効率化の牙城にて(その29)-走馬灯の思い出(Kaleidoscopic Memories) | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

時計を少しだけ巻き戻す。前回の記事から芋づる式に思い出した事がいくつか出てきた。

 

KNさんが再度渡米したときのことである。彼女から留学中の海外旅行傷害保険について相談を受けた。渡米直前だったため保険証券の「特発」(特別発行)が必要になった。それで新内一課の同期の女子に頼みに行った。これを気持ちよく引き受けてくれたのが「ミンミン」の愛称で呼ばれていた女子だった。

 

新内一課で「ミンミン」から特発の保険証券を受け取り、これをKNさんに手渡したはずだが ……。それがいつだったのか?覚えているのは高円寺の彼女のマンション近くで証券を渡したときに見えた夕焼け空だけである。それが彼女との別れとなった。

 

その後、渡米した彼女は、サンフランシスコで19891017日に発生したマグニチュード6.9の「ロマ・プリータ地震」(Loma Prieta Earthquake)に遭遇することになった。

 

 

ニューヨークに留学していた「いいとも会」のOYが、無事MBAを取得して帰国したのは1989年の5月頃だった。彼を成田空港まで迎えに行った帰り本社・財務部への挨拶に同行した。

 

彼が先輩に捕まってしまったようで本社の会議室で長時間待たされた記憶がぼんやりと残っている。なお、帰国後の彼の居所は関前寮となり、ともあれ「いいとも会」の灯が関前寮に再び灯ることになった。

 

 

OYの帰国と前後して19895月中旬、電算オンライン課・運用管理チームの年度末打上げ旅行が催された。部下のOZが幹事を務め、行先は熱海(熱川?)だったか?私は初日の夜の宴会から参加した。これが運用管理チームの同僚との最後の旅となった。

 

 

夏になった。最初で最後、東京のお盆を経験した。それが7月だったのか8月だったのか定かでない。夜自宅に居ると、何処からか「盆踊り」のメロディ(音頭)が聞こえてきた。

 

なんと「炭坑節」だった。「♪♪月がぁ出た出たぁ~ 月がぁ出たぁ~ ヨイヨイ♪♪」だ。福岡県筑豊地方の曲である。なぜ「炭坑節」なのか?東京は不思議なところである。

 

盆踊り会場は近くの公園で、団扇を持って行ってみると ……、気が付けば輪に加わって踊っていた。「まさか東京で炭坑節を踊るとは ……!」。ふと、一橋大・盆踊り研究会(?)の「いいとも会」のHYのことが脳裏をかすめた。

 

 

19896月から7月にかけて、伊豆半島東方沖の群発地震の影響か、東京でも体に感じる地震が頻発した。独り暮らしのうえ、それまで経験が無かったからか非常に不安になった。

 

それに加えて、ちょうどその同じ時期、時々刺すような腹痛に悩まされた。病院でエコー検査を受けたが原因は判らなかった。痛みはいつの間にか治まったが、今思えば「胆石」の前触れだったようである。胆嚢を切除するのはそれから随分先のこととなった。

 

 

19898月東京最後の夏。思い出の断片が、私の頭の中で走馬灯のように浮かんでは消えていた。いよいよ東京を離れる時が近づいていた。