天の父と御子イエスから来る「楽しさ」 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

聖書通りの信仰により、また、聖書通りに行動することによって、初代教会が回復し、本当の聖霊が下ると、「神の国」がどのようなものであるか、だんだんと、経験によってわかるようになります。

神の国は、色んな書き方がなされています。それが全て、「あぁその通りだ」と納得できるように、なっていきます。

例えば、以下のルカ17勝20-12節は、神の国が、目に見えるものではなく、ある種の「状態」として成就するものであることを示しています。

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

ルカ17:20-21

神の国は、あなた方のただ中にある。これは、その人が、根本的に変えられて、まさに「神の人」と呼ぶことができるような人になり、福音として約束されている全ての良い事柄が、常に、その人にある、その人の周囲で起こっている、一緒に住んでいる人において起こっている。

そうした、現代人的な知性ではちょっと想像できないようは、根源的な変化が、その人において起こる。

そうして、その変化に、本当の聖霊が関わっている。プロテスタント教会一般が聖句によって頭で理解している聖霊ではなく、ちょうど、アダムに吹き込まれた神の息としての霊。あの創世記に登場した神の息=神の霊がその人に入っている。よって、その人のビフォーとアフターとは全く違ったものになっている。

そうして、その人の所には、天の父と御子イエスがやってきて、一緒に住んで下さる。なぜなら、以下の聖句に書いている通りのことが起こるから。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
ヨハネ14:23



そのようにして、「信じた人」には、そのような根源的な変化が起こって、ビフォーとアフターが全然違うという、やはり現代人的な知性ではまったく理解できないようなことが起こります。これが、「信じる者に働く神の優れた力」です。生ける神であられるイスラエルの神、すなわち、新約聖書の天の父の御業として起こるのです。
偶像であり、人工的な"神"である、すなわち偶像にしか過ぎない三位一体の"神"の下にいては、まったく経験できないことですし、理解できない事柄です。

この「神の国」は、成長します。以下の聖句にある通りです。

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

マルコ4:26-29

福音書で主イエス・キリストが説いた神の国は、そのまま読めば、非常に不思議な性格を持っています。論理的には、説明ができません。知性では、捉えられません。しかし、三位一体と縁を切って、聖書に書いてあるままの信仰を持ち、聖書に書いてあるままに行動して、初代教会が回復し、特に、新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」を、フラットな信徒関係の中で守ることに留意していると、神の国が成長するのを経験することができるようになります。これが、実に不思議です。

これもまた、神であられる天の父の御業として起こります。御子イエスはメシア。王の王。天の父こそが、唯一のまことの神であられます(ヨハネ17:3)。三位一体の下にいると、絶対に理解できないことです。残念ですが。



神の国が、信仰を等しくするキリスト信徒の間にある状態。これが成就すると、例えば、朝起きた時に、天の父が生ける神であられ、すぐおそばにいらっしゃるのを実感できるようになります。これは、進歩的なキリスト教会で、賛美礼拝の時に感じ取られている「臨在」とは、かなり異なるものです。「わたしは在る」という方が、そこに、いらっしゃるという感覚です。

このことも、聖書に書いてあります。以下です。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

黙示録21:3-4

天の父が、来て、一緒に住んで下さっている。この実感があります。これは上記のヨハネ14:23そのままです。

そのような状態になると、人の心の中に、常時、クラシックのバロック音楽で言う通奏低音のように、「楽しさ」が流れるようになります。非常に静かな、また穏やかな「楽しさ」ですが、非常にはっきりと見分けることができる「楽しさ」です。

主イエス・キリストは、自分が与える平安はこの世のものとは異なるとおっしゃっていますが、この「楽しさ」も、この世の事柄によって経験する楽しさとは、種類が違います。神から来る、生きた楽しさです。