昨今、エイプリル・フールはあまり流行っていないようである。ハローウィーンとは対照的だ。高校時代、このエイプリル・フールで友人をかついだ(嘘をついて騙した)。その件は「自叙伝(その18)-ハンカチと川柳」に記載している。
このエイプリル・フールに「いいとも会」が結束してHYをかついだことがあった。これを我々は「小錦事件」と呼んでいる。1986年の4月のことだった。
当時、安田火災では積立保険のキャンペーンが挙行されていた。対象は積立ファミリー傷害保険(積ファ)と長期総合保険(長総)だったか?記憶が曖昧である。各営業店・支社のほか本社・事務本部の各課にもキャンペーンのポスターが配布されていた。
このキャンペーン・ポスターの表紙は「鳥越まり」というタレント(女優)で「フレ!フレ!私が応援団長!」というキャッチコピーが記載されていた。
HYを騙した内容とは「このポスターの『鳥越まり』は本キャンペーンの応援団長としてはやや力不足と取締役会で判断され、その結果、会社は新・応援団長として力士『小錦』を採用し、近々彼を表紙にしたポスターが作成され各営業店・支社に配布される」というものであった。
この嘘で、私はシステム部・積立保険課の同期OK(準・いいとも会員)の協力を得て信憑性を高めた。寮でHYに「例の『鳥越まり』のポスターって『小錦』に替わるらしいなぁ~?」と告げOKがそれに相槌を打った。HYは疑うことなく「えっ!まじっ!」と反応した。実に滑稽だったが吹き出すわけにもいかなかった。これで仕込みは終わった。
「いいとも会」メンバーIT、OY、OAに本件の根回しは既に完了していた。それから暫く経ってHYは本店営業部のITに「IT!例の『小錦』のポスター来た?!うちはまだなんだけど!」と確認の電話を入れたらしい。ITは平然と「うちの課は昨日来て貼り替えたぞ!」と答えた。
その後、HYが支社長に「『小錦』はいつ来るんですか?」と確認したか否か、また支社長がどんな反応をしたかは知らない。まあ、以前長総のキャンペーン・ポスターに達磨大師がデザインされていたくらいだから「小錦」が採用されたとしてもあまり違和感はなかった。
そんなHYが、1986年6月、東京営業部から北海道・札幌支店・営業課に異動になった。これが「いいとも会」の最初の減員で私の周りは少し寂しくなった。彼の送別会などをきちんと行ったか否かについては記憶に無い。
HYとは湯の山B班⇒新内一課と腐れ縁で、愚痴を言い合ったり一緒に新内一課の女子と「豊島園」に行ったり「ひまつぶし」で歌ったり ……。その他、彼はサイケデリック・ロックやインディー・ポップといったマニアックな音楽が好きだったが、パット・ベネターや大貫妙子なども彼を通じて聴くようになった。私の音楽の嗜好に少なからぬ影響を与えた男だった。
今でもよく聴いているものもあり大貫妙子のアルバム「ROMANTIQUE」は絶品で、B面1曲目の「果てなき旅情」など好きな曲も多い。
食に関して言えば、HYはファミレス「すかいらーく」のハンバーグをこよなく愛した。その他、ピザ・ハットのピザの食い放題や小金井あたりの「スタミナ丼」の大盛り(地球盛り)の店など妙なところにも連れていかれた。「美食家」では決して無い。まあ「痩せの大食い」といった感じだった。
その後「いいとも会」の減員はさらに続くことになった。1986年10月、総合システム部の同期のOAが結婚して寮を出た。彼の郷里の八戸で披露宴に参加したことは以前書いたが、これでまた一名減った。
OAも一橋・商学部卒で入社時は寮で私の正面の部屋に居た。薄紫の「中忠演習団」と書かれたトレーナーをいつも着ていた。一橋・中村忠教授の会計学のゼミ出身だった。
OAは実に多芸な男だった。スポーツでは野球・スキー・スケートなどを嗜みスピード・スケートでインターハイまで行ったらしい。大学で専攻した会計学では簿記一級のほか、税理士試験の簿記論・財務諸表論に合格していた。さらに、趣味でバンドを組んでおり寮でよくギターの練習をしていた。音楽は「ヘビメタ」をよく聴いていたようである。
実に身軽で、事務管理部での研修の研修室内で気分転換のつもりか、よく「バク転」をしていた。「〇〇バク転職員」とも呼ばれていた。
OAが結婚する前の1985年のクリスマス・イブにある思い出がある。その日、寮に戻るとA棟1階の踊り場で本店営業部の先輩のYさんがケーキを配っていた。取引先から数ホール買わされたらしく「食ってくれ!」と寮生にお裾分けしていた。我々も1/2ホールくらい押し付けられ仕方なくOAの部屋でケーキを食べていた ……。
その時、OAのポケベルが鳴った。OAは寮の電話から電算室に電話をかけた。彼は経理・物件費のシステムを開発・担当しており、そのデータベース関連の夜間ジョブがデータセット(ディスク)のパンクでアベンドしたためオペレータからの緊急連絡だった。
ディスクのパンクと聞いたのでOAと一緒に事務本部に急行した。電算室内でデータセットを拡張しOAのジョブをリラン(RERUN)して対応した。事務本部からの帰り道、駐車場から見上げたクリスマス・イブの夜空には冬の星座が美しく煌いていた。
1987年の夏から秋にかけて「いいとも会」はさらに2名が減員、その崩壊の一途を辿ることになった。