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空気を読まずに生きる

弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

COVID19緊急事態宣言が出て以降、東京拘置所にはこのような貼り紙がされている。

そして入口は施錠されており、屈強な刑務官が立っていて、来た人に対して「弁護士バッジか身分証を見せてください。一般面会(注:弁護士以外の家族や友人等の面会)は中止しています」と言い、拘置所に収容されている人に会いに来た家族はうつむきながら帰っていく。

 

このような東京拘置所(法務省)の一般面会一律禁止の対応については、法律の根拠はない。

拘置所における一般面会等のルールを定めた刑事収容施設法という法律にも、拘置所に収容されている未決囚(これから裁判を受ける人=無罪推定がはたいらいている人)の面会を一律に制限できるなどという規定は存在しない。

 

確かに感染拡大を止めるために様々な工夫は必要であろう。しかしだからといって何していいわけでもない。

まして、強制的に人の自由を奪い、牢屋に入れられている人に対して、法律の根拠なしに家族との面会を一切禁止するということが許されるのか。

(ちなみに現状は拘置所に収容されている人は外部と電話することもできない。ましてZOOMやSkype、Googlemeetなどは言わずもがな)

 

ということで、このような拘置所の対応(=門に貼り紙をして、鍵を閉めて、一般面会を一律に遮断する対応)は違法だということで、このような対応を止めることを求める裁判を仲間たちと起こした(拘置所の対応(=処分)の取消訴訟と執行停止申立て)。

 

これに対して、東京拘置所の言い分は、

門に貼り紙をして、鍵を閉めているのは、「不要不急の面会はご遠慮下さい」というポーズであり、一律禁止していない。面会を遠慮いただくようお願いしても引き下がらない方には、面会が必要な事情を聞いて、緊急性、必要性が高いと拘置所が判断した面会については認めている。

そして、現にこのような個別判断で一般面会を認めている。

というものであった。

私たちの主張は、このような貼り紙をして、ホームページ等でも「一般面会禁止」と告知して、入り口を施錠して刑務官を立たせているという対応は、それ自体「面会拒否処分」にあたるというものであった。だからこれを取り消せ、いったん止めろ、というものであった。

が、裁判所はこのような拘置所の対応を踏まえて、貼り紙をして、入り口を施錠して刑務官を立たせて、面会に来た人に面会を遠慮してもらうように言って帰らせる拘置所の対応は「面会禁止処分」ではないとした。

 

つまり、裁判所は、このような貼り紙とか入り口で施錠されているとか、刑務官に追い返されるだけではなく、それであきらめずに拘置所に対して面会の申請をきちんとした上で、拘置所から正式に拒否処分をもらってから出直してこい、と言ったのである。

 

さらに裁判所はこのような判断に加えて、拘置所の中にいる人が家族と面会できないことが「重大な損害」にあたるかどうかについて、

・そもそもこのような拘置所の措置は、被収容者の安全の維持と家族の安全の確保のための措置

・中にいる人は弁護士とは面会できるんだから、家族と会えなくても互いの状況を伝えてもらえるから問題ない

・手紙は出せる

といった理由から、家族と面会できないことは「重大な損害」ではないとした。

 


 

この決定については当然言いたいことが山ほどある。

拘置所に貼り紙をして、入り口を施錠して、面会したくても中に入れさせてもらえないようにしていながら、「それはあくまでお願いであって、一律禁止処分ではない」なんてことが、普通の市民に通用するわけねえだろ!とか。

家族とのコミュニケーションをなんだと思ってんだ。家族とのコミュニケーションは弁護士を経由すれば問題ないとか、お前の家族はそれでいいのかもしれないが、そんなもの普通の市民に通用すると思ってんのか!とか。

 

それはそれで、別途対応を考えるが、私が今回これをブログに書こうと思ったのは、拘置所(法務省)は決して一般面会を一律禁止しているわけではないと裁判で主張し、裁判所がそれを受け入れて決定を出したという事実を広めるためです。

 

