効率化の牙城にて(その28)-三鷹駅南口「せだん」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

19898月末、漢字帳票システムのキヤノンから日立への移行も90%以上が終了し、引継書の作成・引継ぎも終了した。気が付けば退職の日、1989831日(木)を迎えていた。

 

当日、アプリ担当課で懇意にしていた方々は日中私に挨拶に来られた。また部長席から「15:30に部長・副部長が居られますのでおいでください」と連絡があり挨拶に伺った。そして、終業時刻の17:00になった。

 

別れの挨拶では「ここのところの連日連夜の飲み会で体の方はボロボロですが頭の方はスッキリしています」から始めて、「大学卒業後の新入社員の頃から現在まで一人前の社会人に育てていただいた安田火災に感謝し、こんな一流企業で勤務した思い出を『心の宝箱』に大切にしまってこれからも生きてゆきます、皆さん今日までありがとうございました」と締めくくった。

 

それに対して、電算オンライン課に配属以来お世話になった、大学の先輩でもあるSY副長から「○○君は仕事では『得意技』を作る名人なので、次の職場でもいち早く『得意技』を作って活躍してください」といった旨の送辞をいただいた。

 

それから、隣にある関連会社、YTEC運用業務課で挨拶し渡された花束を手に最後に電算オンライン課でともに働いた各チームのチーフや同僚と握手を交わして電算オンライン課を後にした。アプリ担当課での挨拶は一切行わなかった。

 

 

エレベータを降りて事務本部ビル正面玄関の自動ドアを抜けて外へ出ると、逃げるように事務本部構内の入口の門を出た。バス停そばに停まっていたタクシーに飛び乗り「三鷹駅まで!」と告げた。タクシーの窓から傾きかけた夏の陽射しに照らされた街並を眺めていた。少しずつ心が解き放たれてゆくように感じた。

 

三鷹駅に着いた。よく遊んだビリヤード場に入った。独りでローテーション・ゲームを楽しんでいると次第に心が落ち着いてきた。三鷹駅南口に当時「せだん」という居酒屋があった。日本全国の銘酒を揃えていた。19時頃からそこで同期との送別会が予定されていた。送別会の場所にその店を選んだのは私だった。

 

 

「せだん」は大学時代の友人、KOとよく飲んだところだった。彼は大学卒業後三井物産に勤務しており当時ニューヨークに赴任していた。三鷹でビリヤードをして「せだん」で飲み、さらにカラオケ・スナックと梯子することが多かった。妙な屋台で飲み二人ともぼられて「警察に訴えるぞ!」と店のおばさんと大喧嘩したこともあった。

 

ビリヤードの球を突きながらそんなことを思い出していた。「やっと終わったんだ!」という気持ちが込み上げてきた。なおKOについては「英語の散歩道(その31)-京洛の友たち④」に記載している。

 

 

かくして同期との送別会が「せだん」で始まった。再度渡米したKNさんとトラブルのため来られなかった1名を除き、女子3名を含むシステム部同期総勢9名が送別の宴に集まってくれた。二次会は男だけでカラオケ・スナックへ。その辺りから記憶が無く、気が付くと「いいとも会」のOAの自宅に居た。OAが最後まで私の面倒を見てくれた。

 

「いいとも会」のメンバーで奥多摩・秋川渓谷の旅館で泊りがけの宴会を行ったのもの良い思い出となっており、河原で撮った写真が残っている。記憶がはっきりしないが、この小旅行は私の退職の直前の8月下旬だったようである。

 

 

翌日、二日酔いの頭で目が覚めた。7年5か月あまりの東京での生活も残すところ10日足らずとなっていた。