OYがニューヨークに旅経つ前、寮の駐車場でITが私に声をかけてきた。「○○!俺!会社辞めるわっ!会社辞めて公認会計士になるわっ!」と言った。私は「えっ!嘘やろ!」と返しはしたものの「でっ!いつ?」と尋ねると「9月一杯!」と答えた。
元々、損保で営業をやるような男ではなかった。公認会計士試験であろうが司法試験であろうが彼なら必ず合格できるだろうと思った。「まあITならしゃあないか ……」が私の正直な感想だった。
ITは丸紅のノンマリンのある保険契約の解除権について、火災新種業務部(火新業)と激烈に意見を戦わせていたようで「……だったら、何のための契約解除権だ!」と火新業の副長クラスを怒鳴りつけたようである。
本人も「火新業には目を付けられている」と話していた。自信があるからできることだが、彼の場合、自分が正しければ相手が先輩であろうが上司であろうが容赦しないところがあった。
財務部のOYは「財務に来んか?!」とITの引き留め工作を図ったが、ITは頑として意思を変えなかった。OYに借りを作ることを潔しとしなかったこともあったかも知れない。
東大・法学部卒であれば弁護士 ……?と思ったが、公認会計士を選んだ理由については聞いたが忘れてしまった。とにかく彼は「自分の知的好奇心を満足できる仕事がしたい!」と主張していた。こうして1987年9月末、私以外の「いいとも会」会員全員が寮を去った。
ITは煙草も酒も嗜まない男だった。だが「いいとも会」の飲み事や旅行にはつき合った。カラオケも上手かったし同期など知人をネタにした「替え歌」の名人でもあった。「いいとも会」のHYの他、同期の数名がITの「替え歌」のネタになっていた。今でも彼の名作が時々浮かぶことがある。
ITと私の唯一の共通点は「茄が好きなこと」だった。ある時、ITと私が、いかに茄が美味いか、どんな茄料理が美味いかについて議論してしていると ……、茄が苦手なOYが「お前らそんなに茄が好きなら茄屋の娘と結婚せぇ!」と吐き捨てるように言った。OYの「茄屋」という単語が妙に可笑しく思わず吹き出してしまった。
「いいとも会」の中では、ITと私の間の距離は他に比べると遠かったように思われる。だが、ITは私が安田を退職して郷里に帰る1989年9月、東京駅のホームまで見送りに来てくれた。
そのホームでITが私にくれた餞別が「ロボット型目覚まし時計」だった。その目覚まし時計は以後10年以上にわたり毎朝私を叩き起こした。私が九州に戻った後、ITは見事公認会計士・二次試験に合格した。
IT、OYの母校、東京大学教養学部の前身、旧制「第一高等學校」の寮歌、「嗚呼玉杯に花うけて」を以前若気の至りで英訳したことがある。恥ずかしながら以下に掲載しお茶を濁すこととしたい。
https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-11119394943.html