イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -51ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Ted Eytan

 

 

現在、Twitterで当教会と小職について、現実にあったことと、現実にはなかった色々な事実誤認等を織り交ぜて、毎日精力的に情報を流している方についても、預言をいただいております。

この方も、娘さんからの宣教によって、主イエス・キリストの救いを受け入れるようになり、アブラハムの子孫に加えられます。

しかし、その前に、幾多の苦難があるでしょう。



ヨハネは「神は愛です」と書いています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
第一ヨハネ4:8

ヨハネが言っている「神」とは、ユダヤ人としての教育を受けたヨハネの1世紀当時の背景や、書簡の文脈を丁寧に読み取っていくなら、アブラハムに現れた神、つまり、イスラエルの神のことを言っているのだと理解できます。その「神」が御子イエス・キリストの十字架によって、「父」になったのです。

天の父の愛は、私たち人間の理解をはるかに超えています。
何度も、その、凄まじいとも言える、理解を超えた神の愛を、経験しました。
これは、聖書通りにやって、聖書通りの教えを信じて、初代教会が回復して、キリスト信徒複数が互いに愛し合う、主イエスの新しい戒めを守っているから、経験できることです。(当教会では、息子(受洗済)と私たち夫婦の家族3名に加えて、兄弟姉妹2名が一緒にご飯を食べる生活を送っています。それは聖書に記されている初代教会の形をそのまま実践しているのです)



天の父は、不完全な人を愛されます。また、御子であられるイエス。十字架に付けられて、ご自身の御業を成し遂げられたイエスが、その人のために執り成します。

罪を赦す主体は、創造主であられる天の父です。
この天の父に、御子であられるイエスが、天の父の右の座にいらっしゃって、その人のために執り成します。

少し前に預言で、異邦人でありながら、アブラハムの子孫に加えられる「信仰によるイスラエル」は、精神障害を持った方々と、性に関する重い罪を犯し続けて生きてきた方々の中にいる、ということを言われたことがあります。

こうした方々が、主イエス・キリストの言う「イスラエルの家の失われた羊」です。

しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
マタイ15:24

ヨハネの福音書に、五人の夫と結婚をした後、別な男性と同棲をしている女性が出てきます(ヨハネ4章)。この方もまた、「イスラエルの家の失われた羊」です。

このような、社会通念に照らせば、ひどく劣った、何の評価もされないような方が、不思議な神の選びによって、御子であり、王の王であられるイエス・キリストに巡り会い、どんどん変えられて行くのです。

それはつまり、エペソ1:4と、第一ペテロ1:2で書かれている、「生まれる前から、主イエス・キリストにあって(主イエス・キリストに似る者となるように)選ばれていた人」が、そのように、イエス・キリストに巡り合って、変えられて行くのです。

サマリヤの女の後日談が書かれていませんが、私は、福音書に登場するほとんどの人たちは、後日、初代教会に加わって熱心なキリスト信徒になり、兄弟姉妹が互いに愛し合う関係の中で、神の赦しや癒しや悪霊からの解放を経験して、立派な信徒として成長した方々だと、理解しています。

異邦人であるサマリヤの女も、異邦人にも与えられたイエス・キリストの福音、神の国の福音によって、イスラエルに加えられたのです。

私たちも、そうなるのです。



主イエス・キリストの救いは、神の選びにかかっています。
聖書に書かれている、「予め選ばれている人」を、神はお救いになるのです。
そういう人のために、御子であられるイエスが十字架で、ご自身をお捧げになったのです。

そういう選ばれている人は、創世記でアダムが「私たちの形として」「私たちに似るように」創造された、その創造の時の天の父と御子イエスの想いに沿って、「神に似る人になる」のです。すなわち、主イエス・キリストと同じ姿に変えられて行きます。これは、神の選びによるのです。不思議な選びです。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
第二コリント3:18



残念ながら、生まれる前から、主イエス・キリストにあって(主イエス・キリストに似るように)選ばれている人たちのほとんどは、サタンが支配しているこの世において、小さい頃からマスターベーション等の悪癖に染まり、いつしか、悪霊が入る元となる性に関する罪(不倫、売春、SM、ポルノ耽溺など)を犯すようになり、また、聖書で言う偶像崇拝に当たるスピリチュアルの諸々(占い、呪い、魔術、引き寄せ、ヒーリング、瞑想、能力開発、人心コントロールなど)にはまり込んで、悪霊複数が住み着くようになります。