先の見えない感染症拡大のこのご時世でも、家族とのコミュニケーションのかけがえのなさは何も変わらない。

まして、強制的に身体を拘束されている人を心配し、中の人も外の家族の安否を心配するコミュニケーションは本来誰にも止められないはず。

安倍首相は「GWはオンライン帰省を!」と言った。

拘置所にいる人も家族とオンライン面会できるならば、対面での面会の中止をすることもありえるかもしれない。

しかし日本の拘置所には今日の時点ではそのような設備は何もない。電話すらできない。

だとしたら、拘置所に会いに行くしかない。

拘置所(法務省)は一律禁止していないと言っているので、面会に行って、屈強な刑務官に対して2メートルの距離を保って「家族と会わせてくれ!」とぜひ言ってもらいたい。拘置所は拒否できないはずである。

 

今回の決定文のPDFを公開するので、ぜひこれを持参して、マスク・ゴーグル・手の消毒・ソーシャルディスタンスを保って拘置所に面会に行ってもらいたい。

 

面会制限「合理的」 拘置所の新型コロナ対策―東京地裁(時事通信)

私は今マレーシアにいる。

 

    「(通訳の)趣旨が不明」「(通訳の)質問と(被告の)答えがかみ合っていない」……。東京高裁は6月、覚醒剤取締法違反(密輸)の罪に問われたマレーシア人の女性被告(21)に対する判決で、一審の誤訳に言及した。  女性は2017年、計約2・9キロの覚醒剤をスーツケースに隠して成田空港に持ち込んだとして、友人とともに逮捕された。千葉地裁の裁判員裁判は友人を無罪としたが、女性には懲役9年などの有罪を言い渡した。  一審で女性は、元交際相手の姉夫婦から「20歳の誕生日記念」として1週間の日本旅行とスーツケースをプレゼントされ、覚醒剤の存在は知らなかったと訴えた。ただ、親代わりの親戚には訪日直前、こんな音声メッセージを送っていた。「(仕事で)日本に行く。戻ってくるのに何カ月か何年かかるか分からない」  公判で検察官は、「旅行」という説明との矛盾を追及した。女性がタミル語で話した言葉を、スリランカ人の通訳が「自分では言いたくなかった。日本に行って何年いるか、早めに戻るか、そういうことは向こうには言いたくないです」と日本語に訳した。  タミル語は東南アジアの複数の国で使われ、スリランカの公用語の一つ。通訳が話した内容の趣旨は分かりにくかったが、判決はこの回答などを根拠に、音声メッセージについて「長期間拘束されるような、違法な仕事に関わることへの不安を吐露したもの」と認定した。  控訴審で新たに弁護人になった趙誠峰弁護士はこの内容を不審に思い、法廷供述の録音を取り寄せた。別の通訳に聞いてもらうと「(心配する親戚に賛成してもらうには)仕事で日本に行くとうそを言わないと、旅行に行けなくなってしまうから」と訳された。  趙氏は「散見される誤訳を是正しなかった一審は違法だ」と主張R。高裁も一定の誤訳を認めたものの、「全体として供述の趣旨は伝わっていた」として控訴を棄却した。女性側は最高裁に上告し、引き続き争っている。

朝日新聞2019年7月28日

https://digital.asahi.com/articles/ASM7W524ZM7WUTIL019.html

 

私はこの事件の弁護を控訴審から担当している。

私はこれまでも数多くの覚せい剤密輸事件の弁護を担当してきた。その中で無罪の判決も取った。そして、薬物密輸組織はどのような人物に薬物の運び屋をさせるのか…などの知識はあった。

そして、この事件の控訴審の国選弁護人に選任され、初めて彼女に接見をしたとき、私の中に衝撃が走った。この事件を有罪にすることはあり得ないと。。。。

しかも、この事件の第一審の裁判は手続も極めて杜撰であった。

私はこの事件の控訴審弁論をこのように締めくくった。

 

「第一審の裁判は、日本に来た外国人に対する裁判として、余りにも杜撰なものでした。誤った通訳によって、誤った有罪判決が下される、この国の刑事裁判に関わる1人として、私はこの不正義に耐えることができません。

 Rさん(依頼人)がマレーシアを出発して1年半以上経ちました。Rさんは「日本に来るのは夢だった」と言いました。その夢であった日本への旅路は、S(黒幕)らによって、無残に打ち砕かれてしまいました。しかしRさんにはまだ信じていることがあります。それは、日本という国では正しい裁判が行われるということです。このRさんの気持ちを裏切ることはしないでください。

