流離の翻訳者 青春のノスタルジア -17ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

何気ない他人の言葉が自分の人生を大きく変えてしまうことは確かにある。

 

何気ないというわけではないが、40歳になったばかりの頃に受診したカウンセリングで女性カウンセラーが発した「何か好きなことを始めてみたらどうですか?」というひと言。これが私の英語再勉強のきっかけとなった。

 

当時は「千里の道も一歩から」の心境だったが、プライドも何もかもかなぐり捨てての傷だらけのスタートとなった。あれから25年。あの言葉がなければ今の自分は無い。

 

 

少し古い問題だが、その当時の自分を思い起こさせてくれる問題である。

 

 

(問題)

次の日本文の意味を英語で表せ。

 

人生の流れは、何気ない他人の言葉がきっかけとなって、その方向を180度変えてしまうことがある。その小さなひと言は、時間が経てば経つほど光を増し、自分の人生に燦然とした輝きを添える言葉だったことに気付かされる。

(大阪大学(文学部以外)・1995年)

 

 

(拙・和文英訳) 

Speaking of the course of human life, other people’s casual words can sometimes serve as a trigger for a change of its direction by 180 degrees. We often notice that such small words became brighter as time went by, and they were the very words that could add a brilliant sparkle to our life.

 

英語に as cool as a cucumber というイディオムがある。文字通りの意味は「きゅうりのように冷たい」だが、転じて「落ち着き払って、涼しい顔で」の意味になる。

 

He faced the tribunal as cool as a cucumber.

彼はとても冷静に(涼しい顔で)裁判に臨んだ。

 

「きゅうり=冷たい」はまだ理解できるが、「きゅうり=冷静」は日本人にはよくわからない感覚だ。英語特有のものだろう。

 

 

以下の問題は「虹の色の数」が、言語(国)により異なることをテーマとしている。例えば韓国・オランダ・日本では赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の7色アメリカ・イギリスでは赤、橙、黄、緑、青、紫の6色中国・フランス・ドイツ・メキシコでは赤、黄、緑、青、紫の5色、またロシア・アフリカ、東南アジア諸国では赤、黄、緑、黒の4色となっている。

 

意外な話だが「虹の色の数=7色」は、日本だけの社会通念(常識)に過ぎないということである。

 

 

(問題)

次の日本文の下線部の意味を英語で表せ。

 

虹にはいくつの色があるかと日本人に尋ねれば、7に決まっているさという答えが返ってくるだろう。だが世界のいろいろな言語を視野におくと、この問いに対する答えは、実は思ったほど簡単ではないのである。

空にかかる美しい虹の色の数は言語により異なるのだ、ということを知っている人は今でも少ない。

(鈴木孝夫『日本語と外国語』)

(大阪大学・2001年)

 

 

(拙・和文英訳)

If you ask a Japanese how many colors there are in a rainbow, he will tell you that it is seven, of course. However, from the viewpoint of various languages in the world, the answer to this question is actually not as simple as we expect.

Strange to say, there are few people still now who know the fact that the number of colors in a beautiful rainbow in the sky varies from language to language.

 

 

今日は春らしい陽が差していたのでダウンを脱いで外出したら、早春の清々しい空気の中で風が冷たかった。冬の間、縁側の廊下に退避させていた多肉植物を再び庭に出した。これで縁側もスッキリしあとは春を待つばかりとなった。

 

上洛の日が近づいており新幹線の切符を手配した。15年半ぶりの京都や大学の周辺はどう変わっているのか?友人とゆっくりと会えるのも楽しみだ。

 

友人たちによく言われるのが私は「記憶がいい」そうだ。大切な事よりは「妙な事」を覚えているようである。「そんな事よく覚えとんなっ!?」とよく言われる。不思議なことに頭の中にその時の情景がなんとなく浮かぶのだ。

 

でもそんな驚異的な記憶力も昨今衰えてきたようである。やはり歳のせいだろうか。そんな「妙な事」は努めてブログに残すようにしているが、「ブログに書けば忘れていい」と脳が命令しているのかもしれない。