サマリヤの女が、その一つの例だと言えるでしょう。七つの罪を犯したと書かれているマグダラのマリヤもその一例です。

悪霊の追い出しの複数のケースを見てわかることは、エペソ1:4、第一ペテロ1:2に書かれている、生まれる前から選ばれている人は、その「神によって選ばれている」ということが、サタンやその配下の悪霊にはすぐにわかるようで、小さな頃から手出しをされ、マスターベーションの悪癖に染まるようになり、長じて、重たい性の罪を繰り返すようになり、また、スピリチュアルの諸々にはまり込むようになる。

つまり、「世界の基が置かれる前から選ばれている人」(エペソ1:2)は、小さな頃からサタンや悪霊の攻撃対象となり、思春期には複数の悪霊が住み着くようになる。そうして、大変に苦しい人生を、10年、20年、30年と送る。そういう共通パターンがあるように思えます。



しかし、そうした人が「イスラエルの家の失われた羊」なのです。

そうした人たちのために、主イエス・キリストは十字架に架けられて、主イエスを見上げて、信じる人に、完全な解放の道筋を作られたのです。この道筋は、天の父の御心でもありました。

そうした、幼少期からマスターベーションの悪癖に染まって、10数歳の時には、悪霊がいくつも住み着くような行為を繰り返していた人が(それはサタンと悪霊に狙われたからですが)、実は、天の父によって、生まれる前から選ばれていて、数々の罪を犯しているにも関わらず、イエス・キリストがすべての罪を引き取って下さって、その血によって洗って下さり、聖なる者として下さるのです。それが天の父の御心なのです。そうした御心のために、御子であられるイエスは、何の罪もないのに、十字架に架けられたのです。

それは、最終的にサタン(悪魔)の仕業が完全に滅ぼされるためです。
御子であられるイエスの敵が、すべて、イエス・キリストの足台になって、そこに御子イエスが栄光に包まれて来臨されるためです。

性の重たい罪を犯し続けてきた人。
また、スピリチュアルにはまって精神のバランスがおかしくなって、妄想や幻聴や不眠や人格障害で苦しんでいる人。

そうした人でも、聖書に興味を持つようになり、イエス・キリストこそが自分を救ってくれるのだと確信を持って、毎日のように、福音に関する情報を検索して歩いている人。

そうした人が「イスラエルの家の失われた羊」なのです。
そうした不完全な人を、天の父は、不思議な選びによって、実は選ばれており、その選びのゆえに、御子であられるイエス・キリストの救いと解放に、導いて下さるのです。

ハレルヤ!
まことに不思議な神の御心です。
神の愛は、いかに測り難いか。


 

 

Courtesy of Elke Mader

 

 

悪霊の問題を持っている人達の話を伺っていて気づくのは、大変に残念なことですが、「神」よりも「自分」を愛する人がいかに多いかということです。

自分を愛することの弊害については、以下でも書きました。

「自分のストーリー」を考え続ける悪霊 - その「孤独」が癒されるために(2)https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12743875801.html



イエス・キリストが求めておられる弟子は、何よりもまず、「『神』を愛する人」です。

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
マタイ22:37

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
マルコ12:30

また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
マルコ12:33

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
ルカ10:27

ここで御子イエスがおっしゃっているのは、1世紀当時のユダヤの宗教的な文脈を考えるならば、「あなたの神である主」とは「イスラエルの神」であられる「天の父」のことです。

天の父を、心を尽くして、思いを尽くして、知力を尽くして、愛しなさいと、教えておられるのです。

残念なことに、プロテスタント教会一般では、「主」(これがどの神を指しているのかわからない)、ないし「主イエス・キリスト」を愛するということは教えられますが、「天の父を愛する」ことについては、ほとんど教えられません。これが、三位一体の偶像の"神"の下にいることの弊害です。普通、プロテスタント教会にいる人達は、牧師も含めて、神であられる天の父について、漠然としたイメージしか持っていません。三位一体の人工的な"神"が、本当の神を知ることを妨げています。盲目があります。



悪霊は、「神に敵する者」という意味を持つ「サタン」の配下にある悪しき霊、汚れた霊ですから、「自分を愛して天から落とされたルシファー」の性質を受け継いでいます。

悪霊は「自分を愛する」のです。また、「自分を愛する人」に、悪霊は入り込む余地を見つけて、住み着きます。



悪霊からの解放は、主イエス・キリストのお名前と権威によります。イエス・キリストの十字架の意味がわかる人は、解放されます。これがわからない人は、解放されません。以下でも記しました。

