イベントに満ち溢れた1975年は暮れ、1976年に入り高校3年が見えてきた。四人組では、私が文系、私以外の3人は理系に進むことを決めていた。
中学時代の家庭教師の千鶴さんが、私が西高に入学した時、高校時代に彼女が使った参考書など一式をくれた。「英語の構文150」(高梨健吉著・美誠社)もその中の一冊だが、年明けにちょこちょこ読み始めた。
この「英語の構文150」、高校低学年向けとなっていたが、中身は未知の構文ばかりで構文の説明と例文の他、その構文を使った短文の和訳の問題集という構成になっていた。結局この本を高校3年1学期中に一通り読み終えることになった。
高校2年の終わり、高校1年時の担任の美術のT先生が、大学か短大の講師になることが決まり西高を去ることになった。美術部員や旧1年4組の生徒などが一室に集まって、ご挨拶された記憶がある。
「私は北九州を離れて街に行くが、君たちもいずれ何処かへ旅立っていくだろう。たとへ都会へ出ても、私は『都会の絵の具』に染まらないようにしたいし、君たちにもそうあって欲しい … …。」のような話をされた。
『都会の絵の具』は、1975年12月に発表された太田裕美の「木綿のハンカチーフ」の歌詞にある言葉で、若い男女の別れを春風のような優しいメロディに乗せて歌ったものだが、別れと先生の商売道具である絵の具を掛けたもので、一同から喝采が起こった。
高校2年の春休みは、「英語の構文150」と「受験の数学」(聖文社)増刊号の文系数学総合問題集をこなしながら過ぎて行った。1976年春の資生堂のCMで、りりィの「オレンジ村から春へ」がかかるものがあり、この曲をとても好きになった。後にレコード(EP盤)を購入、今でもYouTubeで聞くことがある。
この年のエイプリル・フール、初めて人をかついだ(騙した)。「ある数学教師(NA先生)の家が火事になった!」という他愛のない(?)嘘である。私とYでRをかついだのだが、まずYがRに「NA先生の家が燃えたらしい」と電話し、それをRが私に電話で確認する。そこで私が「うちは西日本新聞をとっていて地元の記事が詳しく載っており、そこに火事の記事があった」と再びRを騙すという筋書きだった。
この企てはまんまと成功したが、Rはこの件をどういうわけかさらにPに確認、折悪しくPは「NA先生なら、昨日一緒に山登り(?)に行ったぞ!」と答えた。「自分の家が燃えた翌日生徒と山登りに行くバカも居らんやろ!」ということになり、我々の嘘はあっという間にばれることになった。やはりPは何かと禍々しい男であった。
NA先生がこの他愛ない嘘を知っていたか否かは定かでないが、RとYの高校3年時(3年2組)の担任はNA先生になった。NA先生には高校2年時に短期間(補習?)教わった記憶があるが、剣道が7段くらいの腕前で態々京都まで昇段試験に行ったらしい。
また、時々下手な俳句(川柳?)を詠んでは生徒に披露していた。「もうちょっと思う心が失敗だ!」はRに対して詠んだ句らしいが、主旨は漢詩「偶成」(朱熹)の「少年易老學難成 一寸光陰不可輕」と思われる。言葉づかいがやや現代的でぞんざい、また受験生という事情を知らなければ何が言いたいのか全くわからない。
なお、NA先生が担任でRとYが所属する3年2組に、謎の秀才が存在することを知るのはもう少し先のことであった。