 Rさんの日本への長い旅路に終止符を打って下さい。そして、Rさんをお姉さんが待つ祖国のマレーシアに帰して下さい。」

 

ところが、控訴審はRさんを有罪にした。

私は日々数多くの無罪主張事件の弁護をしている。どの事件も私は本気で無罪だと思い、全力で弁護をしている。

しかし、その中でも、この事件だけは、有罪判決はありえない、耐えられないという思いが私の中にはあった。

 

この事件の控訴審が有罪判決を下した時、私はその不正義にとても耐えることができず、無力感も相まって本気で刑事弁護をやめようと思った。

しかしあまりに落ち込む私に対して私より20才近く若い依頼人Rが「まだ最高裁がある」と励ましのメッセージをくれた。

私はこの事件に弁護人として関わった責任として、彼女を祖国のマレーシアに帰すことなく刑事弁護をやめることはあまりに無責任であると感じた。

さらには、この状態でこの事件から手を引いて、他の無罪を主張する事件で依頼人に対して「私は本気であなたを弁護する」などと言うことは、自分自身に嘘をつくことになると思った。

 

このときから私は、とにもかくにも彼女をマレーシアに帰してから刑事弁護をやめよう、それまでは私自身が尽くせる方策はすべて尽くすことを決意した。

私は彼女を救えなかったのは一重に弁護人としての力量不足であると痛感し、上告審からは”ボス”にも弁護人に加わってもらった(上告審からは報酬など何もなく、全ては私の責任と意地だけでやることにした)。

 

ところが上告審は上告趣意書提出からわずか1ヶ月で上告を棄却し、彼女は懲役9年罰金400万円の刑が確定した。

 

私は彼女が約10年間刑務所に入ることを見過ごすことはできず、再審の申立ての準備のため(新証拠を探すため)に、このたびマレーシアに来た。

そして、マレーシアで彼女の家族、親戚に会った。

さらには、マレーシアの田舎町まで行き、彼女の関係者にも会った。

さらには、彼女と一緒に日本に来て、無罪判決が確定した女性にも会いに行った。

さらには、彼女と同じように覚せい剤も運び屋をやらされて、全く別事件で無罪判決が確定した若い女性にも会った。

その家族の家にも行き、家族にも会った。

 

彼ら、彼女らは全員タミル民族だった。

彼女たちは全員揃って、とても親切で、敬虔な宗教心を持ち、家族を敬い、大切にし、そして貧しく、知識に乏しく、純真無垢な人たちだった。

 

私はある程度想像をしていたものの、ショックを受けた。

日本という国の中にいるだけでは、彼女たちの文化、環境、常識などわかるはずがない。想像もできない。

そんな彼女たちは、まさに薬物密輸組織が薬物の運び屋として利用するのにもってこいの存在であることもまた疑う余地がなくなった。

 

今回幸いにして日本に覚せい剤を持ち込まされ、それでも無罪になった2人の女性に会うことができたが、彼女たちと私の依頼人Rに何も違いはなく、本当に純真無垢であどけなく、幼く、そして敬虔な宗教心を持ち、家族の結びつきがとても強い人たちだった。また、彼女たちは幸いにして無罪になって祖国に帰ることができたものの、そうならずに冤罪に苦しんでいる人たちが無限にいるであろうことを確信してしまった。

 

これはとんでもないことが起きている。

彼女たちに対して、日本人の常識(ですらないかもしれない、職業裁判官の「経験則」でしかないかもしれない)として「日本への渡航費用などを負担してまで運ばせるのに見合うものとして真っ先に思いつくのは覚せい剤を含む違法薬物」といった、実に空虚な理屈で何の証拠もないのに有罪判決を出し続けるこの国の刑事裁判について、無力感、絶望感、虚しさ、憤り、怒りをあらためて感じずにはいられなかった。

 

これはどうしたらいいのだろうか。

 

(以下、追記。2020.2.25 10:13)

やはり、職業裁判官が持つ「経験則」(=渡航費用などを負担してまで渡航させる目的として真っ先に思いつくのは覚せい剤を含む違法薬物。だから覚せい剤の認識があったと言えるというもの)がおよそ当てはまらないことを裁判において立証することを怠ってはいけないのだろう。

