効率化の牙城にて(その27)-「春なのに」再び-最後の名刺交換 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

K課長代理から転職について「今辞めたら勿体ないぞ!関連会社に出向せんか!」などと相当な引留めがあったが、自分の気持ちが変わることはなかった。

 

K課長代理との協議の結果、転職(退職)の時期は19898月末となり、引継書を作成し完成した順に部下・後輩に担当業務を引継ぐこととなった。現場の業務は部下のOZまたは先輩のSYさんに任せ、漢字帳票システムの移行のために与えられた作業部屋で淡々と引継書を作成する日々が続いていた。

 

また、一旦転職(退職)を決めてしまうと気持ちも楽になった。以後、アプリ担当課からの無理な要望に融通をきかして対応することもなくなった。相手の職階が上であろうが下であろうが一切気にせず現行のルール通りに処理した。他の職員からどう思われようが、もうどうでも良くなっていた。

 

一方で、運用管理チームの男性陣や総合システム部の男性同期に対して、自分が退職・転職することを口止めしたうえで少しずつカミング・アウトしていった。当然にして飲み会が多くなっていった。

 

カラオケ・ボックスなどない当時、新入社員の頃からの行きつけの吉祥寺「ひまつぶし」で歌うことも多くなった。長淵剛の「とんぼ」はいつの間にか十八番(おはこ)になっていた。また少し古いが、柏原芳恵の「春なのに」をよく歌うようになった。

 

 

この「春なのに」の発売は19831月。私が事務管理部(総合システム部)に配属される直前だった。中島みゆきが作詞・作曲を手掛けて柏原芳恵に提供した名曲で、この曲を歌いながら東京での様々な人々との出会いや自分の東京での会社生活を思い起こしては涙が込みあげてきて歌えなくなった。OKなど一緒に泣いてくれた同期もいた。

 

「♪♪~卒業だけが理由でしょうか 会えなくなるねと 右手を出して さみしくなるよ それだけですか むこうで友だち 呼んでますね 流れる季節たちを 微笑みで送りたいけれど 春なのに お別れですか 春なのに 涙がこぼれます 春なのに 春なのに ため息またひとつ~♪♪」

 

 

 

そんな同情的な者がいる一方で、私に直接面と向かってではなく電算オンライン課外の廊下から「てめぇひとりだけ逃げやがってきたねぇ~ぞっ!」と私に罵声を浴びせて逃げ去る輩もいた。この人、アプリ担当課の某副長で、以前はボーリング部でお世話になった方でそんな人では無かったのだが ……。

 

当時の総合システム部にはモラール(morale)もモラル(moral)も無くなっており、人の心も(すさ)び果てていた。事情を知る電算オンライン課の同僚たちは「○○!気にすんなよっ!」と励ましてくれた。

 

 

そんな中、大学時代の友人のMEから「結婚するんで披露宴に出てくれんかっ?」と連絡が入った。「おめでとう!それでいつ?何処で?」と聞くと ……、時期はGWのど真ん中、場所は香川県高松市だった。迷惑な話だが仕方がない。「わかった!」と答えた。

 

なお、MEの披露宴での様々なエピソードについては「英語の散歩道(その34)-京洛の友たち⑤」の後半に記載している。

 

 

MEの結婚披露宴で大学時代の友人数名が集まった。都銀、総合研究所、県庁に勤務している者や、大学院で研究を続け講師(助教)になった者もいた。この19895月の香川県高松市が安田火災の名刺での最後の名刺交換となった。