効率化の牙城にて(その20)-マッキンゼー&カンパニーとの戦い | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

流離の翻訳者 果てしなき旅路

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴15年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な独り旅を継続中

我々が30歳の節目を迎えるこの1988年という年、高校・大学の親友たちの結婚が相次いだ。西高「四人組」のRが4月、また大学時代の親友Hが9月に結婚した。

 

1988年5月頃、大学の先輩でもあるデータ管理チームの上司SY副長(同年昇格)が「太平洋保険学校」(ISP = Insurance School of the Pacific)のセミナーに参加することが決まった。時期は6月、場所は米国、期間は20日間ほどだった。本人も課としても名誉なことだったが、彼は急遽、英会話の勉強を始めなければならなくなった。

 

また、運用管理チーム主力のSY副長不在時の穴をどう埋めるか?という問題も発生した。これについてはI課長代理のもとYH副長、私(主任)、部下のF、G、OZの間で職場や会議室、また居酒屋でも協議を重ねることになった。かくして、SY副長はアメリカへと無事飛びたつことができた。

 

 

そんな中、厄介なことが発生した。本社・社長室がアメリカの名門コンサルティング会社、マッキンゼー&カンパニー(McKinsey & Company, Inc.)にビジネス・コンサルティングを依頼し外国人のコンサルタントが事務本部・各課に対してヒアリングを行うことになった。

 

課内には男女ともに英語ができそうな人材は見当たらなかった。当時はまあそんなものである。英会話の勉強をしたばかりのSY副長はISPセミナーでアメリカに居た。結局、K課長代理が「えいやっ!」でシステム部門の2名と運用管理部門の2名を業務説明担当者に指名した。

 

運用管理部門は ……、なんとYH副長と私が英語で業務説明をすることになった。当日まで10日くらいしか無かった。

 

YH副長は神奈川県の県立高校出身で慶応・法学部卒。高校時代は剣道部と応援団に所属していたらしい。まるで森田健作の「おれは男だ!」みたいな人だった。

 

また、高校野球、プロ野球を含めて野球選手に相当詳しく、例えばAという選手は○○高校のエースで甲子園では××高校のBに敗れたが、その年のドラフト△位で□□に入団、ルーキーでは●勝したが、翌年肩を壊し以後は鳴かず飛ばずで▲▲年に退団、今は■■市で焼き肉店を経営している、くらいのことは知っていた。

 

私が「YHさん!野球に相当詳しいですね!」と言うと、彼は「こんなものは常識だ!」と答えたが、そんな常識は無い。

 

ヒアリングの日が近づくにつれ「どうしよう ……?」という不安は日々大きくなっていった。YHさんの野球の知識は英語でのヒアリングに対しては屁のつっぱりにもならなかった。翌週にヒアリングを控えた週末、会社でYHさんと対処方法について考えていたが「どうせなら飲みながら考えるか?」と居酒屋に行ったものの ……、結局ただの飲み会になってしまった。

 

結局、その日曜、稚拙な英文構成能力で何となく業務説明の英文を作成して臨むことになった。思えばパソコンもWORDも無い時代、相当酷い英文だったものと思われる。

 

翌週のある平日、ついにマッキンゼー&カンパニーのアメリカ人コンサルタント2名が電算オンライン課にやって来た。ヒアリングは午前中がシステム部門、午後が運用管理部門だった。

 

午前中、システム部門の担当者2名は「我々は英語が全く話せません!」と明言し白旗を挙げてヒアリングに臨んだ。先方の情けに頼る作戦だったようだが、結局玉砕したと聞いた。

 

午後、兎にも角にも運用管理部門のヒアリングが始まった。そのヒアリングの中「従来はアプリケーションごとにA~Zの26個の事務種類が割り当てられていたが、昨今、保険種目の増加や業務の細分化に伴い26個では足らなくなり、例えばABのように英数2桁を使うようになった」みたいなことを言いたい場面が出てきた。

 

さて、これをどう英語で説明するか ……?今なら何とでも英文は作れるが、当時YHさんも私もホトホト困り果てた。「桁あふれ」の専門用語オーバーフロー(overflow)くらいしか頭に浮かばなかった。結局、2桁をYHさんがVサインのジェスチャーで示したり、私が黒板に絵を書くなどして何とか理解してもらった。

 

最後に、2人のコンサルタントは我々の苦労を以下のように(ねぎら)った。

 

“We are very sorry we can’t speak Japanese.”

(我々が日本語が話せなくて申し訳ない) 

 

 

我々を説明担当者に指名したK課長代理(当時)。面倒見が良い温厚な方で公私ともに大変お世話になった。彼の愛称は「ザックリー」。いつも「ざっくりでいいから ……について調べてくれない?」のような感じの人だった。私が退職した時の電算オンライン課長で私の退職を課員に告げたのも彼だった。

 

以前「いいとも会」のOAが、突然私のところに来て「なぁ○○!K課長代理って『オバQ』に似とらんかっ?」と言った。「そう言やぁそうかなぁ~」と思ったが ……、YH副長に話すと「確かに似てないとは言わんが、まあ名誉なことでは無いなぁ~」と言った。

 

 

退職後、厳しくご指導いただいたT課長と年賀状のやり取りが続いていた。翻訳者になった後の話なので10年くらい前だろうか?T課長の年賀状でK課長がご病気で還暦そこそこでお亡くなりになったことを知った。

 

安田火災で最後の最後までお世話になった方だった。この場を借りてお礼を申し上げるとともにご冥福をお祈りしたい。

 

その節は大変お世話になりました。ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。