 

以下の問題は「記憶の不思議」に関するものである。自分なりに咀嚼したつもりだが、スッキリと訳せない日本語も多かった。

 

 

(問題)

IV.次の日本文(B)の意味を英語で表しなさい。

 

(B)

思い出とは不思議なものである。強烈な出来事だけが記憶として残るのかと思えば、どこでつけたか分からないひっかき傷のような些細なことが、忘れかけたころにふと思い出される。それでなくても五感に刻み込まれた記憶は、閉じ込めようとしても何かの拍子に触発されて、鮮やかに蘇ってくる。

(津田晴美『毎日が旅じたく』筑摩書房)

(大阪大学 文学部・2009年)

 

 

(拙・和文英訳)

Memories are mysterious. Only intense events sometimes remain as memories, however, trivial things like scratches that you wouldn’t know where you put them are, from time to time, suddenly remembered when you almost forget them. In the cases other than such trivial things, the memories engraved in your five senses will be inspired by some chance and will revive vividly even if you try to seal them off.

 

東日本大震災からはや13年、時の流れは速いものだ。当時は翻訳者として3年目、まだまだ右も左もわからない状態だった。翻訳会社の正社員となって半月足らず、確定申告に行ったその日の午後に大地震は発生した。

 

今にして思えば13年間あっという間だったように感じる。一登録翻訳者から正社員となりマネージャーへ。チェッカーを経て営業兼コーディネーターへ。さらに部門責任者へ。翻訳・通訳業務の全般をコーディネートすることができた。こんな貴重な業務が経験できたのは幸せだったと思う。

 

 

私のブログは懐古的な記事が多い。気がつけばいつも思い出ばかりを語っている。以下の問題は「過去を背負って生きること」をテーマとしている。

 

かなり意訳になってしまったが、問題文を読んで思うのは今の自分を100%に肯定できる人など果たしているのだろうか、ということである。

 

 

(問題)

次の日本文の下線部の意味を英語で表しなさい。

 

過去を背負って生きざるを得ないのが人間だ。過去の積み重ねがいまの自分なのだから、過去から逃げ出していまの自分を語ることなどできない。もしいまの自分を肯定できない人は、過去の出来事についても後悔ばかりが思い出されるのではないだろうか。反対に、いまの自分を肯定できる人は、過去の出来事についても受け入れられるのではないだろうか。人間とはおもしろいもので、そのときどんなに苦しんだことでも、時間が経つと「なぜ、あんなにつらかったのだろう」と思うから不思議だ。たぶん、いまの自分を肯定できるから、過去の自分も肯定できるのだ。それどころか、つらい経験も「あのつらい経験があるからこそ、いまの充実した自分があるのだ」と思えるのである。

(斎藤茂太『自分らしく生きて、死ぬ知恵』)

(大阪大学 文学部・2013年)

 

 

(拙・和文英訳)

It is human beings who have no choice but to live with the past. Since the accumulation of the past constitutes what a person is now, he cannot run away from the past and talk about what he is now. A person who cannot affirm what he is now seems to remember only regrets about his past events. On the other hand, a person who can affirm what he is now is thought to be able to accept his past events. Human beings are interesting. No matter how hard a time he may have at that time, it is strange that he will think after a while, “Why was it so hard then?” Probably, because a person can affirm what he is now, he can also affirm what he was in the past. On the contrary, even if a person has a hard experience, he can think, “It is because of such a hard experience that I can now enjoy my fulfilling life with what I am now.”

