シンクレティズムの”森"を、神学をサーチライトとして彷徨うけれども、どこまで行っても、イスラエルの神はおられない。それに伴って、イスラエルの神の御子であられるイエスも見つからない。
そういう所かと、思います。素朴な考えとして。
Courtesy of Diana Robinson
パウロが立脚していたユダヤ教的な伝統に照らすなら、また、N.T.ライトが発掘している1世紀のキリスト教の姿と対比するなら、3世紀〜4世紀以降に成立した「キリスト教」は、ギリシャ的/ヘレニズム的な宗教的土壌から来る諸々の"神"、諸々の信仰と混淆したシンクレティズムに他ならない、ということに、今、気づきました。
Courtesy of Damian Gadal
悪霊の追い出しは、マルコ16章の末尾に書かれているように、イエス・キリストを信じる人の信仰に伴う「しるし」の一つです。聖書通りの信仰があり、聖書通りの教会活動を行なっており、聖書通りに生きているならば、その人は、悪霊の追い出し”も”します。
悪霊の追い出しをしないのであれば、その人の信仰が聖書通りでないか、聖書通りではないキリスト教会に関係していてイエス・キリストの教えを守っていないか、聖書通りに生きていないか、です。
聖書通りとは、言い換えれば、使徒の働きやパウロ書簡に窺うことができる「初代教会」と全く同じ形で、信仰があり、信徒間の交わりがあり、自分の生き方もそれと全く同じになっている、ということです。
残念ながら、初代教会が展開していた1世紀の後で、ユダヤ的旧約聖書的な観点から見れば、全くの異邦人/異教徒の霊的背景を持った人々が2世紀以降のキリスト教会群にあふれるようになって(具体的にはヘレニズム世界におけるグノーシスと新プラトン主義)、最終的に325年ニカイア公会議、381年コンスタンティノープル公会議で成立した三位一体の教義。人工的な"神"。イスラエルの神とは似ても似つかぬ"神"。この"神"の下では、イエス・キリストも偶像に他なりませんから、このイエス・キリストを信じていると言っている人達は、聖書に照らして、信仰があるとは言えない。従って、マルコ16章に書かれている「信じる人に伴う『しるし』」がない。そういう霊的な図式があります。
信じる人は、イエス・キリストの名と権威によって、悪霊を追い出すのです。それはきわめてシンプルな、聖書に照らして、誰にもわかる真実です。それを、神学の終焉主義や諸々の聖書解釈によって、枉げて、何かを論じてみても、詮無いことです。
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初代教会の伝統が異教徒(グノーシス、新プラトン主義)によって断ち切られて千数百年。初代教会の具体的な活動形態は、記録が残っていないですから(敵によって記録が抹消されたと考えています)、聖書に記されている断片的な記述を元に、こうではなかったか、ああではなかったかと、試行錯誤しながら再構築していくしかありません。
例えば、祈り方。
例えば、礼拝の仕方。
それを、新約聖書の記述を元に、また、それの下敷きとなっている旧約聖書の記述を元に、再構成していくのです。なぜならば、初代教会の記録は残っていません。伝統が断ち切られています。現在あるキリスト教会のほとんどは4世紀に成立した人工的な"神"である三位一体を奉じている教会であり、初代教会を回復させる時の手がかりを提供できません。
もちろん、初代教会の回復に当たっては、その都度、天の父が教えて下さり、イエス・キリストの執り成しがあります。また、真正な聖霊が下っていますから、聖霊も助けて下さる。
しかし、例えば、悪霊の追い出しの具体的な進め方についても、初代教会のやり方を記した記録がない中では、ある意味、試行錯誤にならざるを得ません。
あるやり方がうまくいくケースがある。
また、別なやり方が、うまくいかないケースがある。
それが現実です。
また、そこにも、創造主であられ、イスラエルの神であられる天の父の御業が働いており、御心がなされている。生ける神の御子イエス・キリストが、臨んでいらっしゃって、常に父の右の御座で執り成しておられる。
そうした中で、信じる人の日常は、記録がありませんから、聖書の記述を元に、右に進む、あるいは、左に進むという形になります。間違っていれば、聖霊が気づかせてくれることもあります。また、明示的に、早朝の祈りの中で、天の父が教えてくれることもあります。
そのようにして、悪霊の追い出しの具体的なプロセスも、固まったきたのです。
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リーハイバレージャパニーズミニストリーズの動画で、ジョン・ラミレスの悪霊の追い出しを見た人は、「あれが悪霊の追い出しだ」と勘違いしています。往々にして、ああいうものが、悪霊の追い出しだと考えている。
簡単に言うと、ある短い時間の中で、追い出しをやるミニスターが「出て行け!」とやると、それで出ていく。悪霊の追い出しは、それでおしまい。(アフターケア的に、何度かやらないという構えの人達もいます)
