なぜ刑事弁護をやっているのか、なぜ悪人の弁護をするのか。
幾度となく問われるこの問いに対する私なりの答えは、「自由を守るため」です。
刑罰は、国家による権力侵害行為の最たるもの。
死刑は、国家による殺人。
懲役は、国家による市民の身体的自由の強制的強奪。
実際に犯罪を犯した人であろうと、犯していない人であろうと、国家から生命、身体、財産の自由を強制的に奪われそうになっている人の「国家からの自由」を守りたい。
これが私が刑事弁護をやっている、悪人の弁護をやっている理由の”核”となる部分です。
たとえ犯罪を犯した人であっても、国家から自由でありたいと思う心は誰にも否定できない、私にはそういう思いがあります。
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ここ数日、「表現の自由」という言葉が飛び交っています。
表現の自由というのは、クソみたいなものだろうがなんだろうが表現をするのは自由ということなんだと思います。
表現の内容について干渉されない、これが表現の自由の根幹です。
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」の中止について、表現の自由への干渉だとかなんだとかさまざまな言説が飛び交っています。
今回問題となった展示が、「平和の少女像」であったりしたこともあってか、いわゆる「左派」と呼ばれる人たちが、この公開中止について「表現の自由への干渉だ」などと意見を述べているように見えます。
私はこういう報道を見ると、どうしてもヘイトスピーチ問題への対応を考えずにはいられません。
ヘイトスピーチ問題については、在日コリアンがターゲットとなり、在日コリアンを攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動が繰り広げられています。
そしてこのようなヘイトスピーチに対して、表現行為そのものを対象に刑事罰を定める条例もいま検討されています。
https://news.nicovideo.jp/watch/nw5746611
私は在日コリアンです(私の定義では、日本に帰化して日本国籍を取得しても、在日コリアンです)。
このヘイトスピーチ問題、まさに私や私の家族、私の周りの友人たち、同胞たちがターゲットになっています。
そしてこの問題に対して、非常に精力的に行動している仲間がたくさんいます。
私はそれでもヘイトスピーチについて現行の法律による規制(刑罰法規もそうだし、民事上の不法行為責任もそうです)に加えて、表現行為の内容に着目した形での規制にはどうしても賛成できないんです。
たしかにヘイトスピーチだけを見れば、このような表現は駆逐されるべきだと思います。
しかしそれでも、表現行為そのものに着目して規制をするということをやってしまうと、結果的には私たちの自由(表現の自由を含めて)を狭めることになってしまうのではないか、というのが私の意見なのです。
おそらく在日コリアンの中でこういう考えは少数派なのだと思います。
それは私が直接的にヘイトスピーチのターゲットになっていないからだからかもしれません。
ですが、私は自由を守るということの価値は大きいと思っています。
そして、今回の「表現の不自由展・その後」の中止問題。
今回、表現の自由への不当な干渉だと言っている人たちの中には、ヘイトスピーチについて、その表現内容に着目した形での規制に賛成していた人たちがいると思います。
これを整合的に説明することはできるのかもしれません。しかしやはり自由を守る刃は鈍ってしまうのだと感じずにはいられません。
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そして実に深刻だなと思うのは、このような表現の自由について、為政者たちの理解があまりに稚拙だということが暴露されたことです。
河村たかし名古屋市長:
「河村氏は芸術祭が、名古屋市も経費を負担し文化庁も関与する公的な催しだと指摘。慰安婦を象徴する少女像の展示は「『数十万人も強制的に収容した』という韓国側の主張を認めたことになる。日本の主張とは明らかに違う」」
https://this.kiji.is/530378433990181985?c=39550187727945729
松井一郎大阪市長:
「税金投入してやるべき展示会ではなかった。実行委員長の大村知事が内容を精査すべきだったのでは。表現の自由とはいえ、単なる誹謗中傷的な展示はふさわしくない。朝日新聞自体が謝罪した、デマの象徴である慰安婦像を、行政が展示すべきではない」
https://twitter.com/news_ewsn/status/1158223088657604608