 

今日は久々の快晴。東九州自動車道を通って大分県との県境辺りまで家内とドライブを楽しんだ。

 

途中、道の駅「豊前おこしかけ」で一休み。それから築上郡吉富町の近代化遺産山国橋と佐井川橋へ。その後、ネットで見つけたカフェ“AJITO”で昼食をとった。なかなかお洒落な店だった。

 

川沿いからか花粉も少なく、くしゃみや眼が痒くなることもほとんど無かった。たまにはこんなドライブもいいものだ。

 

 

 

幼い頃は他人から言われた些細なことで悩み苦しんだことも多かった。ただ人間、長く生きているとどんどん図太くなってくる。

 

ここ数年、特にリタイヤしてからはあまり悩まなくなった。ストレスが少なくなったことに反比例してが体重は単調に増加している。それがまたストレスになる。妙な話だ。

 

以下は10年余り前の阪大(外国語学部)の英作文問題である。「心の傷」の癒し方に関するものだが、心の傷は trauma と訳した。「心理療法」では心の傷は癒せないのであろうか?

 

 

(問題)

次の日本文の下線部(1)~(3)の意味を英語で表しなさい。

 

人間は誰しも心のなかに傷をもっている。もっともその傷の存在をあまり意識しないで生きている人もいる。そのような人は一般的に言って、他人の心に傷を負わせる――ほとんど無意識的に――ことが多いようである。

(1)それではその傷はどのようにして癒されるのか。心の傷の癒しは、古来からもっぱら宗教の仕事とされてきた。いろいろな宗教がそれぞれの教義や方法によって、人間の心の癒しを行ってきた。(2)しかし、近代になって人々が宗教を信じがたくなるのと同時に、心理療法という方法によって、心の癒しができると考え、しかもそれは「科学的」な方法でなされると主張する人たちが現れた。(3)そのような「科学」を絶対と信じる人には、それは時に有効かもしれないが、そうでない人には、人間の心が科学的方法で癒されたりするものでないことは、少し考えるとわかることである。

(河合隼雄『中年クライシス』)

(大阪大学 外国語学部・2013年)

 

(拙・和文英訳)

Every human being has a trauma in his or her heart. However, there are some people who live their lives without being aware of the existence of the trauma so much. Generally speaking, such people often inflict a trauma on other people’s heart, almost unconsciously.

(1) Then, how can we heal traumas? Since ancient times, we have been depending exclusively on religion for healing of traumas. Various religions have healed human hearts through their own doctrines and methods. (2) However, in modern times, people have become increasingly incredulous about religion, at the same time, there have been some people who believe that psychotherapy can heal human hearts and insist that it can be done in a “scientific” way. (3) For those who believe that such “science” is absolute, such psychotherapy may sometimes be effective, but for those who do not, it is clear that the human hearts cannot be healed by such scientific methods.

昨日は市内の中学校の卒業式だったらしい。車で街を走ると生徒よりは正装した親たちの姿が目立っていた。

 

必要に迫られてスーツを誂えに行ったが、フレッシャーズ(新入社員)のシーズンとあってか補正などのスケジュールが過密になっていた。スーツを誂えることもしばらくは無いだろう。

 

国公立大学の合格発表も大詰めになった。今年の大学入試問題への挑戦も今回で終わりとしたい。いかにも文学部らしいテーマの問題である。ブログを書いていて時々友人たちのことに言及することがあるが、「迂闊に下手なことは書けない」と再認識させられた。

 

 

(問題)

IV.次の日本文(B)の下線部の意味を英語で表しなさい。

 

(B)

(イ)(文学部の志願者)

たとえば、存命中のひとをモデルに小説を描く場合、何よりもまず当人のお許しを頂き、その上で、丹念に取材させて頂くことが必須です。フィクションだから何でも許される、というわけでは決してないのです。では、そのひとが既に故人だった場合はどうでしょう。「既にその死から何百年も経過している」「歴史上の偉人として研究しつくされている」といったケースでは縛りが緩くなることもあるでしょうが、それに当たらない場合は、どうでしょうか。

かつて「あい 永遠に在り」という作品で、実在した関寛斎とその妻あいを描いた時に、随分と悩んだ問題です。

(髙田郁,2023.『晴れときどき涙雨』角川春樹事務所(ハルキ文庫) より一部改変)

(大阪大学 文学部・2024年)

 

 

(拙・和文英訳) 

For example, if you intend to write a novel adopting a living person as a model, first of all, it is essential for you to obtain the permission of the relevant person. After that, you have to interview the person carefully. Everything in a fiction story is by no means permissible. However, what if the person is already deceased? In the cases where “hundreds of years have already passed since his or her death” or “he or she has been studied thoroughly as a great person in history”, such a restriction may be loosened, but what if such cases are not applicable.

