【軍師官兵衛ゆかりの地】

 

【どうする家康ゆかりの地】

 

さるる的にいままで好きじゃなかった武将

【藤堂高虎】

 

司馬遼太郎の作品ではさるるが読んだ範囲では

【藤堂高虎は要領のいい嫌なヤツ!】な描かれ方でした。

さるるもその影響を多分に受けたことは否定すまい♪

しかし歴史ヒストリアをしていくと藤堂高虎の名前はいろいろ出てくる。

え?このお城も藤堂高虎が造ったの!?みたいな・・・・。

藤堂高虎ね~・・・・ふ~ん・・・・。

 

【主君が変わるとか印象が悪いわ】

浅井長政阿閉貞征磯野員昌津田信澄豊臣秀長秀保秀吉秀頼徳川家康

 

でも戦国時代

生き残ることこそ至上命題であるわけだし

サムライのくせに忠誠心ないんか?なんて思いがちだけど

主君に忠誠を尽くす、そういったイメージって

どうやら江戸時代ぐらいからっぽくて

戦国時代は主君を変えるってのはそんなに珍しいことではなかったみたい。


んでなんで

黒田官兵衛ゆかりの人物にしたかというと

黒田官兵衛と並び称される築城名人!

 

黒田官兵衛

加藤清正

藤堂高虎

 

築城3名人なんて評されるぐらいだし

ちなみにネットで調べてみたら藤堂高虎が建てた城は

改修やお手伝いを含めると21城!(驚)

 

さるるが行ったお城だけでも

 

出石城、伏見城、宇和島城、伊予大洲城、今治城、伏見城

伊賀上野城、丹波篠山城、和歌山城、大坂城

 

そして今回は【津城】へ!

 

 

現在は公園として整備されて

この櫓だけがお城って感じですねー。

 

 
藤堂高虎は浅井家の仕え
紆余曲折を経て秀吉の弟、秀長に仕えて竹田城の戦いに参加。
そこで武功をあげて足軽大将に出世。
三木城の包囲戦にも参加、一揆などを鎮圧しつつ秀長を支えて
鉄砲大将に出世。
その後も中国遠征、賤ケ岳の戦いと従軍し
 
・・・・って、この段階で
まだ大名じゃなかったんや!?
知らんかったなー。
 
んで紀州、四国と転戦して
ここらへんから1万石の大名になったらしい。
そして秀吉が平定した世の中になり藤堂高虎は秀吉から
聚楽第の敷地内に【徳川家康の屋敷】を造るよう命じられたことで
運命の出会いをすることになりました。
 
徳川家康との出会い
 
この屋敷の設計図は事前に渡されてたらしい。
でも藤堂高虎が設計変更したことを徳川家康に質問された時

警備上の理由で変更しました。
家康様に何かあれば主君の手落ちになるので
変更したけど気に入らんかったら手討ちにして結構です

……みたいなことを
藤堂高虎は家康に言うたらしい
これが徳川家康と藤堂高虎の親交の始まりでした。
んーやっぱり正直と誠意やね( ^ω^ )
 
その後も
九州の戦いで活躍し、伊予宇和島7万石に出世
でも主君の秀長が死んで
秀長の跡継ぎ(甥であり養子)に仕えたけど早世してしまい
高野山に仏門に入ってしまいます。
 
ん?
高野山に入るって
すべてを投げ打つってことやん?
そこらへん忠臣な感じやん。
 
でもその才能を惜しんで
秀吉が高野山にから呼び戻して朝鮮出兵と活躍
朝鮮海軍の殲滅に成功とか
そこらへん韓国ドラマにも藤堂高虎は登場するらしいけど
たぶん極悪人に描かれてるんやろうね、たぶん。
なんせ朝鮮出兵の活躍で大洲8万石にまたまた出世。
 
秀吉の死から藤堂高虎は家康に接近
ここらへんが潔しとしない印象を与えているんやろうけど
もともと親交が家康とあったみたいやし
なんか藤堂高虎を擁護したくなってきてるさるるがおるわ。
 
んで関ケ原
昔の縁もあって西軍の武将を寝返らせることに成功
これで大洲8万石に今治城12万石がプラス
20万石の大名に大出世!
 
