効率化の牙城にて(その21)-「青い国」と路面電車の旅 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

19886月、「高円寺すずめのおやどの告白」の相手のKNさんが退職した。「庶務でお茶くみみたいな仕事はもうしたくない!」が理由だった。彼女は体調不良もあって運用管理チームから課内・課長席の庶務担当に異動していた。

 

198412月の告白から業務の忙しさに(かま)けて何らフォローができなかったが、少し余裕ができてきた1986年後半くらいから時々お茶に行ったり、飲みに行ったりしていた。だが、以前の情熱は戻っては来なかった。

 

彼女は密かに英会話の勉強を進めていた。会社を辞めまずはアメリカに短期間の語学留学をして英語力をつけ、いずれは海外の経営学大学院などで学位を取って輸出入の仕事がしたい、という夢を持っていた。

 

留学先は英会話学校から勧められたサンフランシスコの語学学校と聞いた。以前から気付いていたが、ビジネス指向が強く、所詮専業主婦向きの女性ではなかった。

 

私は「人生一度しかないから思うようにやってみたら ……?」と背中を押した。そして19886月末、彼女の53か月の安田火災での会社生活が終わった。彼女の退職の日、たくさんの花束などの餞別を受け取った彼女を高円寺のマンションまで車で送った。この時、何故かもう一度会えるような気がした。

 

 

彼女が渡米した後の19888月、休暇を取って彼女の故郷の四国・高知を旅した。新幹線を岡山で降り、今度は北の伯備線ではなく南の瀬戸大橋線の特急に乗り換え3時頃には高知に着いた。当日は快晴で猛暑。空の色も海の色も全く違っていた。「青い国」のキャッチフレーズそのままだった。

 

高知駅から大通りを路面電車で南に行き「はりまや橋」を左に見て繁華街で下車した。繁華街をブラブラしてから桂浜へはバスだったか?砂浜そばの坂本竜馬の銅像を見てから市街地に戻り「はりまや橋」近くの旅館に着いた。

 

夜は、名産のカツオのたたきと皿鉢(さわち)料理で土佐焼酎を堪能した。なお皿鉢料理とは「色鮮やかな絵皿に、刺身、煮物、揚げ物、練り物、寿司さらに汁物など、海と山の季節の旬を盛り込まれた高知の郷土料理」をいう。実に美味かった。

 

 

翌日、高知城を見たあと高知のアーケード・繁華街をゆっくりと散策し長距離バスで愛媛・松山へ向かった。山間部を通るバスに2時間以上揺られて松山に着いた。それから路面電車で道後温泉へ。前日、高知で予約した奥道後の民宿に着いたのは夕刻だった。

 

まずは道後温泉の「坊ちゃんの湯」へ。ここは大学4年の時に友人たちと訪れて以来7年振りだった。なお前回の旅については「英語の散歩道(その24)-大学時代最後の旅へ」に記載している。

 

さらに民宿で奥道後の湯を堪能した。民宿の料理は夜も朝も美味しかった。朝食を食べているうち「ここにもう少し居よう!」という気持ちになり連泊することにした。その日、再び路面電車で松山市内を観光し、アーケードの商店街を巡り松山城にも行った。

 

松山の街を歩いていて気付いたのは「肌が綺麗な美人が多い!」ということだった。温泉と特産のみかんが理由なのかもしれない。

 

 

翌日、道後温泉周辺を再度散策し路面電車で松山観光港へ行き観光港から水中翼船スーパージェットで広島に渡った。一時間余りで広島港に着いた。またまた路面電車で広島の市街地を通って広島駅へ。広島から新幹線で小倉へ戻ったのは夕刻だった。

 

 

この1988年の夏。もう一つの旅があった。ニューヨークに留学していたOYが夏休みで一時帰国してきたからである。このとき「いいとも会」+アルファが再度集合した。

 

HYは札幌から、新婚(?)のOA、公認会計士試験勉強中のITも参加した。さらに+アルファとは「効率化の牙城にて(その15)-「いいとも会」-その形成と崩壊②」のエイプリル・フールで一役買った積立保険課のOKである。全員で房総・千倉の「天乃家」に泊まって海水浴、宴会、麻雀と大騒ぎした。

 

 

以上のような旅に明け暮れた1988年の夏だったが、楽しかったのは休暇の最中だけで、仕事の方は毎日追い詰められていた。担当している漢字システムの移行の他、新計上システムの開発を行っているアプリ担当課の連中の支援(?)に悩まされていた。

 

残業して21:00過ぎに寮に戻ると、駐車場の入り口でアプリ担当課のメンバーが待ち伏せしていて会社に連れ戻されることも何度かあった。ストレスが限界に達していて会社で激怒することも多くなっていった。「このまま寮にいたら会社に潰されてしまう!」のような強迫観念に苛まれはじめた。

 

 

結局、夏が終わる19889月中旬「寮を出よう!」と決意することになった。