効率化の牙城にて(その25)-霙のバレンタインと「シングル・アゲイン」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

19891月中旬、福岡市の転職仲介業者のL社から私の転職候補先の資料が送られてきた。福岡市内の金融機関(銀行)や電力・ガスなどエネルギー関連企業もあった。企業本体(親会社)もあれば、情報システム系の関連会社(子会社)もあった。

 

一般の事業会社は少なく、また故郷・北九州の会社は一社も無かった。「結局博多かぁ~!」と少しがっかりした。

 

私は汎用機(メイン・フレーム)の運用管理が専門だったが、金融・サービスなど商業系の情報システムの経験も重視されるため、工業都市の北九州市より商業都市の福岡市の企業からの需要が多いことも頷ける話ではあった。当時の福岡市の人口は約121万人、北九州市が約103万人、まだあまり差は無かった。

 

その中の一社、ある地方銀行の情報システム関連の子会社をL社は勧めてきた。設立は1985年で資本金は5,000万円。当時、従業員数は50名ほどの会社(C社)だった。年収は落ちるが待遇は管理職(課長)だった。業務内容は「研究・開発」となっていた。

 

C社は親会社である地方銀行(N銀行)のシステム(勘定系、情報系、外接系)を受託しておりプログラマなどを派遣していた。その他、N銀行の関連会社の情報システムの開発や運用(オペレーション)を請け負っていた。

 

また、C社は近い将来、自社のホスト・コンピュータをリプレースしてN銀行の取引先を含めた顧客の情報システムを受託しようと意図しており、ホスト・コンピュータでのシステム開発や運用の経験がある人材を積極的に中途採用していた。

 

19891月末「とりあえず話が聞いてみたい」とL社に連絡すると、C社は2月下旬の土曜日の午後を指定してきた。面談に休日を指定したのは私で交通費・宿泊費ともにC社の負担だった。またL社から、C社に関する追加的情報として、現在首都圏在住でC社への転職を希望している者が他に2名おり、工業系やソフトウェア関連の会社に勤務しているエンジニアだと聞いた。

 

 

電算オンライン課では、198812月に生え抜きのH課長が本社・システム開発室に異動され、アプリ担当課からM課長が来られていた。C社の面接を受けようと決めた19892月、上記のようにUターン・転職を考えていることをM課長に報告した。

 

M課長との面談の中「本社や関連会社を含め安田火災でやってみたい業務が他に無いかもう一度考えてくれないか!」と言われた。また「君のキャリアを考慮して僕も考えてみるよ!」ともM課長は仰った。

 

当時、安田火災で情報システムに関連した部署と言えば、本社のシステム開発室、大阪・千里の第2事務本部(千里センター)、その他情報システム関連の子会社が2社あった。M課長はおおよそその辺りを想定しているのかなと思った。

 

数日後、M課長から再度呼ばれた。異動先についての話である。M課長が私に勧めた部署は、私が思いも及ばないところだった。その部署とは、本社の事業開発部で市場調査などのマーケティングを行う部門だった。情報処理の知識も活用できる業務であり、先方の課長には打診済みと伝えられた。あとは私の気持ち次第だった。

 

「こちらが本気で動けば会社も結構動くもんなんだ!」と感じた。また、このマーケティングという分野だが、それから7年後の1996年、ある試験のために勉強した。専門書などを読んでみるとSWOT分析や「小売の輪の理論」など実に興味深い内容が多かった。

 

あの時のM課長の提案を受け入れていたなら全く違う未来が待っていたかも知れなかった、とも思ったが、当時そんな先のことが解るはずも無かった。結局は運命だった。

 

 

19892月下旬の土曜日、朝早い新幹線で博多まで行き博多駅近くのC社で面接を受けた。博多はほとんど知らなかった。この19892月、金融機関の完全週休2日制が施行されたばかりだったがC社の代表取締役社長、専務取締役、常務取締役3役が私の面接に連座した。全員が親会社のN銀行出身だった。

 

採用担当は常務取締役の総務部長だった。情報システムに詳しい方ではなかったが、私が説明する現在の担当業務の内容を頷きながらしっかり聞いて下さった。結論的には「C社は私を採用する意思があるが待遇については再検討して提示する」という結果となった。こちらも私の気持ち次第となった。

 

 

そんな19892月。バレンタイン・デーの前の週あたりか?海外で英語の勉強をしていたKNさんから連絡があった。私の転居先の電話番号を友人経由で彼女には伝えていた。彼女はアメリカでの短期の語学留学を終えて帰国していた。

 

2月のある土曜日、彼女と吉祥寺で会って飲んだ。(みぞれ)が降る寒い日だった。彼女は「ちょっと早いけど ……」と言いいながら私にマフラーとチョコレートをくれた。飲みの席で、現在故郷へのUターン・転職を考えていることを話した。彼女がそれにどんな反応を示したのか、また彼女自身が私にどんな話をしたのか全く思い出せない。

 

「高円寺すずめのおやどの告白」から4年余りが過ぎ、こんな中途半端な状態で東京から逃げ出そうとしている自分の後ろめたさを誤魔化しながらのほろ苦い酒となった。私の記憶が確かならば、この霙の夜が彼女とは最後となった。

 

 

竹内まりやの「シングル・アゲイン」が「火曜サスペンス劇場」の主題歌としてテレビで流れるようになったのは時期的に少し先だが、この曲を聴くと今でもあの霙まじりのバレンタインが思い出される。