気がつけば9月15日。今日は父の命日である。2007年からはや14年、その間様々なことがあった。父が亡くなった日はフェーン現象で気温が36度くらいまで上がった記憶がある。異常に暑い日だった。
閑話休題……。1982年正月、久しぶりに帰省中の西高四人組のR、Yと再会した。私の自宅で飲んだあと小倉に出て、小倉から路面電車で八幡・春の町のRの別宅に行きそこでまた飲んだ。路面電車で八幡まで行ったのはこれが最初で最後だった。また、Rの別宅に犬が居たような居なかったような ……。
当時、Rは東京工大・大学院修士課程1年に在学していた。Yは九大・工学部応用原子核工学科4回生のはずだったが、どうも留年していたようである。高校時代の話、大学での話、また私の就職活動の話などで盛り上がった。
そんな中、Rが「今日こそは高校の同級生のMに絶対電話を掛ける!」と言い出した。私もYも酒が入っており(Rは体質的に酒が飲めない)「掛けろ!掛けろ!」のムードになった。Mが近郊の国立大学の農学部に進んだことは知っていたが、普通であれば既に卒業・就職しているはずだった。
果たして……、Rは勇気を出してMに電話を掛けた。こんな場合、相手からの最初の一言は大抵「えっ!〇〇君!久しぶりやね!何しよるん?!」のような感じである。その問いに対するRの最初の答えを覚えている。「今、東大の大学院に行きよる!」と彼は答えた。恐らくMとの会話は「自叙伝(その11)-才媛と分岐点」以来6年以上ぶりだっただろう。
Mは「えっ!嘘やろっ?!」と返した。それに対しRは「おう嘘よっ!東京工大の大学院や!」と答えた。そこからRとMの間の会話がスムーズに始まったようである。
電話の途中、私もMと少し話すことができた。Mから「〇〇君!京大行きよるんやろ?!就職どこに決まったん?!」と聞かれ、「安田火災という損保に決まったんよ!」と答えると「給料が高くて良かったやん!」と言った。声は以前のままに感じた。とても懐かしかった。
この電話の中で、RはMと会う約束を取り付けて正月明けに会った。以下は、後日Rから聞いた話である。
Mは大学・農学部卒業後、近郊の化学系の会社に勤務していたが、既に結婚が決まっていた(婚約していた)。RはMに「〇〇君!あんた登場するのがちょっと遅すぎるわ!」と言われたらしい。結局、いい女は早く売れる!即ち、周りの男が放っておかないのである。
彼の話を聞いて、私が中学・高校と憧れた家庭教師の千鶴さんを思い出した。彼女も日本リクルートセンター(現・リクルート)に就職した1年目に結婚したし、「英語の散歩道(その10)-「黄昏」と「恋路が浜」」の彼女も、Mと同じく1982年に結婚した。
この22~23歳という年齢を聞くと「風」の「22歳の別れ」の歌詞が思い浮かぶ。因みに、この曲が発表されたのは1975年2月、我々が高校1年の3学期だった。
RとMの人生の軌跡は、1975年、高校2年の秋の分岐点を過ぎて以後、それぞれ別の曲線上を辿り始めた。それから6年以上が経過した1982年1月、2つの曲線は再び交わることになったが、一瞬の交点を過ぎて、また互いに離れていく運命にあった。
但し、これから先、この2つの曲線に交点が無いとは限らない。何故なら、直線ではないからである。