新計上システムの開発に対応するために、本社や営業店・SC部門などで勤務しているシステム開発経験のある事務管理部(総合システム部)OBたちが事務本部に呼び戻された。副長・課長代理クラスなど30名ほどが事務本部に戻ってきた。
また、アプリ担当課は個別に外注会社(ソフトハウス)と委託契約を締結した。これにより事務本部内は「外注社員」だらけになり、様々な服装を身に着けた人種が行き交うようになった。
会議室の幾つかは潰されてソフトハウスの詰め所になり、4面あったテニスコートも潰され外注社員用の駐車場になった。システム開発のため端末(TSO)が大量に増設され、毎夜毎夜短納期の過激なシステム開発が展開された。事務本部はまさに「不夜城」になった。
会社の何処かが狂っていた。「新計上」=「神経異常」のような響きを感じていた。外注会社のプログラマには確かに優秀な者もいたがマニアックな輩もいた。特殊なコマンドを使って思いもよらないシステム・トラブルを引き起こす輩もいた。
一方で、外注会社の社員と安田火災の女子社員の間、また外注会社同士の間でのロマンスも生まれ結婚も相次いでいた。事務本部内の適齢期の若者の人口が急増していた。
毎月、新計上のジョブの締め日には、アプリ開発担当課+外注会社の担当プログラマが24時間体制で詰めてジョブの進行を見守った。異常終了(アベンド)が前提の対応で、アベンドすればその場でプログラムを修正・リランし次ステップに進めていた。十分なプログラム・テスト、いわんやシステム・テストなどできていなかった。
我々電算オンライン課はシステム・トラブルに備えて課内で交替で待機しながら「果たしてこんな状況で当社のシステムは大丈夫なのかねぇ~?」とこのようなアプリ担当課の対応状況を揶揄することくらいしかできなかった。
1989年3月、面接を受けたC社から待遇が提示された。少し考えたが、結局福岡にUターンしてC社に転職することにした。東京での生活に疲弊しており、一日も早く東京から逃げ出したいという気持ちが大きかった。
M課長と面談し、ご推薦いただいた事業開発部への異動はお断りして、博多のC社に転職したいという意思を告げた。M課長は私の意思が変わらないことを確認すると、私の転職案件を「ザックリー」ことK課長代理(1989年6月に電算オンライン課長に昇格)に預けた。
以後、今回の転職の件についてはK課長代理と転職の時期や引継ぎ方法について話し合うことになった。
「帰去来」とは「故郷に帰るためにある地を去ること」をいう。これは陶淵明の「歸去來辭」に由来する。陶淵明が公職を退いて故郷の田園に帰った時の心境を表したものであるが六朝第一の名文とも言われている。
今思えば、この「歸去來辭」は当時の私の心境に近いものがあった。「若気の至り」だったかもしれないが、当時の私にはそれが最良の選択に思われた。なお「歸去來辭」については、以前のブログに日本語訳などを掲載している。