This is the problem that I used to worried about so much when I described the existed Kansai Seki and his wife Ai in a piece of work “Ai Forever Exists.”

大量の情報がネットで配信されるようになって情報の信憑性は著しく低下した。いわゆるフェイク・ニュース(fake news)も蔓延するようになり、人々はネット上の情報を簡単には信用しなくなった。

 

本問は、ネットに限ったものではないが、そのように人々が情報を鵜呑みにしなくなったことが、果たして社会を良くしているのか?ということに関するものである。

 

全文を通して「鵜呑みにする」「あってしかるべき」など、どう処理すべきか悩んだ語句もあった。受験生も苦労したことだろう。

 

 

(問題)

IV.次の日本文(B)の下線部の意味を英語で表しなさい。

 

(B)

(ロ)(文学部以外の学部の志願者)

人々は以前ほどマスメディアの言うことを鵜呑みにはしなくなった。しかし、それで果たして社会は良くなったのであろうか。

取材をし、記事を書き、ニュースを発信するのが人間である以上、報道は全て正しいとは限らない。また、報道が届く人々の範囲の広さを考えても、個別の記事や番組に対する批判はあってしかるべき重要なものである。しかし、批判の対象が「マスメディア」「マスコミ」となったとき、それが本当に対象を理解したうえでの批判なのか、その批判が民主主義にとって有益なのかという問いに、今一度立ち戻るべきではないだろうか。

(稲増一憲,2022.『マスメディアとは何か』中央公論新社(中公新書) より一部改変)

(大阪大学(外国語学部・文学部以外)・2024年)

 

 

(拙・和文英訳) 

People don’t swallow what the mass media says whole as much as they used to. However, has this really improved the society?

As long as it is human beings who collect information on something, write articles about it, and dispatch the news, the reports are not always correct. Further, considering the wide range of people who can receive the news, criticism of individual articles and programs ought to take place, and it is no wonder important. Nevertheless, when the target of criticism is “mass media” or “mass communication,” shouldn’t we return to the question of whether such criticism is really based on an understanding of the target, or whether such criticism is beneficial to democracy?

 

啓蟄の昨日、こちらでは県立高校の入学試験が終わったようである。中学三年生も後は卒業を待つばかりか。国公立大学の合格発表もそろそろ始まるようだが、高校の卒業式が今まさに酣(たけなわ)となっている。

 

それにしても花粉の飛散が酷くくしゃみや目の痒みがとまらない。合格発表や卒業など悲喜交々の感動的なシーンに水を差しているようである。

 

毎年のことだが、3月のこのシーズンにはノスタルジックな想いがよぎる。自分の大学の合格発表のことを思い出すからだ。あの頃は花粉がなくてある意味幸せだった。

 

 

今年の阪大(外国語学部を除く)の英作文のテーマは「哲学すること」の意味を問うものであった。阪大ではこのボリュームの和文英訳がもう1問、さらに80語程度の自由英作文1問が課される。受験生の負荷も並大抵のものではない。

 

 

(問題)

IV.次の日本文(A)の下線部の意味を英語で表しなさい。

 

(A)(すべての学部の志願者)

たとえば、「そもそも、人間は他人の心を理解できるのだろうか?」とか「そもそも、他人を理解するとは、いったいどんなことなのか?」。あるいは「そもそも、他人に心があることがどうして分かるのか?」。

こうした疑問は時間がたつにつれて、ふつうは忘れ去られてしまうようです。とはいえ、忘れたからといって、疑問が解決されたわけではありません。時々は、思い出したり、疑問が広がったりするのではないでしょうか。

実を言えば、いつの間にか忘れてしまった「そもそも」問題を、あらためて問い直すのが「哲学すること」に他なりません。哲学は、過去の哲学者の学説を知るのが目的ではありません。

(岡本裕一朗,2023.『哲学100の基本』東洋経済新報社 より一部改変)

(大阪大学(外国語学部以外)・2024年)

 

 

(拙・和文英訳)

For example, "Can people understand other people's minds in the first place?" or "What does it mean to understand others in the first place?" Further, "How do we know that other people have hearts in the first place?"