ものすごく簡単に言うと、一種のマジックショーのように、ミニスターがエイやっとやると、それで悪霊の追い出しは終わってしまうものだ、と考えている人が、ものすごく多い。リーハイバレージャパニーズミストリーズの動画の弊害が、そこにあります。申し訳ないけれども、弊害です。そんな、短時間で済むものではない。
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私の師匠であるジョゼフ・ジャシンスキ牧師(Jozef Jasinski, Promised Land MInistries)は、来日した際の短いレクチャーで、「デリバランス(悪霊の追い出し)は『プロセス』だ」とおっしゃいました。これが2019年のことだったと思います。
その後、様々な大変な方々のケースに取り組むようになって、彼が言っていた「悪霊の追い出しは『プロセス』だ」という意味が、理解できるようになりました。
(私はそれ以前の2017年末から、ジョゼフ・ジャシンスキの最初の出会いの後で、悪霊の追い出しをやらせていただくようになっています)
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プロセスだ、ということの意味は、悪霊の問題を抱えた人と、小職とが、何度も何度も対話をしながら、
1)その人に悪霊が入った原因
を突き止めて行き(それには長い時間がかかります)、
2)その人のイエス・キリストについての信仰
が育まれるように、聖書の音読を一定期間続けて、
3)悪霊は、イエス・キリストの名と権威によって、出ていくのだという信仰
をしっかりと持っていただき、
最初の悪霊の追い出しセッションに臨む(何度か必要になります)、という一連の手順が必要になるということです。
通例、一週間に一度、曜日と時間を決めて、話をすることから始まります。
最初の一二回は良いですが、三度、四度と回を重ねるようになると、これが、しんどくなります。この段階で、連絡を絶って、いきなりいなくなる人もいます。
悪霊が入る原因となった事柄を、自分で突き止めていく過程に、耐えられなくなるからです。
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悪霊は、一般的には、モーセの十戒のうち、偶像崇拝を禁じている戒めと、姦淫を禁じている戒めのいずれかを犯していることから、その人に入る余地を見つけ、多くの場合は、幼い頃に、入ります。あるいは、思春期に入ります。
偶像崇拝の範囲は広く、異教、占い、スピリチュアル全般、音楽、超能力・霊能力を成長させていく漫画などが入ってきます。日本にはあふれています。
姦淫の罪は、マスターベーションの性癖がきっかけとなって、ポルノ耽溺、婚外交渉の繰り返し、不倫の繰り返し、売春の繰り返し、SM等異常な性交渉の繰り返しなどです。多くは幼い頃のマスターベーションから発展して、そういう事柄に及びます。
その他、自分から見て上の世代にいる方が行なっていた、家系にまつわる程度のひどい偶像崇拝が原因となって、下の世代であるご本人に悪霊が入るケースもあります。(出エジプト記20:5など)
悪霊が入るきっかけになった、そうした事柄を、週一回の準備対話の中で、一つ一つ思い出し、記憶を掘り起こして、明るみに出さなければならない。
それは以下の一連の聖句にもある通りです。
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです――
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
エペソ5章
悪霊が入るきっかけになった事柄は、必ず、暗闇で行われています。隠れて行われている、忌むべき行為です。
それを、主イエス・キリストの御名によって、主イエス・キリストが臨んでおられる霊的な場において、明るみに出す必要があります。
ここがすでに初代教会的な信仰が、あるか、ないか、が分かれ目になる所です。
仮に、パウロが宣教していた初代教会的な信仰がないのであれば、こうした、週に一度、曜日と時間を決めて行う準備対話において、過去の恥ずべき行為などを、「自分の口で言い表す」(ヤコブ5:16、第一ヨハネ1:9)には、何の意味もありません。
従って、この信仰がない人は、週一の準備対話を続けていく中で、自然と脱落して行きます。残念ながら、そういうパターンになる人が、ある程度、います。
Courtesy of Pedro Szekely
非常にいい経験をさせてもらっています。
昨日は、愛知県警津島警察署に行って、現在起こっている事案について、二度目の話をしました。かれこれ2時間でした。
担当して下さった刑事Sさんは、親身になって話を聞いて下さり、客観的な立場から、非常に創造的な対応策をアドバイスして下さいました。この対応策は、私たちでは思いもつかなかったものです。また、聖書の教えに合致していると思いました。
その対応策について、説明している刑事Sさんの口を通じて、神様が語って下さっているのではないかと思いました。
ハレルヤ!感謝します!