悪霊の追い出しアップデート(1)- 悪霊の追い出しがうまく行かない理由

https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12739983008.html

「『神』よりも自分を愛する人」は、悪霊の追い出しの過程で、そうした自分を徹底的に砕かれる、という所を通過します。

どのような形になるか、悪霊の追い出しには、定型的なパターンというのはありませんから、その人の状況に応じて、悪霊の追い出しの展開は、天の父の御心と主イエス・キリストの執り成しによって、色々に変化します。従って、その人の「自分を愛する人」が砕かれて、「『神』を愛する人」に変えられる過程は、どのように展開するかは、一人ひとりによって違います。

どのような形であるとしても、悪霊から完全に解放されるには、その人は、「『神』よりも自分を愛する人」が、徹底的に砕かれます。

これを通過しないと、悪霊は、出て行きません。



 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

先ほど、祈っていて、わからされたこと。

天の父と御子イエスは、創世記において最初の人アダムを創造なさった際に、アダムを「われわれの形として」「われわれに似せて」お造りになりました。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
創世記1:26

この「われわれの形として」「われわれに似せて」をよく理解させるのが、ヨハネ福音書14章〜17章の主イエス最終説教で説明されている「父と子の関係」です。一言で言えば、「互いに愛し合う」関係が、繰り返し繰り返し説明されています。

天の父と御子であるイエスとは、互いに愛し合っているのです。(ヨハネ福音書14章〜17章を読み直してみて下さい)

そうした「互いに愛し合う形として」、「互いに愛し合う天の父と御子イエスに似せて」、最初の人であるアダムをお造りになったのです。

この時、創造主が行われたことは、土で造ったアダムに「いのちの息」を吹き込まれた。「息」、ヘブライ語"neshamah"(アルファベット表記)には「霊」という意味があります。創造主の「霊」を吹き込まれたということです。

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
創世記2:7

○サタンが行ったことの本質

この「いのちの息」が、アダムがサタンの言葉に聞いて従ったことによって失われました。

つまり「創造主から吹き込まれた霊」が失われた。

それはつまり、「天の父と御子イエスの互いに愛し合う形として」「天の父と御子イエスが互いに愛し合う関係に似せて」造られた人間が、「互いに愛し合うことができない」人間になってしまった、ということです。
いがみ合う人間となった。互いに罪をなすりつけ合う人間となった。

アダムがエバの罪を言い立てたのは、そのことの表れです。

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
創世記3:9-12

このように、アダムは、自分の罪をエバのせいにしました。
こうした「互いにいがみ合う関係」は、「天の父と御子イエスの互いに愛し合う関係」とは対極にあるものです。

サタンは、そのように、自分の言葉を聞かせて、従わせて、人間を「互いにいがみ合う」存在へと変えた。「互いに愛し合う」ことができない人間へと変えた。それが、サタンが行ったことの本質です。



そうして、長い年月が過ぎて、御子であられるイエスが地上に遣わされた。

天の父の御子であられるイエスは、神の国の福音を宣べ伝えて -- それはつまりアダムが創造された時のエデンが回復する=アダムが創造された時の「いのちの息」「神の霊」がある状態が回復する、ということの先触れでもあります -- 十字架に架けられ、死んで、三日目によみがえりました。そうして、四十日の宣教の後、天に上げられた。

これによって、御子であられるイエスを信じる人に -- それは御子であられるイエスの父であられる方をも信じるということです -- アダムに吹き込まれた「いのちの息」である「聖霊」を下されることとなった。

聖霊は、力と愛と慎みとの霊だと、パウロが記しています(第二テモテ1:7)。



主イエス・キリストが弟子たちに提示した「新し戒め」である「互いに愛し合いなさい」。

これには、「あなたたちは、サタンの影響から完全に脱して、アダムが「われわれの形に」「われわれに似せて」造られた状態へ回復するんだよ」「それはつまり『互いに愛し合うこと』で、アダムが造られた状態が回復するんだよ」という、アダム創造の現場に立ち会っていた御子であられるイエスの教えが含まれていると、解釈しました。



エペソ1:4と第一ペテロ1:2には「神の召し」のことが書いてあります。また、天の父に召された人でなければ、御子であるイエス・キリストの下に来ることはできないということも、ヨハネ福音書で複数回説明されています。

こうした、主イエス・キリストに似るように、天の父によって召された人たちは、「互いにいがみ合う」ことはしません。教理や教義や聖書解釈をテーマとして「互いにいがみ合う」ことはないです。

パウロが書くように、信仰は一つです。

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

エペソ4:5-6

召された人は、聖書をよく読むように仕向けられ、イエス・キリストの戒めを守るように仕向けられ、「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」を守るように仕向けられるのです。

