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空気を読まずに生きる

弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

高橋事件弁護団からの広報です。
前回と同じテーマについての続報です。
(なお、私自身は別件でこの公判前整理手続期日には出頭できませんでしたが、弁護団からの広報ということで掲載します)

本日(11月21日)午前11時から行なわれた第10回公判前整理手続において、東京地方裁判所刑事第6部(中里智美裁判長)は、死刑囚5名を含む検察側証人6名について、検察官の請求通り傍聴人と証人との間の遮へい措置をとるとの決定をしました。この決定に対してわれわれは「公開裁判を受ける被告人の権利を侵害する」「刑事訴訟法が要求する必要性は立証されていない」と異議申立てを行いましたが、裁判所はわれわれの異議を棄却しました。その際に行なわれた主なやりとりは以下のとおりです。


裁判長:検察官から申出のあった遮へい措置について、次のとおり決定します。6名の証人の尋問に際しては、傍聴人と証人との間で相互に相手の状態を認識することができないようにするための措置をとることにします。

高野弁護人:裁判長、なぜ遮へい措置が必要なんでしょうか。

裁判長:異議ですか。

高野弁護人:異議をこれから述べますが、異議の理由をきちんと述べるためには、決定の理由を知る必要があります。遮へい措置の決定の理由を教えて下さい。検察官の主張を全部認めるということですか。

裁判長:刑訴法がいう「相当と認めるとき」に当たるということです。

高野弁護人:それは法律に書いてあるので分かります。なぜ「相当」なのかご説明いただけないですか。

裁判長:法律の要件に当たるということです。

高野弁護人:……それでは、裁判所の決定に対して異議を申し立てます。遮へい措置は被告人の公開裁判を受ける憲法上の権利に対する重大な制約です。したがって、その措置をとる場合には、それが必要であることが説明される必要があります。法律の条文をオウム返しに言うだけでは理由を述べたことにはなりません。行政処分に関する最高裁判所の判例は、国民の権利を制約する処分を行うときは単に法律の条文に該当するというだけでは足りない;それを基礎づける事実の説明が必要だと言っています。憲法上の権利を制約するためには、その必要性を基礎づける事実が証明されなければなりません。裁判所の今回の決定をするにあたって、そのような事実は何一つ証明されませんでした。今回の遮へい措置の決定は、被告人の憲法上の権利を侵害するものであり、最高裁判所の判例の趣旨にも反します。

裁判長:弁護人の異議に対するご意見は。

神田検察官:異議には理由がないものと思料します。

裁判長:異議は棄却します。

坂根弁護人:ひとこと述べます。この間われわれ弁護人は裁判所からの様々な要請に対して誠実に対応してきました。釈明や書面の提出要求に対して迅速に応じてきました。法曹三者が協力してこの裁判員にとって分かりやすい裁判を実現するために最大の努力をしてきました。ところが裁判所は遮へい措置という重大な決定をするに当って理由をなにも説明しないという態度をとるというのは三者の信頼関係を損なうものと言わざるを得ません。

裁判所は本日の手続について報道機関に配布する広報用メモの案を配布しました。そこには「本日、第10回公判前整理手続期日を、被告人出席の上で開いた」とあるだけで、あとは次回期日の日程しか書かれていませんでした。そこで、次のやりとりがありました。

高野弁護人:この広報メモには遮へい措置を採る決定をしたことが書かれていません。これは裁判の公開に関する重要な決定ですから、広報する必要があると思います。

裁判長:遮へい措置を採ることについて裁判所から広報することはしません。

結局、なぜ遮へい措置をとるのかについて、裁判所は一切明らかにしませんでした。われわれはこの事件において証人と傍聴人との間の遮へい措置を採ることは刑事被告人の公開裁判を受ける権利を侵害すると同時に、公開裁判への公衆の権利=裁判を傍聴する公衆の権利を侵害すると考えます。なぜそのような重大な決定をしたのかわれわれには知る権利があります。この問題を訴訟当事者限りで議論すべきだとは思いません。そこで、遮へい措置を要求した検察官の申出書とわれわれの反対意見書の全文を公開することにします。

