時期は少々遡る。それが年末だったのか年明けだったのか記憶が曖昧である。私が運転免許取得のために帰省していた間、大学の友人2人が私を訪ねて北九州に来た。一人は同じゼミのC、もう一人は私のアパートの近くに下宿していたTだった。
C、TともにE2からの同級生でともに一乗寺に下宿しており、私が一乗寺に引っ越した3回生以降親しくなり「京八」でもよく飲んだ。
Cは千葉県立千葉高出身、ゼミの同期だった。当初国家公務員志向だったが、結局、地方公務員と銀行を中心に就職活動を行ったようである。最終的に三菱銀に内定したが「果たして自分に営業ができるのか?」と悩み、販売系のアルバイトを通じて自分は営業が好きではないことを悟った。結局、千葉県庁の行政職(上級)に進むことを決めていた。
もう一人のTは、入試で席が私と隣り合わせた受験番号21番の受験生だった。青息吐息の数学の問題を隣で解き最後の社会が終わったときに顔を見合わせて思わず笑った縁があった。愛媛県立松山東高出身、文系にしては珍しく電気関連の資格を持っており、教養部時代に自分でシンセサイザーを作ったりしていた。ゼミは浅沼萬里助教授の経営財務論で、3回生以降私のアパートによく来るようになった。
なお、大学入試の詳細については「自叙伝(その34)-「時計台教室」の戦い」に記載している。
Tは国家公務員(経済職)を受験、選択式に合格して論文式まで進んだ。また、第一志望は日銀(日本銀行)、その他、住友銀や興銀の話も聞いているようだった。
10/1(木)から日銀に拘束されて最終面接まで進んだが10/5(月)になって放り出された。それから民間を回ったようである。結局、日立製作所に進んだが、彼の趣味や資質を考えるとベストな選択だったように思う。
CとTは新幹線で京都から小倉に来て、私の実家に泊って関門海峡など市内を観光した。小倉の魚町銀天街に当時あった「焼き鳥Qちゃん」で飲んだ。それから、3人でフェリーに乗って松山へ行き、今度はTの実家に泊って道後温泉など松山市内を観光した。松山の商店街のアーケードは小倉より随分広かった。
Cは松山から水中翼船で広島に渡り、ゼミの同期のQのところへ寄って京都へ帰って行った。私とTはフェリーで大分に渡りJの墓参りに行った。その後Tはフェリーで松山に戻り、私は国鉄で小倉に戻った。
全部で一週間ほどの旅程だったが、その間、症状のことも運転免許のことも忘れられた楽しいひと時だった。手許に当時の写真がたくさん残っているが、これが大学時代の最後の旅となった。