【幕末維新ゆかりの地めぐり】
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伊予宇和島藩は先進的な藩でした。
当時日本で最も科学技術が優れていたのは佐賀藩であり
ヨーロッパの二流国ぐらいの科学技術がありました。
当時、超兵器であるアームストロング砲をわずかな情報で開発し
上野公園の上野戦争ではその絶大な威力を発揮しますが
それはまた別の機会に・・・・・。

んで
伊予宇和島藩のお話ですが

佐賀藩には及ばなくとも
ある分野では佐賀藩を超越した科学技術を持つことになります。
当時の伊予宇和島藩の藩主は伊達宗城
【幕末の四賢候】のひとりといわれる幕末の英雄の一人であります。


なによりも人材の重要性を認識していた
伊達宗城
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他藩の人間であろうが罪人だろうが
当時は認められていなかった女性の医者だろうが
町人だろうが有能であれば積極的に登用していきます。
大村益次郎も長州藩籍でありながら
伊予宇和島藩の藩政改革、軍事技術、西洋技術の翻訳など
大いに貢献することになります。
(長州藩が、というか桂小五郎が後から必死に取り戻そうとします。)


江戸からも京都からも離れたこの場所、伊予宇和島藩
ここからも日本の革新が始まります。
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宇和島城
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【伊予宇和島藩とは】
1614年、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ
板島丸串城(宇和島城)に入城したことから、宇和島藩が正式に成立しました。
伊達秀宗は戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子で
伊達秀宗は政宗の世子であったが
天下の覇権が豊臣家から徳川家に移り、また政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたこともあって
伊達秀宗は微妙な立場が問題になりました。(ようするに邪魔な存在になった。)
伊達政宗は徳川家に伊達秀宗の身が成り立つように嘆願し
大坂冬の陣で伊達政宗と伊達秀宗がともに徳川方として従軍すると
幕府は伊達政宗の戦功と伊達秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えた。
宇和島藩伊達家は仙台藩の支藩ではなく新規に大名として取り立てられ
徳川秀忠より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ように命じられる。
まあぶっちゃけ
幕府の有力外様大名統制政策の一つで伊達家を東西に分断しすることで
豊臣家に近い伊達秀宗を僻遠の四国に遠ざける必要があったため
・・・・ってのが真実ちゃいますか?


伊達家といえば仙台やけど
その血脈は愛媛県伊予宇和島にも受け継がれました。
ふたつの伊達家・・・・
これは歴史ロマンを感じるよね♪


けっこう登ったよ
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伊予宇和島市を眺めることができる
実質、10万石もなかった小さな藩は殖産産業にチカラ入れました。
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宇和島城の天守閣
(姫路城に比べるとまあ・・・・仕方ありますまい)
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この人の絵って新極真会のポスターにも使用されてるよね
岐阜県垂井町の竹中半兵衛のイラストにも使用されていました。
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伊達宗城は前藩主からの殖産興業を引き継ぎ
らに西欧化を推し進めて富国強兵政策をとっていましたので
幕府から追われている罪人で逃亡中の高野長英も採用しています。
かなり思い切ったお殿様だったようですねえ。


高野長英
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高野 長英】
江戸時代後期の医者・蘭学者
江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死亡します。
シーボルト事件ではシーボルト鳴滝塾で医学・蘭学を学び
その抜きん出た学力から塾頭となっている。
二宮敬作高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが
高野長英はこの時に巧みに逃亡に成功します。
大村益次郎との悲恋の相手、シーボルトの娘であるイネを強姦して
孕ませた石井宗謙とは同門ということになります。
硝酸で顔を焼いて逃亡を続け、最終的には江戸で偽名を用い
医者として生活していたところを町奉行所に踏み込まれ
その時にボコボコにされて死んでしまいます・・・・。


高野長英の潜伏場所が城下にありますが
スマホのナビがなければ辿り着けなかった・・・・・。
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ここが高野長英の潜伏場所
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裏は水路になっており
町奉行所に踏み込まれても逃げれるようにしていたそうです。
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宇和島市は太平洋に近いし
太平洋戦争時は海軍基地もありましたし、豊後水道の防衛の要でもあるので
愛媛県では最多の9回の空襲がありました。
宇和島市は壊滅状態に陥りましたが歴史的資料はほぼ無傷で