検察官の10月27日付証人尋問に関する申出書
弁護人の10月30日付遮へい措置申出に対する意見書
弁護人の11月5日付遮へい措置申し出に対する補充意見書

高橋克也氏の弁護人を代表して
弁護士 高野隆

追伸:われわれ弁護団はこれまでマスコミ関係者の個別取材には一切応じてきませんでした。その姿勢は今後も維持します。ただ、東京地裁によるメディア向けの広報では不十分な点があり、一部で誤った報道がなされるという事態が生じました。そこで、必要に応じて手続の重要な出来事について広報をすることにしました。

私たちがなぜこの問題を重要視しているのかは前回のブログに書いたとおりです。
この問題は、われわれの依頼人である高橋克也氏にとってだけではなく、傍聴人、さらには国民にとっての問題なのです。
裁判官にしてみれば、証人と傍聴人との間の遮へいの問題なんてどうでもいいことなのでしょう。証人と傍聴人との間に衝立があろうとなかろうと裁判官にとっては何の影響もありません。むしろ、裁判の公開というものが、国民による裁判官の監視だと見るならば、裁判官にとっては裁判はできるだけ秘密にしたい(=監視の目から逃れたい)と思うのでしょう。
そのように考えれば、このような裁判の公開に関わる問題は、裁判官の判断を放置しておけばどんどん裁判を秘密にする方向になってしまいます。
そのときに声をあげなければならないのは、このような秘密裁判によって権利を侵害される国民であり、傍聴人であり、そのような国民の知る権利に奉仕するマスコミ以外にありえません。

今でこそ当たり前になった法廷の傍聴席でメモを取るということについても、平成の世の中になるまでは認められていませんでした。
このことはおかしいと異を唱え、国家賠償訴訟を提起したのは、傍聴席でメモを取ることを禁止されたローレンス・レペタというアメリカ人の弁護士でした。アメリカ人傍聴人が裁判を起こしてようやく傍聴席でメモを取ることが許されるようになったのがこの国なのです。

私は高橋氏の公判において、傍聴人から証人の姿が見えないのは公開裁判に反するという裁判をそのとき傍聴席にいる誰かが起こさなければならないと思います。
そうしないと、裁判の秘密化は止まりません。
私が弁護人の一人である高橋克也氏の弁護団から広報を出しました。

東京地方裁判所刑事第6部が証人尋問を決定した井上嘉浩氏らについて、検察官は、10月27日付書面で、刑事訴訟法157条の3第2項に基づき、各証人と傍聴人との間に遮へい措置を講じることを求める申出をしました。検察官は、これらの証人がいずれも死刑確定者であることから、多数の傍聴人の見守る法廷に出頭することで「再び社会に戻りたいという気持ち」から「自暴自棄になって第三者を巻き添えに生命を賭して逃走を図るなど、裁判員、裁判官その他の裁判所職員、弁護人、検察官、さらには一般市民である多数の傍聴人等に対する殺傷事案を引き起こすことになりかねない」と述べています。また、彼らを「奪還」したり「襲撃」する者が出てくる危険性があると検察官は主張しています。

われわれ弁護団は、検察官の要求は理由がないとして遮へい措置を講じることに反対しており、10月30日、反対の意見書を提出しました。われわれは、裁判公開原則を定める憲法82条1項や刑事被告人の公開裁判を受ける権利を保障する憲法37条1項にもとづいて、裁判を傍聴する市民には証人の証言を音声で聞くだけではなく、証人の証言態度やその表情、しぐさを観察する権利があると考えます。そうでなければ、刑事裁判を市民が監視し裁判が公正に運用されることを保障しようという憲法の趣旨は全うされません。

「殺傷事案」とか「奪還」「襲撃」などという検察官の見込みにはなんらの具体性もなく、刑事訴訟法157条の3の要件は全く立証されていません。仮に万が一そうした犯罪行為が行われる危険性があるとしたら、証人と傍聴席の間にスクリーンを設置するようなことでそれを防ぐことなど不可能です。

