自叙伝(その11)-才媛と分岐点 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

恋愛は勉強を遥かに超えるエネルギーを要するものである。高校2年時、確かに勉強中心ではあったが、我々「四人組」(R・Y・S・私)にもロマンスはあった。

 

因みに、この「四人組」の呼称だが、命名は担任のS先生である。我々4人がいつも一緒に行動していたからだ。なおS先生のあだ名は「(ちん)」。愛嬌のある容貌が似ていたからだが、たまにあだ名だけ思い出せてご本名が思いだせないことがある。これもまた失敬な話である。

 

1年4組にある女子生徒がいた。彼女は卓球部に所属し成績も優秀、最初のテストのトップは男子のPではなく実は彼女だった。Pとは異なり彼女は理数系が強かった。今後、彼女のファースト・ネームの頭文字をとってMと呼ぶことにする。

 

私は卓球部の関係でMと時々話す機会があったが、女っぽいイメージはなくカラッとした男っぽい性格だったと思う。理数系が強かったからかも知れないが、今で言えば女医のようなキャリアウーマンが想い起こされる。

 

Mに憧れに近い感情を持っていたのが実は親友のRだった。これを知ったのは高校1年の終わり頃だった。だが高校2年時、RとMは別々のクラスになった。

 

私はあまり気づかなかったが、RのMに対する思いは高校2年になってからも日々強くなっていたようである。夏休みが明け9月末の運動会も終わって秋になった頃、私はRからある相談を受けた。簡潔に言えば「Mに思いを告げる段取りをして欲しい」ということだった。

 

恋のキューピットという柄ではない。だが、ここは親友のためにひと肌脱いで「事務レベルの交渉なら俺に任せとけ!」のような感じで引き受けた。

 

携帯もメールもない当時、コミュニケーションをとる方法は、①直接会って話す、②(固定)電話をかける、③手紙を書く、のいずれかだったが、Rは難易度も効果も最も高い①を選択した。

 

10月のある日の放課後、Rから「〇〇時に1年4組の教室で待ってる、とMに伝えて欲しい」と頼まれた。Mはたぶん部活動の最中だった。待ち合わせ時刻まで30分ほどあった。

 

卓球部の練習場に向かうと、果たして練習中のMの姿があった。私は、なりふり構わず「Rが1年4組で待ってる。何か話したいことがあるらしい。」とMに告げた。Mは「わかった!練習が一区切りしたら行く。」と答えた。

 

次に待合わせ場所の1年4組へ向かうと、なんと「〇〇委員会」が始まろうとしていた。ただ幸いにも、その委員長が1年4組の同級生Fだった。ここはFに頼むしかない、と考えた。

 

「F!済まんが、今からこの教室をどうしても使いたいんよ!別の教室に替わってくれんやろか?」と頼んだ。Fは「えっ…?」と言いながも、私の真剣な表情から何かを察したのか「わかった!」と答え、委員たちに別の教室に移るように指示した。キューピットも大変である。

 

果たして…、1年4組の教室でRはMに思いを告げデートに誘った。だが、Mはその日は卓球の試合で行けない、と答えた。事実その日は試合で、たぶん秋季大会だったと思われる。

 

単にタイミングが悪かっただけの話である。別の日を指定すればどうなったかはわからない。でもそれはあくまで後知恵であり、緊張の告白時にそんな思いが及ぶ余裕はない。Rは(我々も)それほど大人ではなかった。

 

高校3年時、RとMは再び同じクラスになったが、在学中にRがMと親しく言葉を交わすことはなかったらしい。

 

高校卒業後、RもMもそれぞれ別の国立大学(理科系)に進んだ。時は流れ、あの1年4組の告白から6年以上が経過し、Rがある大学の大学院修士課程にいた頃、二人は再び逢うことになったが、これについてはまた何処かで書くこととしたい。

 

人生は、ある道を右に曲がるか、左に曲がるかで大きく異なることがある。1975年秋、夕刻迫る1年4組の教室。それはRにとっては人生の分岐点の一つだったのかも知れない。