イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -49ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Ted Eytan

 

 

聖書通りにやって、初代教会が回復して、主イエス・キリストの最も重要な戒めである「互いに愛し合いなさい」を、兄弟姉妹同士でしっかりと守るようになると、そこに、イスラエルの生ける神であられる天の父と、生ける神の御子イエスとが、ヨハネ14:23に書かれているままに、一緒に来て住んで下さいます。

これは、その特定の個人に「住む」のではなく、その「互いに愛し合っているキリスト信徒の『間に』住まわれる」のです。その関係性に住まわれます。

この「関係性に住まわれる」天の父と御子イエスとの関係は、ヨハネ福音書14章〜17章に余すことなく記述されている通りです。天の父は御子にあり、御子は天の父にあります。主イエス・キリストが新しい戒めとして提示した「互いに愛し合いなさい」は、父が子を愛したように愛し、子が父を愛したように愛する、その相互の愛し合う関係を、弟子であるあなた方も行いなさい、ということです。その相互に愛し合う関係の中に、愛であられる天の父の御業が現され、それを御子であられるイエスが執り成します。



このような初代教会が回復して、互いに愛し合う信徒関係ができてくると、それに参加している兄弟も、姉妹も、毎日のように愛であられる天の父の御業を経験し、御子イエスの執り成しや救いや解放がどのようなものかを、経験によって理解します。

そうして、経験によって理解したことを、聖書で確かめると、聖書で書かれているままのことが起こっていることがはっきりとわかり、不思議な思いに捉われます。

そうして、唯一のまことの神の御業がいかに絶大なものであるか、また、イエス・キリストの救いがいかに人知をはるかに超えているかが、腹の底からわかって、そうした人は、どんどん成長します。

一人ひとりが、どんどん成長しているのを見ます。
人間が、これほどまでに、短期間のうちに成長できるのか?!と、驚くこと頻りです。

 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

聖書通りの信仰により、また、聖書通りに行動することによって、初代教会が回復し、本当の聖霊が下ると、「神の国」がどのようなものであるか、だんだんと、経験によってわかるようになります。

神の国は、色んな書き方がなされています。それが全て、「あぁその通りだ」と納得できるように、なっていきます。

例えば、以下のルカ17勝20-12節は、神の国が、目に見えるものではなく、ある種の「状態」として成就するものであることを示しています。

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

ルカ17:20-21

神の国は、あなた方のただ中にある。これは、その人が、根本的に変えられて、まさに「神の人」と呼ぶことができるような人になり、福音として約束されている全ての良い事柄が、常に、その人にある、その人の周囲で起こっている、一緒に住んでいる人において起こっている。

そうした、現代人的な知性ではちょっと想像できないようは、根源的な変化が、その人において起こる。

そうして、その変化に、本当の聖霊が関わっている。プロテスタント教会一般が聖句によって頭で理解している聖霊ではなく、ちょうど、アダムに吹き込まれた神の息としての霊。あの創世記に登場した神の息=神の霊がその人に入っている。よって、その人のビフォーとアフターとは全く違ったものになっている。

そうして、その人の所には、天の父と御子イエスがやってきて、一緒に住んで下さる。なぜなら、以下の聖句に書いている通りのことが起こるから。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
ヨハネ14:23



そのようにして、「信じた人」には、そのような根源的な変化が起こって、ビフォーとアフターが全然違うという、やはり現代人的な知性ではまったく理解できないようなことが起こります。これが、「信じる者に働く神の優れた力」です。生ける神であられるイスラエルの神、すなわち、新約聖書の天の父の御業として起こるのです。
偶像であり、人工的な"神"である、すなわち偶像にしか過ぎない三位一体の"神"の下にいては、まったく経験できないことですし、理解できない事柄です。

この「神の国」は、成長します。以下の聖句にある通りです。

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

マルコ4:26-29

福音書で主イエス・キリストが説いた神の国は、そのまま読めば、非常に不思議な性格を持っています。論理的には、説明ができません。知性では、捉えられません。しかし、三位一体と縁を切って、聖書に書いてあるままの信仰を持ち、聖書に書いてあるままに行動して、初代教会が回復し、特に、新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」を、フラットな信徒関係の中で守ることに留意していると、神の国が成長するのを経験することができるようになります。これが、実に不思議です。

これもまた、神であられる天の父の御業として起こります。御子イエスはメシア。王の王。天の父こそが、唯一のまことの神であられます(ヨハネ17:3)。三位一体の下にいると、絶対に理解できないことです。残念ですが。



神の国が、信仰を等しくするキリスト信徒の間にある状態。これが成就すると、例えば、朝起きた時に、天の父が生ける神であられ、すぐおそばにいらっしゃるのを実感できるようになります。これは、進歩的なキリスト教会で、賛美礼拝の時に感じ取られている「臨在」とは、かなり異なるものです。「わたしは在る」という方が、そこに、いらっしゃるという感覚です。

このことも、聖書に書いてあります。以下です。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

黙示録21:3-4

天の父が、来て、一緒に住んで下さっている。この実感があります。これは上記のヨハネ14:23そのままです。

そのような状態になると、人の心の中に、常時、クラシックのバロック音楽で言う通奏低音のように、「楽しさ」が流れるようになります。非常に静かな、また穏やかな「楽しさ」ですが、非常にはっきりと見分けることができる「楽しさ」です。

主イエス・キリストは、自分が与える平安はこの世のものとは異なるとおっしゃっていますが、この「楽しさ」も、この世の事柄によって経験する楽しさとは、種類が違います。神から来る、生きた楽しさです。



 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と交わりは以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
7月 17日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
https://meet.google.com/djx-rusw-kuu

交わり
7月 17日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
https://meet.google.com/xtv-tbnd-bjo

礼拝メッセージのテーマは
1世紀以来まだ続いている御子イエスによる霊的な戦い

最先端をひたすらに突き進む現代の神学者N.T.ライトは、著書"Paul: A Biography"において、現代でも、イエス・キリストが十字架で勝利を遂げたはずの暗闇の支配者達、及び、暗闇の諸力によって、ほとんどの人間が支配されている、という趣旨のことを書いています。

これは、パウロが宣教している異邦人のための福音に反します。
また、主イエス・キリストが宣教した神の国の福音にも反します。

なぜ、このようなことが起こっているのでしょうか。

キリスト教会は、何に取り組むべきなのでしょうか?