1988年の年末・年始は帰省しなかった。当時西高「四人組」のYが小田急線・千歳船橋の会社の寮に居た。Yは九大・修士を卒業して住友金属鉱山に勤務していた。
Yとはちょくちょく会って、千歳船橋や吉祥寺で飲んだり遊んだりしており「ひまつぶし」で歌ったこともあった。「年末年始どうする?」と相談すると、彼も帰省する気は無かったようで「奥多摩あたりの旅館に泊まって飲みながら年越しするか?!」という話になった。
このときYが「最近こんなものがよく寮に送られてくるようになったぞ!」と見せてくれたのが九州へのUターン転職の情報であった。九大の卒業生を対象にしたものだったが、東京での会社生活に疲弊していた私には「渡りに舟」に思えた。資料にあった仲介会社の連絡先をメモした。
年末、自宅を出てYと奥多摩方面に向かったのは12月31日だった。大晦日、元旦、2日と旅館に3泊した。元旦には旅館近くの神社に参詣した。年明け、テレビ東京が新春ワイド時代劇「大忠臣蔵」を放送していた。
この「大忠臣蔵」。大石内蔵助が松本幸四郎(現・松本白鸚)、浅野内匠頭が近藤正臣、吉良上野介が芦田伸介という配役で、以後も何度か再放送されているが、私は忠臣蔵不朽の名作と思っている。なお、この忠臣蔵について、浅野内匠頭長矩の辞世の句や「両国橋の別れ」のシーンで詠まれた句の英訳を行っているので以下に紹介しておく。
◎浅野内匠頭長矩の辞世の句
https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-11108279222.html
◎「両国橋の別れ」で宝井其角と赤穂浪士・大高源吾が交わした句
https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-11733683631.html
1月3日の帰り道、途中高尾山に立ち寄った。車で行けるところまで行ってあとはケーブルカーで登った。当日の天候は快晴。風は無く厳しい寒さだったが頂上からの眺めは素晴らしかった。東京の日暮れは早く夕映えが迫っていた。冷たい空気の中「東京での年明けもこれが最後か!」と思った。
年明けの勤務が始まり「松の内」最終日の1989年1月7日(土)、昭和天皇が崩御された。終に「Xデー」が現実のものとなった。同日午後、小渕恵三官房長官(元総理大臣)が「新しい元号は平成であります」と墨で書かれた生乾きの「平成」の2文字を掲げて発表した。
その結果、昭和64年は1月1日(日)から1月7日(土)の7日間で終わり、同時に昭和時代が終了、翌1989年1月8日(日)が平成元年1月8日となって平成時代がスタートした。
この1989年1月8日(日)、車で新宿から池袋あたりを走ってみた。パチンコ屋などの遊興施設は全て閉まっており通りに面した表側には弔意を表す黒いリボンを付けた「半旗」が掲げられていた。もちろんこんな光景を見るのは初めてだったが、何処か違和感があった。
翌1989年1月9日(月)から、システム部では各アプリ担当課による「Xデー」対応作業が粛々と進められていった。さほど大きな混乱は無かったように思われる。
年明け早々、Uターン転職の仲介会社に連絡を取った。先方の対応はさすがに丁重だった。情報システム関連人材は地方でも需要が高く、彼らにとって私は高価な商品だったからである。先方は、私のキャリアに合う転職先をリストアップし資料を送ると言ってきた。平成時代の開幕とほぼ同時に転職活動が始まった。
翌週、昨年暮れにシステム部のOKと約束した通り、東北方面へドライブ旅行に行った。目的地は茨城県の「袋田の滝」だった。滝のそばの温泉旅館に泊まった。
天気はあまり良くなかったが、OKの新車、日産ローレルの乗り心地は良く運転しないで済む楽な旅となった。だが「やはり自分で運転する方が楽しいかなぁ~?」が正直な気持ちだった。「袋田の滝」は見ごたえのある壮大なもので「次に来る機会があれば夏か秋だな!」と思った。
入社してから約7年、会社と寮の往復が中心という生活の中、会社の同期、同僚、上司、先輩、後輩などから影響を受けながらも、気を使ったり使われたり、面倒臭いこと鬱陶しいことばかりの東京暮らしだった。その中で、自分の「個性」は何処かに消え失せてしまっていた。
それが、寮を出て独り暮らしを始めたことで会社から少し解放されて、自分の「個性」の命じるままに生きたいと思うようになっていた。それが転職したいと思う心情の根底に流れていた。
長淵剛の「とんぼ」は1988年10月のリリースで、奇しくも私が寮を出た時期と一致する。
この曲の歌詞「♪♪コツコツとアスファルトに刻む足音を踏みしめるたびに 俺は俺で在り続けたいそう願った 裏腹な心たちが見えてやりきれない夜を数え 逃れられない闇の中で今日も眠ったふりをする ……♪♪」。
まさに、当時の私の心境そのままだった。