These doubts usually seem to be forgotten as time goes by. Nevertheless, forgetting these doubts doesn't mean that they have been resolved. From time to time, you may remember them or your doubts may be expanded.

To tell the truth, it is nothing less than "philosophizing" to re-examine these “in the first place” doubts that has been forgotten before you notice it. The purpose of philosophy is not to know the theories of the philosophers in the past.

 

「冬の終わり」という雰囲気が漂い始めている今日この頃である。冬の終わりには「何かが始まる」のような予感が満ち溢れている。卒業・入学・就職という人生の節目の季節だ。

 

今月、約16年ぶりに京都に行く(上洛する)ことになった。大学や学生時代の下宿の周辺、学生街の懐かしい町並を歩いてみたい。家内を連れての京都は初めてだ。

 

大学時代によく行ったあの店はどうなっているのか……?今出川通りや白川通りも随分変わっただろうな……?そんなことが頭に浮かぶ。卒業からはや42年、随分歳をとったものだ。タイムスリップの旅が今から楽しみだ。

 

 

 

今年の東北大の英作文のテーマは「科学(サイエンス)」とは何か?に関するものだった。下線部(A)(B)指定された英訳を完成させる問題で、さほど難しくは無かっただろう。拙訳も指定訳に従った。それにしても東北大は理系的なテーマが多い。

 

(問題)

IV.次の文章を読み、下の問いに答えなさい。

 

「科学(サイエンス)」とは、物事の真理を明らかにする学問である。科学と関連した中国の言葉に「格物」があり、日本語では「物に格(いた)る」と読む。これは物事の理(ことわり)を追究するという意味であり、後の西洋科学も中国では「格物」と呼ばれた。その心は、物事の奥義を明らかにするという科学の大原則である。

自然科学(自然現象に関する科学)はギリシャ時代の芽生えを経て、近代科学の誕生以降(今からおよそ400年前)、理論および実験上の数々の発見によって発展してきた。(A)その発展を支えたのは、「仮説と実証」、あるいは「理論と実験」の緊密な結びつきだった。理論的な仮説が実験の可能性を広げ、新たな実験結果が理論のさらなる開拓を促してきたのである。

また、原理と法則を基礎とする物理学の方法論は、自然科学はもちろん、人文科学(人間に関する科学)にも大いに役立つ。「自然法則(natural laws)」に対する深い理解があれば、特異な例を一般化してしまったり、例外に惑わされて一般化できなくなったりするような失敗が避けられよう。科学は単なる知識の集積ではない。(B)新たな法則を発見するためにも、知識より「理解」の方がはるかに大切である。大事なのは「知るより分かる」という原則だ。

そして、科学が扱う問題の多くは、論理的な思考力を培うための糧となる。実際、一見単純だが奥深く、そして実際に解ける問題が、物理にはたくさんある。(C)「自然界の謎は、人知で解きうる」という確信、あるいは信念があって初めて、人間や社会のように難しい問題にも、ひるむことなく向かって行けるだろう。

(酒井邦嘉『科学という考え方-アインシュタインの宇宙』より一部改変)

(東北大学・2024年)

 

 

(拙・和文英訳)

“Science” is the study of revealing the truth of things. A Chinese word related to science is “格物,” and it is read as “mono ni itaru” in Japanese. This means to pursue the truth of things, and later Western science was also called “格物” in Chinese. The mind is the great principle of science that reveals the mysteries of things.

