聞いた瞬間、聞いた人は「飛田の跳び蹴り」から今回も飛田が跳び蹴りをしたんだろうと考えてしまうからだ。
これは何も私の勝手な意見ではなく、最高裁も平成24年9月7日と平成25年2月20日の判決で言っていることだ。
「前科,特に同種前科については,被告人の犯罪性向といった実証的根拠の乏しい人格評価につながりやすく・・・前科証拠によって証明しようとする事実について,実証的根拠の乏しい人格評価によって誤った事実認定に至るおそれがないと認められるときに初めて証拠とすることが許される」
今回の「飛田の跳び蹴り」は前科ではないが、飛田さんが過去にそのような行動を取っていたという意味では前科と同じだ。なので、この最高裁判所の言っていることは今回もあてはまる。
つまり、「飛田は昔から跳び蹴りをしていたから、今回も跳び蹴りをしただろう」というのは、「実証的根拠の乏しい人格評価」なのである。
この”性格立証の禁止”のルールには例外がある。
それは、最高裁の言葉を借りるならば、「前科に係る犯罪事実が顕著な特徴を有し,かつ,それが起訴に係る犯罪事実と相当程度類似することから,それ自体で両者の犯人が同一であることを合理的に推認させるようなもの」であれば、過去の事実、今回で言えば「飛田の跳び蹴り」の事実を法廷に出すことができる。
つまり、「跳び蹴り」というものが、昔跳び蹴りをしていた人と、今回ホームレスに跳び蹴りをした人が同一人物だといえるほど顕著な特徴があればいいということ。
なぜかと言うと、これが言えると”性格立証”にならないからだ。
けれど、今回のように、跳び蹴りをして人を襲う人なんて世の中にはいくらでもいる。
ただ跳び蹴りをしたというだけで、それは飛田さんだ、ということにはならない。
両方が同一人物の犯行だと言えるためには、その手口の特徴がまるで”署名をした”かのような特徴じゃなきゃいけない。
こう考えれば、”飛田の跳び蹴り”によって、ホームレス殺人の犯人が飛田さんだということを立証することは禁止されている、やっちゃいけないことだということが理解いただけただろう。
この事件は久利生検事がこれからじっくりと飛田さんを取調べするそうなので、どうなるかわからない。
久利生検事がじっくり取調べて、飛田さんが「自分がホームレスを殺した」などと自白をしたり、あるいは共犯者が「跳び蹴りをして襲ったのは飛田だ。おれは見た」などと供述をしたら、それらを根拠に飛田がホームレスを襲ったことを立証することはできるだろう。
だが、誰もそのような話をしなかったらどうなるか。
おそらく飛田が跳び蹴りをしてホームレスを襲ったということで起訴することはできないだろう。
ちなみに、冒頭の言葉で久利生検事が飛田さんに迫ったのに対して、飛田さんは「冤罪だ!」と言った。
その飛田さんに対して、久利生検事はこう言った。
”それダメですよ! 冤罪って言葉だけは簡単に使わないでください。ウチらもそこだけはすんげえ気をつけてやってるんで”
しかし、久利生検事が飛田さんに迫ったそのやり方、その発想、それは典型的な冤罪を生み出す発想で、やっちゃいけないことなんです。
久利生さん、あなたこそ”それダメですよ!”