啓示:召されている人は「互いに愛し合う」戒めを守るように仕向けられる | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

先ほど、祈っていて、わからされたこと。

天の父と御子イエスは、創世記において最初の人アダムを創造なさった際に、アダムを「われわれの形として」「われわれに似せて」お造りになりました。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
創世記1:26

この「われわれの形として」「われわれに似せて」をよく理解させるのが、ヨハネ福音書14章〜17章の主イエス最終説教で説明されている「父と子の関係」です。一言で言えば、「互いに愛し合う」関係が、繰り返し繰り返し説明されています。

天の父と御子であるイエスとは、互いに愛し合っているのです。(ヨハネ福音書14章〜17章を読み直してみて下さい)

そうした「互いに愛し合う形として」、「互いに愛し合う天の父と御子イエスに似せて」、最初の人であるアダムをお造りになったのです。

この時、創造主が行われたことは、土で造ったアダムに「いのちの息」を吹き込まれた。「息」、ヘブライ語"neshamah"(アルファベット表記)には「霊」という意味があります。創造主の「霊」を吹き込まれたということです。

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
創世記2:7

○サタンが行ったことの本質

この「いのちの息」が、アダムがサタンの言葉に聞いて従ったことによって失われました。

つまり「創造主から吹き込まれた霊」が失われた。

それはつまり、「天の父と御子イエスの互いに愛し合う形として」「天の父と御子イエスが互いに愛し合う関係に似せて」造られた人間が、「互いに愛し合うことができない」人間になってしまった、ということです。
いがみ合う人間となった。互いに罪をなすりつけ合う人間となった。

アダムがエバの罪を言い立てたのは、そのことの表れです。

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
創世記3:9-12

このように、アダムは、自分の罪をエバのせいにしました。
こうした「互いにいがみ合う関係」は、「天の父と御子イエスの互いに愛し合う関係」とは対極にあるものです。

サタンは、そのように、自分の言葉を聞かせて、従わせて、人間を「互いにいがみ合う」存在へと変えた。「互いに愛し合う」ことができない人間へと変えた。それが、サタンが行ったことの本質です。



そうして、長い年月が過ぎて、御子であられるイエスが地上に遣わされた。

天の父の御子であられるイエスは、神の国の福音を宣べ伝えて -- それはつまりアダムが創造された時のエデンが回復する=アダムが創造された時の「いのちの息」「神の霊」がある状態が回復する、ということの先触れでもあります -- 十字架に架けられ、死んで、三日目によみがえりました。そうして、四十日の宣教の後、天に上げられた。

これによって、御子であられるイエスを信じる人に -- それは御子であられるイエスの父であられる方をも信じるということです -- アダムに吹き込まれた「いのちの息」である「聖霊」を下されることとなった。

聖霊は、力と愛と慎みとの霊だと、パウロが記しています(第二テモテ1:7)。



主イエス・キリストが弟子たちに提示した「新し戒め」である「互いに愛し合いなさい」。

これには、「あなたたちは、サタンの影響から完全に脱して、アダムが「われわれの形に」「われわれに似せて」造られた状態へ回復するんだよ」「それはつまり『互いに愛し合うこと』で、アダムが造られた状態が回復するんだよ」という、アダム創造の現場に立ち会っていた御子であられるイエスの教えが含まれていると、解釈しました。



エペソ1:4と第一ペテロ1:2には「神の召し」のことが書いてあります。また、天の父に召された人でなければ、御子であるイエス・キリストの下に来ることはできないということも、ヨハネ福音書で複数回説明されています。

こうした、主イエス・キリストに似るように、天の父によって召された人たちは、「互いにいがみ合う」ことはしません。教理や教義や聖書解釈をテーマとして「互いにいがみ合う」ことはないです。

パウロが書くように、信仰は一つです。

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

エペソ4:5-6

召された人は、聖書をよく読むように仕向けられ、イエス・キリストの戒めを守るように仕向けられ、「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」を守るように仕向けられるのです。

それがあるから、主イエス・キリストは、「互いに愛し合っている人たちが、その互いに愛し合っていることで、「私の弟子だ」とわかる」と言っているのです。



パウロが書くように、神は愛ですし、愛のない者に、神はわかりません。

そのことは、「互いに愛し合う」ことなしに、神を理解することは、できないということです。

むしろ「互いに愛し合う」ように仕向けられる。それは召された人が、そのように仕向けられるのです。それは、その人が「神の作品」だからです。

何度も経験することですが、本当に「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」を、信仰を等しくする兄弟姉妹同士で守っていると、そこに『愛の神』であられる天の父が、まさに『愛の御業』と呼ぶしかない展開をなさって、互いに愛し合っている兄弟姉妹全員に、『神が愛であること』をわからせて下さいます。

召された人は、「互いに愛し合う」のです。