OYがニューヨークに居た1987年10月19日(月)、いわゆるブラック・マンデーの株価大暴落が発生した。私の仕事に影響は無かったが、その当日と翌日、寮の食堂で財務部の若手が集まって何やら遅くまで議論していた。
ITは1987年9月末に安田火災を退職したが、持株会の端株の精算がこのブラック・マンデーに重なった。「全くついてない!」とぼやいていたが、日経平均株価は当日3,836円下落したものの翌日は2,037円高となり、結局1988年4月には下落分を完全に回復した。確かに「全くついてない!」話だった。
キヤノンから日立への漢字システムの移行や新計上の対応など仕事は忙しくなる一方だったが、部下のOZが様々な実務をどんどん吸収してくれたので、重要な業務に専念できて楽になったのも事実だった。
この秋から冬にかけても、会社の先輩や同期の結婚式の披露宴に立て続けに参加した。このうち課の同期NMの結婚式の写真が今も手許にある。
NMは早稲田・政経卒、奥様も早稲田卒で安田信託銀行に勤務されていた方だった。彼とは新内一課でも同期で電算オンライン課と通算で7年ほど一緒に仕事をした。私のことは運用管理チームのSKと同じくらいよく知っていた。このNMの件については、また何処かで触れることとしたい。
1987年12月。同期のSKが電算オンライン課・スケジューラーチームから開発第一課に異動になった。開発第一課では新種保険のプラニング(設計)を担当すると聞いた。少し羨ましく感じたが「プログラムから長らく離れているからアプリは大変だろうなぁ~」が正直な感想だった。ただ、SKの部下のFは突然重い責任を背負うことになった。
SKが異動して以来、運用チーム若手のスケジューラー・チームのF、プロセス・チームのG、私の部下のOZ、運用管理チーム先輩のSYさんとYHさん、その他OZの同期で日立システム・グループのTの総勢7名での飲み事が多くなった。またストレスが多かったせいか飲み方もだんだん過激になっていった。
1987年の年末・年始は休暇が短く帰省しなかった。寮で過ごしたのか?全く記憶が無い。従って1988年の年明けにも何ら印象がない。
当時、事務本部3Fには電算室(マシンルーム)、電算オンライン課、YKCシステム一課があり、フロアの東端にデバッグ・ルームと呼ばれるエリアがあった。
デバッグ(Debug)とは「コンピュータ・プログラムの欠陥を探して修正する」ことを言うが、デバッグ・ルームはいくつかの区画に分かれており各区画には長机を向い合せにして作業台が作られていた。電話も無く一事に集中できる場所でプログラムをじっくり読んでいるプログラマも多かった。
そのデバッグ・ルームと通路を挟んだ向かいにIBMと日立のSE/CEルームがあった。まだ喫煙に厳しい時代ではなかったのでデバッグ・ルームもSE/CEルームも、行くと大抵は煙草の煙が立ち込めていた。
このSE/CEルームの隣に一室空き部屋があった。私はここに目を付けた。キヤノンから日立への漢字システムの移行プロジェクトの専用スペースに絶好の場所だった。H課長ではなく面倒見の良いK課長代理にやんわりとお願いしてみると ……、「移行プロジェクトで(排他的に)使用して良い」旨の許可が降りた。移行プロジェクトに必要なマニュアルや資料等を運び込むと何となく「研究室」風になった。と言うよりは、それはまるで子供の頃に作った「秘密基地」そのものだった。
1988年の春、IBMのOSのバージョン・アップ(MVS⇒MVS/XA)に伴い、スケジュール管理ソフトA-AUTOのソフトウェア修正を行ったことがあった。担当はYHさんだった。A-AUTOのSEは名前を「ヤギ〇ウ」と言った。
当日の朝、YHさんはそのSEを「ヤギ〇ウ」さんと呼んでいた。昼休み、YHさんから「一緒にメシに行かんか?」と誘われた。昼食をとったときの呼び方は「ヤギ〇ウ」クン君になっていた。いつの間にか「クン呼び」に変わっていた。
夕刻、YHさんがSEと電算室内を走り回っていた。SEが捌けないために作業が上手く進んでいなかったようである。その頃は「ヤギ〇ウ!ヤギ〇ウ!」と呼び捨てていた。他社のSEが一日でYHさんの部下未満の存在になっていた。
その日、運用管理チームで飲みに行くことになった。場所は田無だった。YHさんに「SYさんたちと今から田無で飲みますけど来ませんか?」と聞くと「少し遅れるけど必ず行く!」と答えた。
我々は19時くらいから飲んでいたがYHさんが合流したのは20時半頃だった。作業が終わった後「ヤギ〇ウ」に1時間近く話をした(説教した?)ようだった。YHさんは「人にモノを教えるのは気分が良いなぁ!」と言いながら生ビールをグイグイ飲んでいた。
それから暫く経って ……、例の「ヤギ〇ウ」がSE部門から営業部門に異動になったと風の噂で聞いた。