裁判の結果は証拠によって変わる――東名高速の事件から | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

東名高速の事件、世間の関心は高くテレビ新聞等々でも大々的に報じられているが、どれも正確ではない。

 

読売新聞

公判では同罪が適用されるかどうかが争点となり、昨年12月の地裁判決は、危険運転に該当するあおり運転と事故との因果関係を認め、同罪の成立を認定。6日の高裁判決も「被告のあおり運転は、重大な事故を引き起こす高度の危険性を内包していた」などと認めた。

(中略)

その上で、高裁判決は、地裁が裁判員との評議の結果、当初の見解を変更したことを弁護側に伝えず、反証の機会を与えなかった対応を「不意打ちで、違法だ」と指摘。「危険運転致死傷罪が成立しうることを前提に、改めて裁判員裁判で審理と評議を尽くすべきだ」と結論付けた。

 

毎日新聞

高裁は危険運転致死傷の成立については「是認できる」として否定しなかったが、危険運転致死傷の成立を巡って公判前整理手続きで弁護人に適切な主張の機会を与えなかった手続き違反があると指摘。「改めて裁判員裁判で審理を尽くすのが相当」と述べた。

 

朝日新聞

判決はまず、一審と同様に被告の「停車行為」は同罪が規定する危険運転に含まれないとした。だが、被害者が停車せざるを得なくなったのは被告のあおり運転によるもので、停車から2分後に追突してきた大型トラックの運転手の過失も大きくないと指摘。「あおり運転」と追突事故との因果関係を認めた。

(中略)

 手続きの違法が量刑の判断などに影響を与えた可能性があるとして、裁判員裁判をやり直すべきだと結論づけた。

 

NHK

6日の2審の判決で東京高等裁判所の朝山芳史裁判長は「被告の妨害運転によって被害者は高速道路に車を止めるという極めて危険な行為を余儀なくされた。一連の行為と結果との因果関係を認めて、危険運転の罪を適用した1審の判断に誤りはない」として、1審に続いて危険運転の罪に当たるという判断を示しました。

 

これらの報道を見ると、高裁も危険運転致死傷罪を認めるという判断をしながら、差し戻し審でもう一度裁判をするってどういうことだ?という疑問がわく。

差し戻し審は裁判員裁判で、裁判員は危険運転致死傷罪が成立するという結論を決められながらなんの裁判をするんだ?そんな裁判員裁判をやる意味はあるのか?など思う人もいるかもしれない。

 

上に列挙した記事の中では朝日新聞が最も判決を正確に伝えている(それでもカンペキではない)が、今回の高裁の判断はこういうことだ。

  1. 今回の運転行為のうち、相手の車を路上に停止させるまでの”あおり運転行為”が、法律上の危険運転に該当するという判断は正しい(なお、このことはおそらく弁護人も争っていないはず)。
  2. 被告人が、相手の車の直前で自車を停止させた行為自体は法律上の危険運転行為の要件を満たさない(危険運転行為は法律上速度の要件があり、停止させること自体はそれを満たさない)
  3. その上で、危険運転とされる”あおり運転行為”そのものと、死傷の結果との間の因果関係が認められるかというこの事件の最大の争点について、「一審判決が認定した事実関係のもとでは」因果関係を認められる(=危険運転致死傷罪が成立する)とした。
  4. (そのこととは別に)第一審の公判前整理手続において裁判所が(まだ裁判員と一緒に裁判をやる前から)「本件では危険運転致死傷罪の成立を認めることはできないものと判断した」と表明したことが違法であり、そのように言いながら判決で危険運転致死傷罪を認めたことは不意打ちであり違法だとした。

危険運転については、危険運転によって人が死傷したことを処罰する「危険運転致死傷罪」という罪しかなく、危険運転行為そのものは(少なくとも現時点では)罪となっていない。

つまり、危険運転行為と死傷結果との間に「因果関係」が認められなければ罪を問うことができない。

なお、現在あおり運転行為そのものを罪に問うことが国会で検討されているようである

 

つまり、この事件の最大の争点は、石橋氏の運転行為が危険運転かどうかではなく、被害者が死傷した結果も含めて石橋氏に危険運転致死傷罪を問えるかどうかということ。言い換えれば、石橋氏の危険運転行為と、被害者の死傷結果との間に法的な因果関係を問えるかどうかということである。

 

この法的な因果関係を問えるかどうかを検討する上で重要なのは、被害車両に追突したトラックの過失なのだろう。この事故では、トラックが本来通行してはいけない通行帯を走行しており、さらに他の過失もあったのかもしれない。

このトラックの過失が大きければ大きいほど、被害者の死亡結果は石橋氏の危険運転によるものではなく、トラックの過失によるものという評価が可能となる。

 

ところが、第一審では、公判前整理手続の段階で裁判所が早々に「本件では危険運転致死傷罪の成立を認めることはできないものと判断した」と言ったことから、一審弁護人は当然この裁判所の言及を信用し、危険運転行為と被害者の死傷結果との間の因果関係についての主張、立証を十分にできなかったというのようだ。だからこそ「不意打ち」として裁判を一審に差し戻して、あらためて十分に主張、立証を尽くすことが必要となった。

 

では、控訴審判決において「危険運転致死傷罪の成立は是認できる」などと判断されたことはどう考えるべきか。

ここで重要なのは、控訴審判決において「「一審判決が認定した事実関係のもとでは」因果関係を認められる(=危険運転致死傷罪が成立する)とした」という点である。

これは逆から言えば、「一審判決が認定した事実以外の事実をも考慮すれば、危険運転致死傷罪の成立は否定されるかもしれない」ということである。

 

裁判というのは、事件を神の視点から見て判断するものではない。

日本の刑事裁判は、検察官と弁護人がそれぞれの立場から証拠を出し、裁判官(裁判員)はあくまでも法廷に出てきた証拠のみに基づいて判断する。

したがって、当事者がどのような証拠を出すかによって、同じ事件でも結論は変わる。

今回の事件でも、今後行われるであろう差し戻し審の裁判員裁判において、危険運転行為と被害者の死傷結果との因果関係について当事者がさらなる主張立証を尽くすことで、危険運転致死傷罪が成立するかどうかは全くわからないということである。

控訴審はそのためにこの裁判を第一審に差し戻したということである。

 

つまり差し戻し審においては、石橋氏の量刑だけが争点なのではなく、あらためて危険運転致死傷罪が成立するかどうかが正面から争われることになるのであろう。