それがあるから、主イエス・キリストは、「互いに愛し合っている人たちが、その互いに愛し合っていることで、「私の弟子だ」とわかる」と言っているのです。



パウロが書くように、神は愛ですし、愛のない者に、神はわかりません。

そのことは、「互いに愛し合う」ことなしに、神を理解することは、できないということです。

むしろ「互いに愛し合う」ように仕向けられる。それは召された人が、そのように仕向けられるのです。それは、その人が「神の作品」だからです。

何度も経験することですが、本当に「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」を、信仰を等しくする兄弟姉妹同士で守っていると、そこに『愛の神』であられる天の父が、まさに『愛の御業』と呼ぶしかない展開をなさって、互いに愛し合っている兄弟姉妹全員に、『神が愛であること』をわからせて下さいます。

召された人は、「互いに愛し合う」のです。


 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

マタイ5:3

 

この聖句を英語訳で確かめると、以下のように「霊において貧しいもの」と書かれています。

 

New International Version
“Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

King James Bible
Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.

 

また、ギリシャ語を確かめてみましたが、やはり、霊において貧しい、という意味です。しかも、その「霊」には定冠詞が付いていますから、ズバリ、聖霊において貧しい=聖霊が下っていない、という意味になります。

 

この聖句は、日本語訳では、いつも「心の貧しい人は…」と訳され、それがどういう意味か論じられてきました。しかし、本当の意味は、聖霊において貧しい=聖霊が下っていない、そうした人も、天の御国を受け継ぐことができる=いずれ聖霊が下って神の人となる。そういう意味だと、受け止めることができます。

 

 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

イスラエルの神こそが唯一のまことの神であられることを、御子イエスの父なる神であられることを、すべての人が見る。

聖書に書かれていることは、曇りのない目で読めば、イスラエルの神こそが唯一のまことの神であられ(ヨハネ17:3)、その御子イエスが地上に遣わされて、神の国の福音を宣教され、十字架に架けられて、三日目によみがえり、ご自身がメシア(王の王)であることを現された。
この御子から見た御父こそが、本当の神であるということを終わりの日に現される。
そうして、ご自身の民イスラエルを一人残さず、御子イエスにあって、滅びてゆくこの世から救い出され、新天新地に連れて行く。そうした、イスラエルの神と、御子イエスと、イスラエルの民のストーリーであると読めます。



私たち異邦人は、このイスラエルの民に特別に加えられた。御子イエスを信じる信仰によって。それは世界の基が置かれる前から、主イエス・キリストにあって選ばれているから。
そのことも聖書に書いてあります。



そのような大きなストーリーが進展している中で、イスラエルの神であられる天の父は、ご自身こそが本当の神であることを、現そうとなさっている。それが、今、ということです。



イスラエルの神は、天地創造をなさった神であり、何もないところから土で人間アダムを造られた方であり、しかも、人間アダムをご自身に似せて、ご自身の形に造られた方です(その創造の場には御子であられるイエスもいらっしゃいました)。

人間一人ひとりの髪の毛でさえ数えられており、スズメ一羽が命を落とすことさえ、イスラエルの神であられる天の父が、全能の神として、支配しておられます。

気づくか、気づかないかは別として、すべての命は、この全能の神であられるイスラエルの神、すなわち、天の父が司っておられ、あなたも私もあの人もこの人も、この神によって生かされているのです。多くの場合は、気づかないですが。

そうして、ご自身の民のみを、出エジプトのように、この世の滅びから救い出されるのです。御子であるイエスを王の王としてお立てになって。耳のある人が、その福音を聞いて、イエスの下に連れて来られて。(連れて来る主体は、イスラエルの神であられる天の父です。)



そのような大きなストーリーが、現在、進展している中で、ロシアによるウクライナ侵攻に見るように、終わりの日(日々)に起こると預言されている出来事が、その通りに展開している中で、イスラエルの神こそが唯一のまことの神であり、全世界で”神”として拝まれているものは、イスラエルの神に反する"霊"に過ぎず、その実、天から落とされた以前の御使いに過ぎないことが、すべての人の目に明らかとなる。

ご自身こそが神であり、全能の方として、存在を現される。

それは、聖書の中の預言では、「わたしが、あなたの敵を、あなたの足台とするまで、わたしの右の座に着いていなさい」とおっしゃられた。

すなわち、イスラエルの神であられる方が、イエス・キリストの敵であるすべての"神々"を滅ぼされ、それが"霊"に過ぎないことを証明なさる。

そうしたことが、聖書全巻を通じて、言われている。

そうして、王の王であられるイエス・キリストが来臨され、親しいイスラエルたちを一人ひとりご自分の下に集められて、新天新地に入っていく。

そのようにして、唯一のまことの神であられるイスラエルの神、私たちの天の父を、主イエス・キリストの名によってほめたたえる。

いま、そこに向かって、すべての物事が進展しているのです。