それぞれの依頼人の国を訪ねて、文化を知り、家族を知り、日本という国の裁判官の頭の中の「常識」とはかけ離れた考え、風習、常識を持っていることを丁寧にわからせるしかない。

そのためには、弁護人は毎回毎回その国に行かなければならないし、とてつもなく大変な作業を強いられる。しかしそうでもしないとこのことは伝わらない。

 

Rさんの場合も、育った環境、家族、宗教などについて事実審の段階で立証することを怠るべきではなかった。再審という段階になるまでマレーシアに来なかったことを悔やんでも悔やみきれない。

 

密輸事件で知らないうちに運ばされたという弁解の事件について、それぞれの弁護人が毎回毎回このような立証を繰り返し続ければ、そのうち裁判官も自分たちの「常識」が、決して世界の多くの人々に通用する常識ではないことに気づくときが来るだろう。

 

@クアラルンプールにて。

東名高速の事件、世間の関心は高くテレビ新聞等々でも大々的に報じられているが、どれも正確ではない。

 

読売新聞

公判では同罪が適用されるかどうかが争点となり、昨年12月の地裁判決は、危険運転に該当するあおり運転と事故との因果関係を認め、同罪の成立を認定。6日の高裁判決も「被告のあおり運転は、重大な事故を引き起こす高度の危険性を内包していた」などと認めた。

(中略)

その上で、高裁判決は、地裁が裁判員との評議の結果、当初の見解を変更したことを弁護側に伝えず、反証の機会を与えなかった対応を「不意打ちで、違法だ」と指摘。「危険運転致死傷罪が成立しうることを前提に、改めて裁判員裁判で審理と評議を尽くすべきだ」と結論付けた。

 

毎日新聞

高裁は危険運転致死傷の成立については「是認できる」として否定しなかったが、危険運転致死傷の成立を巡って公判前整理手続きで弁護人に適切な主張の機会を与えなかった手続き違反があると指摘。「改めて裁判員裁判で審理を尽くすのが相当」と述べた。

 

朝日新聞

判決はまず、一審と同様に被告の「停車行為」は同罪が規定する危険運転に含まれないとした。だが、被害者が停車せざるを得なくなったのは被告のあおり運転によるもので、停車から2分後に追突してきた大型トラックの運転手の過失も大きくないと指摘。「あおり運転」と追突事故との因果関係を認めた。

(中略)

 手続きの違法が量刑の判断などに影響を与えた可能性があるとして、裁判員裁判をやり直すべきだと結論づけた。

 

NHK

6日の2審の判決で東京高等裁判所の朝山芳史裁判長は「被告の妨害運転によって被害者は高速道路に車を止めるという極めて危険な行為を余儀なくされた。一連の行為と結果との因果関係を認めて、危険運転の罪を適用した1審の判断に誤りはない」として、1審に続いて危険運転の罪に当たるという判断を示しました。

 

これらの報道を見ると、高裁も危険運転致死傷罪を認めるという判断をしながら、差し戻し審でもう一度裁判をするってどういうことだ?という疑問がわく。

差し戻し審は裁判員裁判で、裁判員は危険運転致死傷罪が成立するという結論を決められながらなんの裁判をするんだ?そんな裁判員裁判をやる意味はあるのか?など思う人もいるかもしれない。

 

上に列挙した記事の中では朝日新聞が最も判決を正確に伝えている(それでもカンペキではない)が、今回の高裁の判断はこういうことだ。

  1. 今回の運転行為のうち、相手の車を路上に停止させるまでの”あおり運転行為”が、法律上の危険運転に該当するという判断は正しい(なお、このことはおそらく弁護人も争っていないはず)。
  2. 被告人が、相手の車の直前で自車を停止させた行為自体は法律上の危険運転行為の要件を満たさない(危険運転行為は法律上速度の要件があり、停止させること自体はそれを満たさない)
  3. その上で、危険運転とされる”あおり運転行為”そのものと、死傷の結果との間の因果関係が認められるかというこの事件の最大の争点について、「一審判決が認定した事実関係のもとでは」因果関係を認められる(=危険運転致死傷罪が成立する)とした。
  4. (そのこととは別に)第一審の公判前整理手続において裁判所が(まだ裁判員と一緒に裁判をやる前から)「本件では危険運転致死傷罪の成立を認めることはできないものと判断した」と表明したことが違法であり、そのように言いながら判決で危険運転致死傷罪を認めたことは不意打ちであり違法だとした。