さらにさらに出世
 
伊賀上野藩主・筒井定次の改易と
伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封で
今治城周辺の越智郡2万石を飛び地として残しつつ伊賀国内10万石
並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で
藤堂高虎は計22万石に加増移封されて津藩のお殿様になります。
 

高石垣の技術に優れているそうですが

確かに上野伊賀城も石垣が高くて怖いぐらいだったなぁ

 

 

藩校【有造館】の門

 

 

日本庭園をぶらりと歩きました。

 

藤堂高虎は

まだまだ出世していきます。

 

徳川軍として大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣に参戦!

八尾方面において豊臣軍の長宗我部盛親と激戦を繰り広げることに。(八尾の戦い

一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者の損害を出しましたが

この激戦で長宗我部軍を辛くも撃退、実質上の壊滅に追いやり

戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で

5万石を加増され計27万石になりました。

 

津城の隣地【高山神社】には藤堂高虎が祀られています。

(津城跡の公園からも行けました。)

 

 

たぶん藤堂高虎のお墓

(これぐらいしかそれらしきものがなかったん)

 

あ~・・・・

いまから続・100名城とかしんどいわ~。(苦笑)

 

藤堂高虎

さらにさらにさらに出世!

 

新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増

弟である藤堂正高の下総国3000石を津藩領に編入し

これで津藩の石高は計32万3000石!!!!

 

後に田丸5万石は

和歌山城に徳川頼宣が移封されてくると

藤堂家には替地として

大和国と山城国に5万石が与えられました。

 

出世酒、なるほど

藤堂高虎のためにあるような酒やね

 

外様大名でありながら

徳川家康に愛され、信用された武将が藤堂高虎。

「国に何かあれば一番手は藤堂、二番手は井伊に」と

徳川家康が言ったあたり

徳川家の特攻隊長・井伊家を二番手というもの

徳川家康が藤堂家を頼りにしていた証拠であるという逸話もありつつ

さるる的には一番手は損害も多いから藤堂家にさせてるような

そんな懐疑的なさるるもいるわけですが・・・・。

 

しかしながら

藤堂高虎は徳川家康とボーイズラブ的な

そんなエピソードもあります。

 

徳川家康が他界する10日前・・・・。

徳川家康は藤堂高虎に

「世話になったが、来世ではそなたと会えぬのがつらい」と泣いてしまう。

その徳川家康の言葉に藤堂高虎は

「来世でも大御所様に仕えるつもりです。」

「私は日蓮宗ですが、大御所様の宗旨である天台宗に改宗しますから」

「来世でもお仕えすることができます」

・・・・来世でも再会の約束をするとか胸キュンやん♪

 

 

ですが藤堂高虎の子孫は

幕末においてまさかの裏切りィィィィィ!?

一番手どころちゃうやん(涙)

 

 

徳川家康にいじめられ続けたり

豊臣家のことを大事に思い、抵抗を続けた上杉家の子孫は

幕末に最後まで徳川家として戦ったあたり

やはりお家柄というものがあるのかと思ってしまう。

そこらへんを司馬遼太郎は

藤堂高虎をいいように表現しなかった理由なんやろうね。

 

【藤堂高虎ゆかりの地】

兵庫県:朝来市【竹田城】(後編)

兵庫県:三木市【別所氏の首塚と三木城址

兵庫県:洲本市【洲本城】

岐阜県:不破郡関ケ原町【本多忠勝と京極高知と藤堂高虎の陣跡】

和歌山県:和歌山市【陸奥宗光と和歌山城】

愛媛県:宇和島市【宇和島城と高野長英の隠れ家】

家族旅行2019(その4)【今治城】

なかよし旅行2021(和歌山&三重)⑱【伊賀城と松尾芭蕉の生誕地】

 

 

でも藤堂高虎のこと

すごい武将だとさるるは認識を改めたよ。

 

【さるる史観満載の歴史ヒストリアはコチラ!】

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