さらに、遮へいは井上氏ら証人自身が望んでいるわけでもありません。彼らはむしろ、公開の法廷できちんと証言することを希望しています。検察官による遮へいの要求は、彼ら証人のためというよりは、死刑囚を衆目にさらすことを極力厭う拘置所の前近代的な体質によるものです。

この遮へい要求は、刑事被告人の権利を侵害するというだけではなく、国民の知る権利や報道機関の報道の自由を侵害する、極めて重大な憲法問題です。この要求が認められ遮へいが実施されたら、傍聴人はこの事件の事実関係を語る証人の様子を全く観察することができなくなります。この事件の公判の一部がこうした秘密の審問の様相を呈して行われることは、わが国の刑事裁判の歴史に大きな汚点を残すことになると考えます。こうした措置が、国民の目から閉ざされた非公開の手続(公判前整理手続)のなかで決定されようとしていることに、われわれは大きな危惧を感じます。そこで、裁判所が誤った決定をする前にこの出来事を国民に伝えるべきだと判断しました。

高橋克也氏の弁護人を代表して
弁護士 高野隆

追伸:われわれ弁護団はこれまでマスコミ関係者の個別取材には一切応じてきませんでした。その姿勢は今後も維持します。ただ、東京地裁によるメディア向けの広報では不十分な点があり、一部で誤った報道がなされるという事態が生じました。そこで、必要に応じて手続の重要な出来事について広報をすることにしました。

裁判をなぜ公開するのか、その大きな目的の一つは、裁判所で何が行われているのかを国民が知るためです。法廷の中で何が行われているのか、どんな証人が出てきているのか、証人はどんな容貌の人なのか、証人はどんなしぐさをしながら証言をしているのか、みなさん知りたいはずです。知る権利があるのです。
そして、このように裁判が公開されることによって、公開裁判を受ける権利という被告人の権利が全うされるのです。

今回検察官が申し立てた遮へいの要求は、証人として法廷に出てきた死刑囚の姿を国民に見せないというものです。証人と傍聴席との間についたてを立てて、証人を隠すということです。証人はどんな姿なのか、どんな仕草で証言しているのか、このままでは国民は知ることができないのです。

つまり、このような遮へいによって、本来知ることのできるものが知れなくなるのは国民なのです。そしてこの国民の知る権利に奉仕するマスメディアこそがこの遮へいによって一番権利が侵害されるのです。
この問題、マスメディアは当事者です。マスメディアの権利が侵害されているのです。決して第三者ではありません。
もしこの問題に対して、「死刑囚の身上の安定も考慮すべき、遮へいもやむを得ない」などという論陣を張るマスメディアがあれば、それはマスメディアの死を意味するでしょう。
マスメディアは、自らの役割を考えるべきです。マスメディアの役割は国民の知る権利に奉仕すべく、法廷の中で何が行われているのかを具に報道することです。そのために、法廷での出来事を秘密にしようとする動きに対しては当事者として徹底抗戦するべきです。

裁判員裁判:遺体写真など…衝撃的な証拠、排除広がる(毎日新聞 2014年10月27日)

法廷で遺体の写真を見た裁判員がPTSDになり国家賠償請求をした事件を機に、裁判員に対して遺体の写真を見せるべきかという議論が盛んになっている。
この問題、いささか誤った方向に議論が進んでいる気がしてならないので、「正しい」考え方を示しておきたい。

リンクの記事にもあるように、検察官の中には裁判員に凄惨な写真を見てもらうことを目的として、遺体の写真を証拠請求する人がいる。要は、凄惨な写真を見て、事件の残酷さを感じてもらって、被告人を重く処罰してもらおうということだ。
このような検察官の考えに対応する形で、最近裁判所が検察官に対して「遺体の写真はやめろ、イラストにしろ、ショックを和らげろ」と強く指導することをとても好ましいことだとする弁護士が少なくない。