危険運転については、危険運転によって人が死傷したことを処罰する「危険運転致死傷罪」という罪しかなく、危険運転行為そのものは(少なくとも現時点では)罪となっていない。

つまり、危険運転行為と死傷結果との間に「因果関係」が認められなければ罪を問うことができない。

なお、現在あおり運転行為そのものを罪に問うことが国会で検討されているようである

 

つまり、この事件の最大の争点は、石橋氏の運転行為が危険運転かどうかではなく、被害者が死傷した結果も含めて石橋氏に危険運転致死傷罪を問えるかどうかということ。言い換えれば、石橋氏の危険運転行為と、被害者の死傷結果との間に法的な因果関係を問えるかどうかということである。

 

この法的な因果関係を問えるかどうかを検討する上で重要なのは、被害車両に追突したトラックの過失なのだろう。この事故では、トラックが本来通行してはいけない通行帯を走行しており、さらに他の過失もあったのかもしれない。

このトラックの過失が大きければ大きいほど、被害者の死亡結果は石橋氏の危険運転によるものではなく、トラックの過失によるものという評価が可能となる。

 

ところが、第一審では、公判前整理手続の段階で裁判所が早々に「本件では危険運転致死傷罪の成立を認めることはできないものと判断した」と言ったことから、一審弁護人は当然この裁判所の言及を信用し、危険運転行為と被害者の死傷結果との間の因果関係についての主張、立証を十分にできなかったというのようだ。だからこそ「不意打ち」として裁判を一審に差し戻して、あらためて十分に主張、立証を尽くすことが必要となった。

 

では、控訴審判決において「危険運転致死傷罪の成立は是認できる」などと判断されたことはどう考えるべきか。

ここで重要なのは、控訴審判決において「「一審判決が認定した事実関係のもとでは」因果関係を認められる(=危険運転致死傷罪が成立する)とした」という点である。

これは逆から言えば、「一審判決が認定した事実以外の事実をも考慮すれば、危険運転致死傷罪の成立は否定されるかもしれない」ということである。

 

裁判というのは、事件を神の視点から見て判断するものではない。

日本の刑事裁判は、検察官と弁護人がそれぞれの立場から証拠を出し、裁判官(裁判員)はあくまでも法廷に出てきた証拠のみに基づいて判断する。

したがって、当事者がどのような証拠を出すかによって、同じ事件でも結論は変わる。

今回の事件でも、今後行われるであろう差し戻し審の裁判員裁判において、危険運転行為と被害者の死傷結果との因果関係について当事者がさらなる主張立証を尽くすことで、危険運転致死傷罪が成立するかどうかは全くわからないということである。

控訴審はそのためにこの裁判を第一審に差し戻したということである。

 

つまり差し戻し審においては、石橋氏の量刑だけが争点なのではなく、あらためて危険運転致死傷罪が成立するかどうかが正面から争われることになるのであろう。

本日の第1回公判において、裁判長が公判前整理手続の結果顕出として本件の争点について整理した内容は以下のとおりです。

 

争点は2つ。

①被告人がAさんに刑法177条所定の「暴行」を加えたか?

②性交について被告人がAさんの合意があると誤信することはなかったか?

 

①について、刑法177条(強制性交等罪)の「暴行」というのは、最高裁判例によって「被害者の抗拒(反抗)を著しく困難ならしめる程度のものであれば足りる」とされています。

つまり、新井氏が「被害者(Aさん)の反抗を著しく困難ならしめる程度の暴行」を加えたと言えるかどうかが争点とされています。

 

②について、私たちは性交についてAさんの合意があったと主張していません。合意があったと誤信していたと主張しています。

「合意があった」という主張と、「合意があったと誤信していた」との主張は意味合いが全く違います。

 

本日の新井氏の起訴状に対する意見陳述も同じ趣旨で述べたものです。

 

しかし本日のマスコミ報道の多くは、「同意があった」との主張をしたかのようなものでした。

(1つ1つの記事を列挙することも考えましたが、余りに数が多いためそれはしません。)

しかしこれらはすべて誤報です。

 

