こんにちは、さとさんです。
「不登校の先にあるもの」で話していて、自分で気づいたこと。
「子どもが変わる」という言葉が…どうやら
大嫌い
なぜだろう?
・「変わる」にネガティブなイメージ
・「変わる」よりも「伸びる」
・父の死以後
・価値観は変わる
私はどうも、「変わる」という言葉に、よくないイメージをかぶせている。
不登校からの海外留学お話会に参加したこひちゃんこと小東真由美さんも、「かわる」ことをブログにしている。
こひちゃんのブログより
お話を聞いて自分の思いを感じてみたら
『かわる』=『きめる』
不登校が始まった頃は変わってほしいと思っていました。
勉強してほしい。
お手伝いしてほしい。
運動してほしい。
それを伝えてましたが言ってもしないし。
何もしないようにみえる日が繰り返され、何かをしてほしいより決めてほしいんだ。
私が何か言わないと行動しない(ように見えてた)のが嫌だったんだ。
それは不登校になる前から思っていた。
「自分で決めれる子になってほしい」
そう思いながら、息子が決めようとしていると口出ししてたんだよね。
ミスらないように、手を出し口を出し。
二択にして無理に決めさせたり。
*それが必要なときもあります。
そう気づけたのは不登校になってから。
こうやって「変わる」のイメージは、人それぞれ違うんだよなー。
ちなみに、「不登校の先にあるもの」で一緒に運営しているみょんちゃん(谷川明子)は、「あきらめる」にいいイメージもあると言ってた。
言葉の捉え方っていうのはおもしろい。
私の思い込みが激しいところなんだろうな。
子どもは、どの子も面白く、ひとり一人輝くものを持っているものだ。
なので、その子を変えてしまったら、良さが消えてしまう。
だから、「変わる」にいいイメージがない。
あえて言うなら、「伸びる」の方がすきだ。
学童保育でいろんな遊びをしていたとき、知らない間に学校中の遊びが学童保育の遊び方になっていたのに気づいて、恐さを感じたことを覚えている。
自分の影響で「変わる」という現実を前にして、たじろぐ感じだ。
そうだなー、この感覚は大人に対してもある。
自分の影響で目の前に人が変わるのも、どこか恐さがある。
変わったかどうかなんて、本人でさえもわからないかもしれないのにね…
ここまで書いてきて、ふと思い浮かんだことがあった。
父親が5年の時に他界したあと、自分で何も変わってない気でいたが、友人関係がガラッと変わった。
それは中学生に入って、さらに強く感じるようになる。
父の死後の1年間は、母親も「やっぱりおかしかったと思うよ」って、言ってたしなー。先生からも、言われてたみたい。ぼーっとすることが増えたって。
割と集団で遊ぶことも好きだったが、集団に所属することに、拒否感もあったような気がするな…
周りからは「変わった」と思われてたかもしれない。
でも、この間同窓会に行ったとき、こんなことを言ったやつがいた(笑)
「さとしは、ちょっと変わった価値観だったからなー、こいつは将来何かするに違いないって思ってたよ」
「何か=パフォーマー」を差してたけどね。
今まで遊んでいた友達とぱったり遊ばなくなって、もっと変わり者っぽい友達が増えた気がするな。
どうやら、ワシの人生には「変わる」というキーワードがついて回っていたんだな。
変わることで、人生が明るくなる人もいる。気づいたら、自分はかわったんだなーと感慨深くなる人もいる。
そう思っているのは、まさに自分自身だったりする。
私が変わるきっかけになった人の顔が、数人思い浮かぶもんなー。
人は変わっていいし、子どもだって変わった結果楽しくなることもたくさんある。
それは私から見れば、その子どもに元々備わっていたものとして、当然のように映る。
もしかすると、これは…
特殊能力だな
「不登校の先にあるもの」で皆さんの話を聞いたり、私が話したりすることで、いろんなことが見える。
それまで当たり前だと思っていたことは、全然当たり前じゃなかったと気づくこともたくさんある。
これはどのコミュニティーでも言えて、たくさんの価値観に触れ、自分の価値観を見つめ直し、思い込んでいたことに気づいたのなら、違うかもしれないと気づくだけで、物事は変わっていく。
価値観は人それぞれだし、どの価値観もそれでいい。
なんなら、価値観はそのときそのときで変わっていってもいい。
アップデートしていくこともあれば、もしかしたらダウングレードもあるかもしれない。
だけど、それ自体はいいも悪いもなく、ただそう思っていると自分で受け入れられればそれでいい。
かたくなに守りたい価値観もあるだろう。
たった一言で揺らぐ価値観もあるだろう。
もし、その価値観が生きにくくしているなら、それ自体に気づくことは、大きな変化になるんだな。
「変わる」という言葉に執着するくせに、変化が大好きなワシは…
変わり者だ