効率化の牙城にて(その14)-「いいとも会」-その形成と崩壊① | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

安田火災1982年入社同期の中に「いいとも会」と呼ばれるグループが存在する。本Articleでは、この「いいとも会」について少し書いてみる。

 

 

私が10歳になる年(1968年)に「妖怪人間ベム」というアニメが放映された。このアニメ、小学生の少年にとっては実に恐ろしいもので、東ヨーロッパ辺りを舞台としたホラーだった。そのオープニングのナレーションが以下である。

 

「それは、いつ生まれたのか誰も知らない。暗い音のない世界で、ひとつの細胞が分かれて増えていき、3つの生き物が生まれた。彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。だが、その醜い身体の中には正義の血が隠されているのだ。その生き物…。それは、人間になれなかった《妖怪人間》である。」

 

「いいとも会」の由来を考えていて、ふとそんなことを思い出した。

 

 

私が新入社員だった198210月、「笑っていいとも!増刊号」という番組が始まった。タモリの「笑っていいとも」の一週間分を振り返るダイジェスト版である。放送は毎週日曜日10:0011:45だったようだが、私はこの番組を一度も観たことがない。

 

当時、関前寮にいた同期Mがこの番組を共用テレビで観ていた。その横を別の同期が通り過ぎるさま「M!休みに寮で「笑っていいとも」を観るなんて暗いなぁ~」とからかった。

 

Mは虫の居所が悪かったようである。「土・日に寮にいてどこが悪いんだ!!」と烈火のごとく怒り吼えた。以来「(彼女も居らずに)土・日に寮で「笑っていいとも」を観るみたいに燻っている輩たち」を、いつしか人は「いいとも会(員)」と呼ぶようになった。これが元祖「いいとも会」の由来である。 

 

19836月の一斉の人事異動で前記のMは寮を離れ、それから時は流れた ……。

 

 

寮内の私の周りでは本社・事務本部など東京地区に残った同期が、新しい職場で葛藤しながらも、土・日中心に次第に一緒に遊ぶようになった。異動から1年以上が経った1984年の半ば頃からだったように思われる。

 

このメンバーの苗字に、たまたま「いい」と「とも」の音があったからか、いつしか人は彼らを「いいとも会(員)」と呼ぶようになった。これが本家「いいとも会」の由来である。

 

一緒に遊ぶといっても将棋、麻雀、ウノやスクラブルなどの室内ゲームをしたり、一緒にメシ(近郊のファミレスなど)に行ったりすることが中心だった。飲み会やカラオケ(当時はスナック)に行くことも時々あった。

 

土曜日の夕方に三鷹の「小僧寿し」で山ほどの握り寿司と樽のビールを買い込み、寮の共用テレビで「オレたちひょうきん族」のタケちゃんマンで大笑いしながら飲み食いしたこともあった。今となっては懐かしい思い出となっている。

 

当時のいいとも会の(正規)会員は私を含めて5名だった。そのうちの1名(以後ITと呼ぶ)は東大・法学部卒で将棋部出身だった。内務での新人研修終了後、本店営業部に異動になり総合商社「丸紅」のノンマリンを担当する課に配属されていた。

 

ITは他のいいとも会員2名(OY、OAともに既出)に土・日、無償で将棋を指南した。だが麻雀では彼らに有償の指南料を払うことが多かった。ITはいつも「俺は、麻雀は将棋のように本気で研究してはいないので負けたとしても仕方ない」と言い訳していた。

 

そのうちITは囲碁に転向した。時々彼の部屋に行くとNHKの「囲碁の時間」の録画を観たり、指南本を片手に囲碁を打ったりしていた。

 

時期ははっきりしないが「いいとも会」の正規会員の一人、HYが会を脱退しかけた。彼は、東京営業部のある支社に配属されていた。なお、HYについては「安田保険学校(その3)-「恥不知」と課内旅行」にエピソードを記載している。一橋・商学部卒で木村栄一教授の海上保険論を専攻していた。普通の損保ならマリン部門に進むべき人材だった。

 

その頃、HYは社内の女性とロマンスがあったようである。詳細は知らないが、その関係からかHYは「いいとも会」から遠ざかっていった。時々会員の集会場となっていたOYの部屋に顔を出したが「また、いいとも会かっ?!」と蔑んだかのような言葉を吐くことがあった。そんな時、ITが「HY!なんだ、その言い方は!」と、まるで元祖「いいとも会」のMの叫びを髣髴とさせる言葉を返すこともあった。

 

そんな仲良しの「いいとも会」だったが、HYのロマンスが終息するあたりから崩壊の兆しを見せ始めることになった。

 

 

「いいとも会」での交友関係が増えつつあった1985年の後半、仕事の方は日々トラブル対応に追われる最悪の状況だった。そんなある日、トラブルの対応で遅い昼食をとるためにT課長と先輩のSYさんをファミレスまで車に乗せたことがあった。

 

車のエンジンを掛けると ……、流れてきたのは小林麻美の「シフォンの囁き(FEMME DANS MA VIE)」だった。アルバム「ANTHURIUM〜媚薬」の発売は19857月。誰も「止めろ!」とは言わなかったので暫く曲を流したまま運転した。ほんの僅かの時間、トラブルから解放された気持ちになった。

 

小林麻美のヒット曲「雨音はショパンの調べ」が収録されたアルバム「CRYPTOGRAPH〜愛の暗号」の発売は19848月。バブルの頃かと思っていたがそんなに前だったか ……。人の記憶は曖昧なものである。