誤った報道がなされることにより、さまざまな誤解が生ずる危険があります。その誤解は取り返しのつかない不利益をもたらすことがあります。

報道の威力はみなさんが想像しているよりも遙かに大きいものです。正しい報道をしていただきますようお願いいたします。

なぜ刑事弁護をやっているのか、なぜ悪人の弁護をするのか。

幾度となく問われるこの問いに対する私なりの答えは、「自由を守るため」です。

 

刑罰は、国家による権力侵害行為の最たるもの。

死刑は、国家による殺人。

懲役は、国家による市民の身体的自由の強制的強奪。

 

実際に犯罪を犯した人であろうと、犯していない人であろうと、国家から生命、身体、財産の自由を強制的に奪われそうになっている人の「国家からの自由」を守りたい。

これが私が刑事弁護をやっている、悪人の弁護をやっている理由の”核”となる部分です。

 

たとえ犯罪を犯した人であっても、国家から自由でありたいと思う心は誰にも否定できない、私にはそういう思いがあります。

 

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ここ数日、「表現の自由」という言葉が飛び交っています。

表現の自由というのは、クソみたいなものだろうがなんだろうが表現をするのは自由ということなんだと思います。

表現の内容について干渉されない、これが表現の自由の根幹です。

 

あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」の中止について、表現の自由への干渉だとかなんだとかさまざまな言説が飛び交っています。

今回問題となった展示が、「平和の少女像」であったりしたこともあってか、いわゆる「左派」と呼ばれる人たちが、この公開中止について「表現の自由への干渉だ」などと意見を述べているように見えます。

 

私はこういう報道を見ると、どうしてもヘイトスピーチ問題への対応を考えずにはいられません。

ヘイトスピーチ問題については、在日コリアンがターゲットとなり、在日コリアンを攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動が繰り広げられています。

そしてこのようなヘイトスピーチに対して、表現行為そのものを対象に刑事罰を定める条例もいま検討されています。

https://news.nicovideo.jp/watch/nw5746611

 

私は在日コリアンです(私の定義では、日本に帰化して日本国籍を取得しても、在日コリアンです)。

このヘイトスピーチ問題、まさに私や私の家族、私の周りの友人たち、同胞たちがターゲットになっています。

そしてこの問題に対して、非常に精力的に行動している仲間がたくさんいます。

 

私はそれでもヘイトスピーチについて現行の法律による規制(刑罰法規もそうだし、民事上の不法行為責任もそうです)に加えて、表現行為の内容に着目した形での規制にはどうしても賛成できないんです。

たしかにヘイトスピーチだけを見れば、このような表現は駆逐されるべきだと思います。

しかしそれでも、表現行為そのものに着目して規制をするということをやってしまうと、結果的には私たちの自由(表現の自由を含めて)を狭めることになってしまうのではないか、というのが私の意見なのです。

 

おそらく在日コリアンの中でこういう考えは少数派なのだと思います。

それは私が直接的にヘイトスピーチのターゲットになっていないからだからかもしれません。

ですが、私は自由を守るということの価値は大きいと思っています。

 

そして、今回の「表現の不自由展・その後」の中止問題。

今回、表現の自由への不当な干渉だと言っている人たちの中には、ヘイトスピーチについて、その表現内容に着目した形での規制に賛成していた人たちがいると思います。

これを整合的に説明することはできるのかもしれません。しかしやはり自由を守る刃は鈍ってしまうのだと感じずにはいられません。

 

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そして実に深刻だなと思うのは、このような表現の自由について、為政者たちの理解があまりに稚拙だということが暴露されたことです。

 

河村たかし名古屋市長:

「河村氏は芸術祭が、名古屋市も経費を負担し文化庁も関与する公的な催しだと指摘。慰安婦を象徴する少女像の展示は「『数十万人も強制的に収容した』という韓国側の主張を認めたことになる。日本の主張とは明らかに違う」」

https://this.kiji.is/530378433990181985?c=39550187727945729

 

松井一郎大阪市長:

「税金投入してやるべき展示会ではなかった。実行委員長の大村知事が内容を精査すべきだったのでは。表現の自由とはいえ、単なる誹謗中傷的な展示はふさわしくない。朝日新聞自体が謝罪した、デマの象徴である慰安婦像を、行政が展示すべきではない」

https://twitter.com/news_ewsn/status/1158223088657604608

 