しかし、このような考え方は全くもって間違っていると思う。
問題はそういうことではない。

この問題、私なりに3つのポイントから考えたい。

ポイント1:遺体写真を証拠として採用すべきかどうか
遺体写真を証拠として採用すべきかどうかは、「証拠の関連性」の問題だ。
関連性の中でも「法律的関連性」と呼ばれる問題。
簡単に言えば、その証拠が持つ証拠価値と、その証拠が事実認定者に与える弊害とを比較してどちらが優先するかという問題だ。
福島で起こされた国賠訴訟の件を見ても明らかになったとおり、遺体写真は非常にインパクトが強く、人によってはPTSDを発症することもある。それほど強烈な証拠であり、当然裁判員の感情を刺激する。冷静な判断を阻害する危険もある。これらは遺体写真という証拠が持つ弊害である。
一方で、事件によっては遺体写真が持つ証拠として価値は極めて大きい場合もある。ここで重要なことは「事件によって」ということである。
事件によっては、遺体写真が証拠としてほとんど価値がない事件もあれば、決定的に重要な価値を持つこともあるということだ。
例えば、事実関係に全く争いがなく、被告人が被害者の心臓を5回包丁で突き刺したことに何の争いもない事件であれば、遺体写真は証拠としてほとんど価値がない。その事実はいくらでも他の方法で法廷に出すことができる。(例えば、解剖をした医者が法廷で証言をすれば十分である)。
一方、例えば、被告人の方から包丁を刺したのか、被害者が襲ってきたから被告人は何もしていないのに手に持っていた包丁が被害者の体に刺さってしまったのか、ということが問題になるような事件であれば、包丁がどのような角度でどこにどう刺さっていたのかは決定的に重要である。
このような事件では、例えば遺体写真には裁判員の感情を刺激し、PTSDを発症させるくらいショックが強かったとしても、それを上回る証拠価値がある以上、証拠として採用されなければならない。

これは検察官が遺体写真を証拠として請求する場合でも、弁護人が遺体写真を証拠として請求する場合でも全く変わらない。
被告人の無罪を明らかにするためには、遺体写真を証拠請求しなければならない事件なんていくらでもある。そのような事件では、例えその証拠には事件の凄惨さをリアルに伝え、裁判員の感情を刺激するデメリットがあったとしても、弁護人は遺体写真を証拠請求しなければならない。

このように、遺体写真を証拠として採用すべきかどうかは、事件ごとにケースバイケースとしか言いようがない。これを、「遺体写真を法廷に出さない=弁護人としては望ましい」というのは間違った議論である。
なお、ここで勘違いしてはいけないのは、検察官が言うような「事件の凄惨さを伝える」ことは裁判の目的ではないということだ。
刑事裁判は、起訴状に書かれた事実が証拠から間違いないと言えるかどうかを判断し、それに見合った刑罰を決める手続だ。
決して事件の凄惨さを伝える手続ではない。結局検察官がやろうとしていることは、裁判員の感情を刺激しようとしていることに他ならず、関連性のない立証をしようとしているに他ならない。

ポイント2:写真かイラストか
この記事にもあるように、裁判所は写真は衝撃を与えるからイラストにしてくれと検察官に強く指導している。
しかしこれは全く間違っている。
もし、遺体の写真を見なければ起訴状に書かれている事実を判断できないくらい、遺体写真の証拠価値が高いのであれば、それは写真を見て判断しなければならない。
イラストで代替するということは許されない。なぜならば、一番正確な証拠は写真だからだ。
イラストというのはどんなにリアルにやっても二次証拠でしかない。正確性などについて、人の作為が加わっている。
刑事裁判というのは、被告人の生命、身体、財産を国家が強制的に奪う手続であり、まさに被告人の人生がかかっている。
このような刑事裁判の手続で、写真をもとに作成したイラストが証拠として用いられることはおかしい。
遺体の状況について証拠として採用しなければならない(=関連性がある)のであれば、写真を見るしかないし、証拠として採用することについて価値がなく、弊害が大きい(=関連性がない)のであれば、イラストだろうが法廷には不要だということである。

