効率化の牙城にて(その16)-「いいとも会」-その形成と崩壊③ | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

今の時期の日本は美しい。紅葉の赤や黄色、その二色が混ざったような柿の色。田舎道を車で走っていると柿が鈴()りになっているのが見えた。思わず車を停めて眺めてしまった。「車を停めてそぞろに愛す楓林の晩」(杜牧「山行」)のように ……。

 

百人一首に以下の歌がある。今の季節にちょうどぴったりだ。

 

第5番 「奥山に 紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」(猿丸大夫)

 

この歌の英訳を以前のブログに掲載している。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-11071283545.html

 

 

閑話休題……。1987年の前半。私が知らないところで「いいとも会」で二つのストーリーが進行していた。一つは財務部のOYが、会社命令によりMBA取得のため米・経営学大学院への留学に挑戦していたこと。もう一つは本店営業部のITが退職を考えていたこと、であった。

 

 

OYとの縁は安田火災の入社より少し遡る。大学時代のゼミの同期にQという学生がいた。別名「飛行少年」とも呼ばれた麻雀でよく「飛ぶ」男だった。彼の部屋は雀荘と化していた。

 

Qは工学部からの転学部組で、卒業後は昨今、情報システムの障害で取り沙汰されている「みずほ銀行」の前身の一つ「第一勧業銀行」に進んだ。大学卒業の前、彼の高校時代の友人(雀友)が東大・工学部から安田火災に入る話を聞いていた。その雀友がOYだった。

 

OYでまず思い出すのは、入寮してすぐの頃、寮の食堂で開催された新入寮生の歓迎会である。彼も私もビールをジョッキでグイグイ飲んでいたが、5年目くらいの先輩が「お前ら!そんなに飲むと腹がでるぞ!」と声をかけてきた。OYは「大丈夫です!もう出ていますから!」と返した。「先輩に向かって僭越な奴っちゃなぁ~!」が彼の第一印象である。

 

OYは学生時代三鷹周辺に住んでいたようで三鷹の駄菓子屋やビリヤード場など遊び場を教えてくれた。また広島風お好み焼き(吉祥寺か?)もOYを通じて知った。広島風お好み焼きは関西風とは全く異なっておりなかなか美味かった。

 

その他、内務の頃は寮で卓球や麻雀をしたり、また武蔵境の「焼き肉の食い放題」とか駅北口の「中森書店」のそばにあった「〇〇菜館」(名前が思い出せない)にもよく行った。また、彼とは会社のボーリング部でも一緒で内務の頃は業務終了後に武蔵境南口(?)のボーリング場で何度か投げた記憶がある。まあ一言でいえばパワー・ボウラーだった。

 

今、ふと思い出したが ……。OYも新人研修は「湯の山」。また「いいとも会」の正規会員の全員が「湯の山」だった。それで何となく話が合ったのかも知れない。

 

19836月。OYは本社財務部・有価証券課に異動した。工学部(理系)⇒財務というケースは当時珍しかったが、将来的に証券分析とかデリバティブのような商品を考えれば理科系の方がより適性があったと思われる。

 

198412月の私の「勇気を出して初めての告白」に一役買ったのもOYだった。このストーリーは「効率化の牙城にて(その6)-高円寺「すずめのおやど」」に記載している。

 

「いいとも会」の絶頂期、1985年から1986年の前半、土曜日の朝10:00過ぎになると私がOYの部屋をノックするか、OYが私の部屋をノックした。OYは必ず「おーい!○○!遊ぼう!」と私に声をかけた。

 

OYの部屋に行くと大体、煙草を吸いながらサイフォンで淹れたコーヒーを飲んでいた。私もいつもご馳走になっていた。当時、彼が聴いていた音楽で覚えているのは、洋楽ではケイト・ブッシュ(Kate Bush)、国内ではクリスタル・キングとスネークマンショー(Snakeman show)である。これらのアーティストに何らかの脈絡があるのかどうかはわからない。

 

1986年頃OYは「証券アナリスト」試験に合格した。その後、社内報「とびぐち」に「証券アナリスト大いに語る」みたいな特集が組まれた。それに彼が掲載されたのか否かは覚えていない。その当時、脚光を浴び始めた資格だった。

 

「証券アナリスト」試験の合格後、会社から彼に「米・経営学大学院でMBAを取得せよ!」という白羽の矢が立ち、安田火災のMBA第1号を目指すことになった。名誉なことではあるが大変でもある。まずは英会話やTOEFLTOEICの得点アップのための英語学習が始まった。

 

以後、彼の部屋に行くと英会話のテキストや英英辞典、またボキャブラリー・ビルダーなどの英語関連の書籍が増えていった。相当苦労したと思うが我々に弱音を吐くことはなかった。ただ「スクラブル」というゲームやろう!と言いだすことが増えた。

 

努力の甲斐あって、OYはニューヨーク大学・大学院に合格した。北海道に異動したHYを除くいいとも会員3名でOYを成田空港で見送った行った写真が残っている。これでまた一人いいとも会員がニューヨークへと去って行った。

 

OYが渡米する前、私は餞別として「近代経済学の基礎知識」(有斐閣ブックス)という本とビクトリノクス(VICTORINOX)のアーミー・ナイフを彼にプレゼントした。いずれも自分が使っていたものだが、何となくニューヨークでの彼の生活に役立つような気がしたからである。

 

 

OYが渡米するずっと前のある夜、寮で彼を含めて麻雀をしていた。彼を除く残りの面子3人ともがポン・チーをして牌をさらしていた。その時、彼が突然ある曲を歌い始めた。

 

「♪♪私は泣いた(鳴いた)ことがない~♪♪」-中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」-この曲の先行リリースは198411月 ……。そんな昔だったか?