The natural science (science relating to natural phenomena) has developed through numerous theoretical and experimental discoveries since the birth of modern science (about 400 years ago) after the emergence of modern science in the ancient Greece era. (A) What supported its development was the close connection between "hypothesis and empirical" or "theory and experiment." Theoretical hypotheses have expanded the possibilities of experimentation, and new experimental results have encouraged further development of theories.

In addition, the methodology of physics, which is based on principles and laws, is of great help not only to the natural sciences but also to the humanities (science relating to human beings). A deep understanding of "natural laws" will help us avoid the mistake of generalizing singular examples or being misled by exceptions and not being able to generalize. Science is not just an accumulation of knowledge. (B) "Understanding" is far more important than knowledge in order to discover new laws as well. What is important is the principle of "Understanding is better than knowing."

And many of the problems that science deals with serve as nourishment for cultivating logical thinking skills. In fact, there are many seemingly simple but profound problems in physics that can actually be solved. (C) It is probably only when you have conviction or belief that "the mysteries of the natural world can be solved by human intelligence" that you can face difficult problems such as those of humans and society without flinching.

 

3月1日の株式市場は、大谷翔平選手の結婚発表を祝うかのように高騰した。日経平均は40,000円を超えることがほぼ確実になった。今年は大商いの年になりそうだ。

 

その日、確定申告を終わらせた。今年は不動産の売却損益の申告もあったのでいつもより時間が掛かった。とにかくこれで一安心だ。

 

 

今年の阪大(外国語学部)の英作文のテーマは「絵本」だった。著者の鎌田實氏はテレビの映像で何度か観たことがあったが、問題文を読んで立派な父親だと再認識した。なかなか心温まる問題である。

 

 

(問題)

IV.次の日本文の下線部(1)~(3)の意味を英語で表しなさい。

 

絵本に救われたことがある。(1)もうずいぶん昔の話になるが、些細なことがきっかけで高校生の娘との関係がギクシャクした時期があった。関係が修復しないうちに娘は遠くの大学に行ってしまったので、僕は彼女のために毎月一冊の絵本を選んで手紙を添えて送ることにした。

なぜ絵本だったか。僕にはある後悔があった。長子である息子にはたくさんの絵本を読み聞かせてやれたのだけれど、次子である娘が生まれた頃の僕は諏訪中央病院の院長をしていて、彼女にはほとんど絵本を読み聞かせてやれなかった。(2)その後悔を埋め合わせるように、大学生の娘のことを思って本屋に通い、毎月一冊の本を送ったのだ。雪解けまでには、それほど時間はかからなかった。しばらくすると、娘から長い返信の手紙が届くようになったのだ。僕が絵本について語るとき、いつも娘のために本屋で絵本を選んでいた頃を思い出して胸が熱くなる。

(3)絵本には、僕たち大人が思っている以上に力がある。現実から目を背けさせてくれたり、嫌なことを忘れさせてくれたりといったまやかしの力ではない。現実と向き合い、困難に打ち勝っていくための本物の力が、絵本にはある。僕はそう信じている。

(鎌田實.2023『この国の「壁」』潮出版社)

(大阪大学 外国語学部・2024年)

 

(拙・和文英訳)

Once, I was saved by picture books. (1) It was a long time ago, but there was a time when my relationship with my high school daughter became strained due to a trivial matter. Before the relationship could be repaired, my daughter went to a university in the distance. Therefore, I decided to choose a picture book for her every month and send it with a letter.

Why was it a picture book? Because I had a regret. I was able to read a lot of picture books to my son, who was my first child, but when my second child, my daughter, was born, I was the hospital director of Suwa Central Hospital, and I could hardly read picture books to her. (2) As if making up for that regret, I thought of my university-aged daughter and went to the bookstore and sent her a book every month. It didn't take a long time for the snow of relationship with her to melt. After a while, I came to receive long letters from her. When I talk about picture books, my heart warms as I remember those days when I used to choose picture books for my daughter at the bookstore.

(3) Picture books have more power than we adults think. It is not a fake force that would make you turn away from reality or forget what you don't like. Picture books have the real power to face reality and overcome difficulties. That's what I believe.