ポイント3:裁判員の選任はどうするか
とはいえ、遺体の写真を見せられて体調を崩す裁判員がいたという事実は大きい。
人によっては遺体の写真をどうしても見たくないという人もいるだろう。
一時期、裁判官によっては裁判員に対して「遺体写真については、見たくない人は見なくてもいいですよ」などと言っていたことがあったが、これはどこからどう見ても間違っている。
裁判員は、すべての証拠を見て判断する。これは基本中の基本である。人によって見た証拠と見ていない証拠があっていいなんてことはあっていいはずがない。
では、どうするか。
それは裁判員の選任手続の段階で、「遺体の写真はどうしても見たくない」という人を裁判員から外すというプロセスを経るしかないと思う。
どうしても証拠を見ませんというのは、公正に裁判ができないということだろう。
刑事裁判は殺人事件などを扱う以上、残酷な写真が出てくることは避けようがない。ある意味当たり前のことだ。残酷な写真を見てもらわなければならないのであれば、ちゃんと見てもらえる人に裁判員を務めてもらうしかない。これを残酷な写真を法廷に出さないようにするというのは解決方法として間違っている。われわれの仕事はそんな生半可なものじゃない。


たしかに、これまでの裁判では、証拠の関連性など何も意識せずに遺体写真や遺体の解剖の鑑定書が必ず証拠として出てきた。
裁判員裁判によって、その運用について一度立ち止まって考えることになった意義は非常に大きい。しかし、この問題、裁判所内部でも、検察庁内部でも、弁護士会内部でも、世間(新聞など)でもさまざま論じられているが、どうも議論が変な方向に行きがちである。
何が問題なのかをしっかり考えないととんでもないことになる危険がある。
ようやく最終回。途中少しさぼりましたが、なんとか最後までやりました。

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「サイテーの言葉」

久利生検事は法廷で裁判員にこのようなことを言った。

”裁判ってなんてこんなくだらないことやっているんだろうって (イヤ、スミマセン)僕は未だにそう思っちゃうんですよ。いや、さっきから僕ら真実はこうだイヤ違う異議アリってやってますけど、本当の事は、真犯人が全部わかっちゃているんです。○○さんは、何故亡くなったのか?過去の事件は、誰がやったのか○○年前の事件の真相は、犯人さえ本当の事を話してくれれば、こんな裁判なんか必要ないんです。でもウソをつかれるといきなりわけがわかんなくなるんですよね。だから、当事者でもない僕たちが、あーでもない、こーでもないって議論しあうんです。犯人の心の中にある真実っていうもの”

被告人が嘘をつくからこんなくだらないことをやるんだ。
被告人が本当のことを言えばこんなくだらないことやらなくていいんだ。
おれたち(検事)は正しいんだ。
嘘をついているのは被告人なんだ。

久利生検事はこう言ったのだ。
もちろんこの事件の被告人は「自分は犯人なんかじゃない!」と無実を訴えている。
なぜこの被告人の言い分は嘘で、検事の言っていることは正しいと言えるのか?

私はこのセリフを聞いて、ある映画のセリフを思い出した。

”この裁判で、本当に裁くことができる人間は、僕しかいない。少なくとも僕は、裁判官を裁くことができる。あなたは間違いを犯した”

これは映画「それでもボクはやってない」の最後の場面。
痴漢をやっていない主人公に対して有罪判決を下した裁判官に向かって主人公が心の中でつぶやいた言葉。

検事はお前が犯人だと言い起訴し、被告人は自分は何もやっていないと言う。
HEROの最終回もそれボクも同じ。
そして、真実は被告人しか知らない。それも同じ。
そして、被告人は「何もやっていない」と言う。
その被告人の言葉を「お前が嘘をつくからこんなくだらない裁判をやらなきゃいけないんだ」と言った久利生検事。
そのような検事の言葉を鵜呑みにした裁判官に対して「あなたが間違いを犯したことだけは私にはわかる」とつぶやいた被告人。