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この事案は、当教会とその方との目に見える関係だけでなく、ご家族であられるその方に働く、聖書で記されている通りの神の働き、御子イエスの執り成し(=救い)のストーリーを包含しているのだ、ということを、先日、天の父から教えられました。目に見えない、神から来るストーリーが、全体の状況の中で、進展しています。それを知らされた時、ああと思いました。神の愛はいかに深いことかと。
神の愛が働く局面では、主イエス・キリストを信じる信徒は、徹底的にイエス・キリストの教えを守るように、仕向けられます。非常に大変な局面で、肉で歩むならば絶対に難しい事柄について、イエス・キリストの教えが頭にはっきりと浮かんできて -- それは聖霊の働きによります -- その御言葉を「守る」ように、仕向けられます。これは、神であられる天の父が、そのように仕向けるのです。なぜなら、私たちは「神の作品」です(エペソ2:10)。
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
ヨハネ14:23
イエス・キリストを愛する人は、イエス・キリストの言葉を守るのです。
この「守る」は、ギリシャ語原典を確かめると、「ルールを守る」という意味の「守る」以外に、「その神の言葉が成就するように、敵の攻撃からガードする」という意味合いもあります。
これは、エレミヤ1章で、神である主が、つまり、新約聖書の天の父が、ご自身の言葉が成就するように「見張っている」とおっしゃった。それと同じ意味です。
すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」
エレミヤ1:12
神は、ご自身の言葉が成就するように、その言葉と、それを取り巻く状況を見張っているのです。その言葉が、敵によって破壊されないように「守っている」のです。
主イエス・キリストがヨハネ14:23でおっしゃった「わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」も、まったく同じ意味です。イエス・キリストの教えが成就するように、現実に展開するように、また、それによって実を結ぶように、その教えが敵によって蹴散らされることから「守る」(ガードする)のです。それが、イエス・キリストを愛する人の行うことです。
もちろん、困難な状況で、イエス・キリストの教えを守ることには、大変な苦しみが伴います。
しかし、その苦しみは、ご自身について言われた預言が成就するように、ゴルゴタへ向かう途上でムチや悪口や唾を吐きかけられることに耐え、太い鉄の棒で手足を撃ち抜かれて十字架に架けられている激痛に耐えた主イエス・キリストが耐えていた苦しみと、程度の差はあっても、本質的に同じものです。神の言葉を守るために、その苦しみを忍ぶのです。
イエス・キリストを愛さない人は、イエス・キリストの教えをガードしません。むしろ、そこから逸れてしまいます。
最後の最後に、イエス・キリストの教えを守り、その苦しみを耐えて、その先に進む人を、天の父も、御子イエスも、ご自身の家族として迎え入れて下さいます。それがまさに聖書に書いていることです。
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そのようなことがありますから、その都度教えられる天の父からの教え、御子イエスの聖書の御言葉を通じた教え。そうして、その都度、わからせてくれる聖霊の働き。
これに従って歩む時、「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)とイエス様がおっしゃった「道」が、そこに、あると確信しています。
Courtesy of Pedro Szekely
生きていく時、色々なことが起こります。
大変な時に、ふっと、聖書の聖句が思い浮かびます。
おそらく、聖霊が、教えてくれるのだと思います。
今朝、早朝に起きて、目に飛び込んできたものを見て、すぐに思い浮かんだのが、以下の聖句。
あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
ヨシュア記1:5-8
まさに、そうだなと思いました。
ヨシュアは、日本の歴史で言えば、織田信長のような人ではなかったかと思います。
自分でどんどん進んでいく武将です。
2000年になろうとしているキリスト教の歴史においては、ヨシュアのような人が、求められる局面もあるのだろうと、思います。