姫路出身の天才軍師を主人公にした大河ドラマ
軍師 官兵衛
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豊臣秀吉の播州征伐
後世に語り継がれる「三木の干殺し」があった三木城なのです。
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「三木の干殺し」

別所氏の篭城

三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まり篭城した。この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸篭り(もろごもり)だった。このため多くの兵糧(食料)を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となる。合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城三木通秋などによって兵糧の海上輸送が行われた。別所氏側では、海沿いにある高砂城魚住城などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んだ。
 
これに対し、秀吉は支城攻略の方針を採る。天正6年4月、支城の1つである野口城を落城させるが、同じ頃に毛利氏の大軍が尼子勝久の上月城を包囲する。秀吉は東播磨での展開を一次中断、織田信忠を大将とした軍勢で上月城の救援に向かう。
 
膠着状態が続いたため、織田軍は三木城攻略を優先して書写山まで撤退、7月には毛利氏が上月城を攻略する。毛利氏の目的が上月城の奪還のみであったためか、補給路が伸びきってしまうのを避けるためか、毛利氏はそれ以上東進しなかった。これを受けて織田軍は東播磨での活動を再開、上月城救援のために派遣した軍勢で6月から10月にかけて別所氏の主だった支城を攻略、また、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲のための付城を築く。これによって別所氏は補給が困難になる。
 

兵糧の輸送と阻止

ところが10月、織田氏の武将荒木村重が離反し(有岡城の戦い)、毛利氏について有岡城に立てこもった。荒木村重の領国摂津は、三木城から六甲山地を挟んで南側に位置する。これによって、摂津の港で兵糧を陸揚げ花隈城から丹羽山を越え三木城へという新たな補給路ができる。秀吉の軍師黒田官兵衛が説得に向かったが、村重に捕らえられ有岡城に幽閉された。黒田官兵衛の主君小寺政職が村重に呼応したために取った処置とされる。
 
翌年の天正7年(1579年)2月、一応の補給路は確保されているものの、このままでは兵糧不足に陥ることは明らかで、別所氏はこの局面を打開するために秀吉の本陣平井山へ約3000人を出兵する(平井山合戦)。しかし人数、地形共に別所氏に不利な状況であり、別所長治の実弟別所治定が討死するなど別所側の敗戦となる。
 
5月、秀吉は摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略、これによって再び補給が困難となる。6月、反織田の共同戦線の一角、波多野秀治八上城明智光秀に落とされ、秀治は捕らえられて処刑された。13日、秀吉の部将竹中半兵衛が平井山の陣中で没した。
 
9月、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行される(平田合戦・大村合戦)。毛利氏の補給部隊が秀吉の部将谷衛好の平田陣地を攻略、別所氏側は三木城外の大村付近に出兵する。混戦になるが、別所側は淡河定範など多くの武将が討ち取られ敗戦となり、兵糧の搬入も失敗に終わってしまう。
 
10月、毛利氏側であった宇喜多直家が離反、毛利氏の本国と播磨、摂津の間が分断され、毛利氏による支援が不可能な状況になる。織田氏は降伏勧告を行うが別所氏は拒否する。11月、共同戦線を張っていた荒木村重の有岡城が織田軍に攻略される。
 
天正8年(1580年)1月、三木城内の食料はすでに底をつき「三木の干殺し」状態が続いていた。これをうけて織田軍は三木城内の支城を攻略、残るは本城のみとなる。14日、城主一族の切腹によって城兵の命を助けるという条件がでる。
 
17日、城主一族が切腹、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了する。有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛は家臣に救出され秀吉と再会、一方の小寺政職は御着城を織田軍に落とされ、毛利氏の元へ落ち延びた。この後黒田官兵衛は居城姫路城を秀吉に提供、姫路城は秀吉の居城となった。
 
 
 
 
別所長治・公照子夫人
首塚
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ちなみに、ひでちゃんと車で行ったんですが
ひでちゃんのナビゲートがアバウトだったのと、さるるもさるるで
方向音痴なので姫路から2時間30分もかかった。(笑)
 
 
さるるとひでちゃん
「踊るダメ人間」の歌みたいやねえ。
 
 
 
 
 
天国では夫婦2人でお幸せに・・・・。
(ひでちゃんと手を合わせた。)
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首塚からしばらく歩くと三木城があります。
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三木城は陥落後、後年に廃城され
その資材は明石城に転用されたためか、面影はほとんどありません。
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お城らしい遺跡はないものの
しかしながら、この地で激しい戦いがあって
 
黒田官兵衛、秀吉、竹中半兵衛・・・が活躍した地だと思うと
ロマンを感じずにはいられませんでした。
 
 
 
 
さて、次回はッッッ!
今回の三木城を攻めた秀吉軍の本陣跡に向かいます!
 
 
 
 
 
 
 
《英賀保方面》
 
【兵庫県:姫路市英賀保『英賀港跡』】
 
 
【兵庫県:姫路市飾磨区矢倉町『英賀城跡』 】
 
 
【兵庫県姫路市飾磨区山崎・中浜町『山崎構居と英賀薬師』】
 
 
 
《御着方面》
 
【兵庫県:姫路市御国野町 『御着城址と黒田家廟所』】
 
 
【兵庫県:姫路市御国野町『小寺大明神】』】
 
 
 
《荒川方面》
【兵庫県:姫路市町坪『町坪構居跡五輪塔』】
 
 
【兵庫県:姫路市井ノ口 『湯澤山茶くれん寺』】
 
 
 
《青山方面》
 
【兵庫県:姫路市青山『青山古戦場』】
 
 
 
《妻鹿方面》
 
【兵庫県:姫路市飾磨区妻鹿 『妻鹿城址(国府山城址)前編』】
 
 
【兵庫県:姫路市飾磨区妻鹿 『妻鹿城址(国府山城址)後編』】
 
 
【兵庫県:姫路市飾磨区妻鹿 『母里太兵衛の生誕の地』】
 
 
【兵庫県:姫路市飾磨区妻鹿 『黒田職隆霊廟』】