1989年9月に入り、毎日引っ越しの準備に追われていた。1989年9月9日(土)の午前中に荷物一式の引き取りを業者に依頼しており、夕刻のブルートレイン「あさかぜ」で東京を離れることにしていた。
この時、新幹線にしなかったのは、父と上京した1977年3月がブルートレインの「富士」だったことが思い起こされたからだ。それから短いような長いような12年半、同じ干支の巳年、今度は「あさかぜ」にした。なお、1977年3月の上京の経緯については「自叙伝(その20)-翳りゆく勝算」に記載している。
首都圏には父方の叔父が二人いた。私が東京に居た7年半の間、年に一度か二度東京・世田谷の叔父の自宅で食事などをご馳走になった。叔父の家では、いつも叔父の一人息子(私の従弟)や千葉の叔父(世田谷の叔父の兄)の四人で酒盛りになった。
従弟は、私が安田火災に入社した同じ年に麻布高校から東大・文科三類に進んだ。その後東大・文学部で社会心理学を専攻し大学院まで進み研究を続けた。私が東京を去るときもまだ東大・大学院に在籍していた。あの「半沢直樹」で大和田常務を演じた香川照之氏は、東大文学部・社会心理学科出身で彼の2年後輩となる。
世田谷の叔父の自宅は京王井之頭線の「駒場東大前」で、自宅周辺には東大教官などの社宅も多かった。当然にして住民にも東大卒が多く「幼稚園よりも東大教養学部の方が近い」という環境だった。叔母が所謂「教育ママ」になったのも頷ける話だった。
この叔父・叔母は私の東京暮らしの後半、何人か私の花嫁候補を紹介してくれた。叔父・叔母が勧める相手のことをもっと真剣に考えていたなら、今は全く別の人生があったかも知れない。
1989年9月9日(土)。業者の荷物の引き取りは午前中で終わった。ガスを止めたり不動産屋にカギを返しに行ったりして結局15:00くらいになった。不動産屋の最寄り駅から中央線に乗り込んだ。
荷物は貴重品とボストンバッグが一つだけ。途中「神田」で降りて朝食・兼昼食を摂った。鰻が食べたかったが店がわからず、結局、泥鰌(ドジョウ)になった。最後の東京の街をぶらぶらと散策した。
「あさかぜ」の東京発は19:00ちょうど、ホームまで千葉の叔父と「いいとも会」のITが見送りに来てくれた。
千葉の叔父には、浅草の「神谷バー」に連れて行ってもらいデンキブランをご馳走になったり、筑波山にドライブに行ったり ……。結構思い出が多い。予備校の頃、早稲田・政経の発表を見に行ってくれたのも千葉の叔父だった。この辺の経緯については「自叙伝(その35)-啓蟄-受験戦争の終結」に記載している。
ブルートレイン「あさかぜ」の入線時刻は18:44、東京駅13番ホームだった。「いいとも会」のITから餞別の目覚まし時計を受け取り、最後に二人と握手を交わして列車に乗り込んだ。
この時、東京での7年5か月あまりの長い旅が終わると同時に、福岡・博多での新しい旅が始まることになった。
李白の詩「送友人」は、友人との別れを詠んだものだが、再会を期待して「じゃあ!またな!」と言って別れても、再会は何時になるわからない。人との出会いと別れ。人生は「会者定離」である。
「送友人」(友人を送る) 李白
青山横北郭 青山 北郭に横たはり
白水遶東城 白水 東城を遶る
此地一爲別 此の地 一たび別れを為さば
孤蓬萬里征 孤蓬 萬里を征かん
浮雲遊子意 浮雲 遊子の意
落日故人情 落日 故人の情
揮手自茲去 手を揮ひて 茲より去れば
蕭蕭班馬鳴 蕭蕭として 班馬鳴く
(拙現代語訳)
青々とした山が北側に横たわり、清らかな水を湛えた川が城の東側を流れている。
一旦この地に別れを告げれば、君は風に吹かれる蓬の葉のように万里の彼方へと旅立ってゆくのだろう。
空に浮かぶ雲は去ってゆく君の旅心を表わし、沈みゆく夕日は別れを惜しむ私の心を映している。
手を振って此処から立ち去ろうとしたそのとき、お互いを乗せた馬までが悲しそうに嘶くのが聞こえてきた。