吉村洋文大阪府知事:
「ちょっと待て。なんで河村市長が悪者になってるんだよ。愛知県知事が実行委会長の公共イベントでしょ。民間事業に公共が介入したんじゃなくて、愛知県が中心に主催する公共事業なんだよ。そこで慰安婦像設置や国民の象徴の天皇の写真を焼いて踏みつけるはないでしょ。」
https://twitter.com/hiroyoshimura/status/1158231844799692805
原口一博国会議員:
「聖書やコーランを火にくべることが何を意味するのか。日本人が大切にしているものを燃すことが何を意味するのか。表現の自由、芸術の名の下に許されていいのか?表現の自由といえども人々の心を傷つけることまで容認されていいのか?私は許されていいとは思いません。抗議の声をあげるのは当然です。」
https://twitter.com/kharaguchi/status/1158071291057823744
(あえて自民党議員は外しました。キリがないので。)
これらの為政者たちの言葉には、「表現の場を提供する=主催者がその表現を正しいものと考えている」という暗黙の前提が含まれているように思われます。しかしこれは大きな誤りです。
福井健策弁護士によれば
「私の考える表現の自由とは、全く誤っており悪趣味だと思う言論でも、表現の場までは奪わず、言論をもって対抗する社会の約束をいう。我々は不完全で誤りやすい存在なので、ある時代に悪趣味で挑発的と見えても、次の世代や他者のために情報の多様性は残しておく、歴史の知恵だ。」
https://twitter.com/fukuikensaku/status/1157809196118601728
そして、大村秀章愛知県知事:
「行政、国、県、市。公権力を持ったところだからこそ、表現の自由は保障されなければならない。そうじゃないんですか。税金でやるからこそ、表現の自由は保障されなければいけない。この内容は良くて、この内容はだめだと言うことを、公権力がやることは許されていないのではないでしょうか。国だけじゃなく、県も市も、公権力が、この内容は良くてこの内容はだめだと言うのは、憲法21条からして、違うのではないでしょうか」
「『国の補助金をもらうんだから国の方針に従うのは当たり前だろ』と平気で書いておられる方がいますけど、皆さん、どう思われますか、これ。本当にそう思いますか。私は全く正反対だと思います。税金でやるからこそ、表現の自由、憲法21条はきちんと守られなければいけないんじゃないでしょうか」
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さて、私が一番好きな映画の一つに「ショーシャンクの空に」という映画があります。
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一言で言うならば脱獄劇です。
この映画の設定では、主人公は冤罪被害者です。この冤罪被害者が刑務所に収監され、そして脱獄して自由を獲得する映画です。
この映画は日本でもとても人気があると思います。
なぜ人気があるのか?
冤罪の主人公が自由を獲得するからでしょうか?
冤罪の人がその疑いを晴らして自由を獲得するというストーリーならば、他にもすばらしい映画はたくさんあります。
例えば、「真昼の暗黒」という映画があります。
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これは、単独犯の犯人が自らの罪を軽くするために知り合い4人を共犯者に仕立て上げた「八海事件」という実際の大事件を題材にした映画です。
ショーシャンクの空にの主人公がやったことは、日本の法律で言うならば「加重逃走罪」です。
冤罪被害者であったとしても、裁判で有罪判決を受けて収監中に、壁に穴を開けて脱獄すれば犯罪です。
もし、このショーシャンクの空にの主人公が冤罪被害者ではなく、本当に何らかの罪を犯した人だったら、人々はこの映画に感動しないのでしょうか。
私がこの映画が好きなのは、刑務所というまさに国家による人権侵害の現場から、1人の人が自らの力で逃れ、そして自由を獲得するところに惹かれるからです。
主人公が冤罪被害者かどうかは私にはあまり関係ない気がしています。
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あらためて「自由」について私たちはしっかりと考えるときが来ている気がしています。
憲法改正が一歩一歩と近づいている今こそ、自由の価値を考える必要があります。
一度失った自由を取り戻すことは至難の業です。