吉村洋文大阪府知事:

「ちょっと待て。なんで河村市長が悪者になってるんだよ。愛知県知事が実行委会長の公共イベントでしょ。民間事業に公共が介入したんじゃなくて、愛知県が中心に主催する公共事業なんだよ。そこで慰安婦像設置や国民の象徴の天皇の写真を焼いて踏みつけるはないでしょ。」

https://twitter.com/hiroyoshimura/status/1158231844799692805

 

原口一博国会議員:

「聖書やコーランを火にくべることが何を意味するのか。日本人が大切にしているものを燃すことが何を意味するのか。表現の自由、芸術の名の下に許されていいのか?表現の自由といえども人々の心を傷つけることまで容認されていいのか?私は許されていいとは思いません。抗議の声をあげるのは当然です。」

https://twitter.com/kharaguchi/status/1158071291057823744

 

(あえて自民党議員は外しました。キリがないので。)

 

これらの為政者たちの言葉には、「表現の場を提供する=主催者がその表現を正しいものと考えている」という暗黙の前提が含まれているように思われます。しかしこれは大きな誤りです。

 

福井健策弁護士によれば

「私の考える表現の自由とは、全く誤っており悪趣味だと思う言論でも、表現の場までは奪わず、言論をもって対抗する社会の約束をいう。我々は不完全で誤りやすい存在なので、ある時代に悪趣味で挑発的と見えても、次の世代や他者のために情報の多様性は残しておく、歴史の知恵だ。」

https://twitter.com/fukuikensaku/status/1157809196118601728

 

そして、大村秀章愛知県知事:

「行政、国、県、市。公権力を持ったところだからこそ、表現の自由は保障されなければならない。そうじゃないんですか。税金でやるからこそ、表現の自由は保障されなければいけない。この内容は良くて、この内容はだめだと言うことを、公権力がやることは許されていないのではないでしょうか。国だけじゃなく、県も市も、公権力が、この内容は良くてこの内容はだめだと言うのは、憲法21条からして、違うのではないでしょうか」

 「『国の補助金をもらうんだから国の方針に従うのは当たり前だろ』と平気で書いておられる方がいますけど、皆さん、どう思われますか、これ。本当にそう思いますか。私は全く正反対だと思います。税金でやるからこそ、表現の自由、憲法21条はきちんと守られなければいけないんじゃないでしょうか」

https://digital.asahi.com/articles/ASM854H8QM85OIPE00T.html?_requesturl=articles%2FASM854H8QM85OIPE00T.html&rm=1372

 

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さて、私が一番好きな映画の一つに「ショーシャンクの空に」という映画があります。

 

 

一言で言うならば脱獄劇です。

この映画の設定では、主人公は冤罪被害者です。この冤罪被害者が刑務所に収監され、そして脱獄して自由を獲得する映画です。

 

この映画は日本でもとても人気があると思います。

なぜ人気があるのか?

冤罪の主人公が自由を獲得するからでしょうか?

冤罪の人がその疑いを晴らして自由を獲得するというストーリーならば、他にもすばらしい映画はたくさんあります。

例えば、「真昼の暗黒」という映画があります。

 

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これは、単独犯の犯人が自らの罪を軽くするために知り合い4人を共犯者に仕立て上げた「八海事件」という実際の大事件を題材にした映画です。

 

ショーシャンクの空にの主人公がやったことは、日本の法律で言うならば「加重逃走罪」です。

冤罪被害者であったとしても、裁判で有罪判決を受けて収監中に、壁に穴を開けて脱獄すれば犯罪です。

もし、このショーシャンクの空にの主人公が冤罪被害者ではなく、本当に何らかの罪を犯した人だったら、人々はこの映画に感動しないのでしょうか。

 

私がこの映画が好きなのは、刑務所というまさに国家による人権侵害の現場から、1人の人が自らの力で逃れ、そして自由を獲得するところに惹かれるからです。

主人公が冤罪被害者かどうかは私にはあまり関係ない気がしています。

 

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あらためて「自由」について私たちはしっかりと考えるときが来ている気がしています。

憲法改正が一歩一歩と近づいている今こそ、自由の価値を考える必要があります。

一度失った自由を取り戻すことは至難の業です。