何が正しいか。
元裁判官の木谷明さんが著書の中でこのようなことを書いている。
「・・・真犯人を一人も取り逃すことなく、また、犯人でない者には必ず無罪の判決を言い渡さなければならないということになる。確かに、それは刑事裁判の理想であろう。しかし、神ならぬ人間のする裁判で、そのような完璧な結果を期待することは、もともと無理な話である。裁判には、裁判官のほか、検察官、被告人・弁護人のほか、警察官、目撃者その他多くの者が関与するが、証人の中には、虚実取り混ぜて巧妙な偽証をする者もいるし、善意の証人でも思い違いや時の経過に伴う記憶の変質を免れない。・・・このような多くの制約の下では、いかに裁判所が努力しても、常に必ず真実に到達できるという保障はない。
 真犯人とそうでない者を常に明確に区別できるという保証がないのであれば、(1)「真犯人を一部取り逃がすことになっても無実の者を処罰しない」ということで満足するか、(2)「真犯人は絶対に見逃さない。そのためには、無実の者がときに犠牲になってもやむを得ない」と割り切るか、どちらかである。
 ・・・わが国の刑事裁判は(1)の考えに基づいて行われている筈である。しかし、それにもかかわらず、現実の裁判で冤罪が絶対に発生していないかといえば、答え「否」であろう。」
(「刑事裁判の心」(法律文化社)はしがきより)。

木谷さんはこの著書の別の箇所でこのようなことも書いている。
「事実認定を適正に行うための方策として、私が特に考慮したこと(の第1点として)、被告人の弁解を真摯に受け止め、十分に事実審理を尽くすこと」
木谷さんは別の著書でもとにかく被告人の言い分に耳を傾けるということを繰り返し述べられている。

少なくとも久利生検事のように考えていたらこの国から冤罪は一生なくならないだろう。それだけは言える。
そして、久利生検事の言葉は、裁判というものをあまりにも蔑ろにしたものだろう。
サイテーの言葉だ。

ところで、このHEROというドラマ、こんなBlogを書き続けるくらいなので私は好きで見ているのだが、特に裁判のシーンはあまりにも酷いと感じた。
もちろんドラマなのでありえないシーンはあっていいんだが。
今回の裁判のシーンにあったように、手口がよく似た事件を積み重ねて有罪にするということ自体やっちゃいけないこと(違法なこと)だし、検事が証人として出てきて「あの事件は冤罪だった。犯人はこいつだ」などと証言することも伝聞証言以外の何物でも無く違法だ。
また、いつもどおりのことだが、証人に尋問しながら弁論を始めてしまうあたりとか。
なんというかさすがにフィクションだから、ドラマだから・・・というレベルを通り越してあり得ない。
時代は裁判員裁判になり、市民が法廷のバーの中に入る時代になった。
法律家だけではなく、市民もこのようなドラマに対して「ありえない」と感じる人が増えてくるだろう。
アメリカの法廷ドラマを見ていると、そのあたりが極めてリアルでありながらも、ドラマとしてもとてもおもしろくできている。
ドラマとしてのレベルの差がありすぎるような気がする。
HEROは裁判とか捜査といった世界を世の中に発信できる大きな力を持っているので、次はもっともっとレベルアップしてほしい。
気がついたら3週間くらいあいてしまいましたが・・・
今回は第9話より。”チームvsチームを反則だという人たち"

第9話では、5人の共犯者に対して、城西支部の検事たちがチームとして取り組み、最終的に主犯を追い込むストーリーだった。
その中で、最後に主犯だった椎名を取り調べる際、他の共犯者の学生達が自白する状況について事務官達がパソコンのチャットで情報交換しながら椎名を追い込んでいった。
このようなやり方、いかにもフィクションっぽいけど、決してそうではない。

このような共犯事件の場合、1人の検察官が共犯者全員の取り調べを担当する場合もあるが、複数の検察官が共犯者の取り調べを分担することはよくある。
そして、複数の共犯者を同時に取り調べ、その状況をリアルタイムに情報交換することは日常茶飯事である。
そして、被疑者に対してこう言うのである。
「今あいつは自白したぞ、おまえもしゃべれ」
と。

事務官のパソコンにチャット画面を立ち上げることはさすがにない(のかもしれない)が、やっていることは一緒である。

共犯者と一緒に疑いをかけられ、事実について黙秘をしたり、違う言い分を述べてがんばっていた人が、その取り調べの最中に
「今あいつは自白したぞ」
と言われれば、精神的にとても動揺する。これは当たり前だろう。
人によっては、このまま自分の言い分を述べていたとしても、共犯者が認めてしまったのだとしたらもうダメだ・・・などとあきらめてしまうだろう。

久利生検事はこれを「チーム」による取り調べだと言った。

では、このようなチームによる取り調べに対して、共犯者たちはチームで防衛することが許されるのか。
もちろん許されなければおかしい。許されるのが当たり前である。

ところが、現実は共犯者たちがチームで防衛することを検事たちは「証拠隠滅だ」などと言って批判する。裁判所もそれに同調する。そしてひどい場合にはこのようなチームによる防衛をしようとした弁護士を懲戒請求したりする。これが検察官だ。

自分たちはチームによる取り調べだなどと言って、他の共犯者がいまどのような話をしているのかをすべて情報共有しながら、共犯者たちがいま周りの人たちがどのような話をしているかを情報共有しようとすることを反則だと言うのである。

こういう共犯者がいる事件の場合、検察官はほぼ100%「接見禁止」を求める。
それぞれの共犯者に対して勾留を請求して身体拘束するだけではなく、弁護士以外の人たちと面会をすることすら禁止する「接見禁止」を求めるのである。
接見禁止を決めるのは裁判官だが、検察官が接見禁止を求めた場合、裁判所はほぼ100%それを認める。
裁判官はいとも簡単に接見禁止の決定をする。
人をいとも簡単に牢屋に入れる決定をするだけではなく、家族とも友人とも誰とも面会させないという非人道的な決定もまたいとも簡単に決める。これが裁判官だ。

「接見禁止」の非人道性についてはあらためて別の機会に書こうと思うが、要はこういうことである。
勾留されている人たちは、家族など弁護士以外の人たちと面会する際には、警察官とか拘置所職員の立会いがつく。だから証拠隠滅とかの話などしようがない。やったらすぐにバレる。
このように警察官とかが面会に立ち会ってその会話内容をすべてチェックしていても、証拠隠滅行為を防止できない場合に備えた制度がこの「接見禁止」というものである。
そんな事態、めっっっったにないはずだが、接見禁止はいとも簡単に、そしてかなり多数の事件でついているのが現状である。

さて、話は戻して・・・
共犯事件の場合、検察官はほぼ間違いなく接見禁止を求め、裁判官もほぼ間違いなく接見禁止の決定をする。
こうして検察官は被疑者をどんどん孤立化させていく。それは情報などの物理的な面での孤立化だけではなく、精神的な孤立化もである。

このような被疑者に対して、弁護人は他の共犯者の弁護人と情報交換をして、いまどのような取り調べを受けているのか、どのような供述をしているのか等々情報を入手するのは当たり前である。
そうしないと、検事が「あいつは自白したぞ」と言われてもそれが嘘か本当かすらわからない。
弁護人が他の人と情報交換をして
「みんな自分の言い分をがんばって言ってるみたいだよ、一緒にがんばろう」
というアドバイスをできれば、幾分かは励ますことができる。

ところが、このような弁護人同士の情報交換も「証拠隠滅だ」という検察官がいる。
検察官だけではなく、弁護士の中にも、このような情報交換はやってはいけないことだという人がいるから驚きだ。
証拠隠滅はしちゃいけないが、共犯者間で情報共有することは証拠隠滅でもなんでもない。
むしろこういう事件で防御をするためには必須のことと言えるだろう。
その区別をつけずに、共犯者間で情報共有することはルール違反だ、悪いことだというのは誤りである。

城西支部のチームによる取り調べ、じつは結構危険なものを孕んでいるのです。
前にも書いたけど、被疑者は捜査の客体ではなく、
司法手続きの当事者なんです。
検察官のみが情報を支配して自白を取るというやり方は間違っているのです。