イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -45ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 

2022年7月24日の礼拝メッセージです。

 

ヨハネの福音書には、主イエス・キリストを愛する人は、主イエス・キリストの言葉を「守る」。そういう人は天の父に愛され、天の父と御子イエスとが来て、その人と一緒に住んで下さると書いてあります。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
(ヨハネ14:23)

この「その人のところに来て、その人とともに住みます」と訳されている部分(他の日本語訳でもほぼ同じように訳されています)。これが英語訳聖書では、「天の父と御子イエスとが、その人たち(複数形)と共に、自分たちの『家』を作る」と訳されています。

New International Version
Jesus replied, “Anyone who loves me will obey my teaching. My Father will love them, and we will come to them and make our home with them.

Berean Study Bible
Jesus answered and said to him, "If anyone loves Me, he will keep My word, and My Father will love him, and we will come to him and will make a home with him.

King James Version
Jesus answered and said unto him, If a man love me, he will keep my words: and my Father will love him, and we will come unto him, and make our abode with him.

ギリシャ語原文(Bible Hub)
https://biblehub.com/text/john/14-23.htm

これがどういうことか。旧約聖書の「ダビデの家」を中心に解きほぐしていきます。

 

 

Taken by me

Courtesy of Pedro Szekely

 

先ほどの投稿を書いた後で思い出しましたが、日本のキリスト教史の中で特異な位置付けを持っている熊本県阿蘇山での聖霊のバプテスマ。太平洋戦争が終わって5年後の1950年。日本が戦後の混乱の中からそろそろ抜け出そうという時代。

 

私が、以下の4名の中のお一方の弟子にあたる方から直接聞いた話に基づくと、イエス・キリストの本当の福音を求めて、東京などからはるばる阿蘇山にまで駆けつけて、聖霊を求めて祈っていた数名の男性達。その男性達に、使徒の働きに記されているペンテコステの日の出来事と全く同じように聖霊が下り、異言が出てきた。

 

小池辰雄氏(ドイツ文学者、詩人、伝道者)
関根正雄氏 (伝道者、聖書学者、新約聖書個人訳など)
丹羽鋹之氏(プロテスタント系キリスト教会創設者、牧師)
手島郁郎氏(キリスト教団体「キリストの幕屋」創始者)

 

その4名は、日本のキリスト教史の文脈では、「全く異なる」と言っても過言ではない道を歩み始めることになるのですが、共通して言えるのはその「伝道」の熱さ。尋常ではないと言えるほどの、イエス・キリストの道への没入。

 

これらの人に下っていた霊は、パウロが書いている「あの霊」(御霊)であり、1世紀半ばのペンテコステの日に風のようなものが吹いてきて、いきなり、全員が異言で語り始めた、その時に下った霊。すなわち、イエス・キリストがヨハネ福音書14章〜17章で預言していた霊。また、使徒の働き冒頭で、「力を受ける」と預言されていた霊。つまり、聖霊。それではないかと、受け止めています。

 

この聖霊が下った時の状況が、小池辰夫氏のものとして

 

「十字架のキリストを瞑想した全身的祈入において、天から直接、聖霊のバプテスマにあずかり、おのずから異言が迸った」。

 

と書かれており、丹羽鋹之氏関連の記述として、

 

「昭和26年6月25日(月)。日曜日の疲労か、午後の婦人会の後で疲労を感じ、夜、皆の就寝後10時45分頃より、一人祈る。切に御霊を求めて祈った。そしてこの時、異言にて祈る体験を与えられる。大きな感動が全身に漲(みなぎ)り圧倒された。止め度なく口をついて出る不思議な言葉と身体の霊動の中に約1時間を過す。聖書に記されている異言を、身を以って経験せしめられて喜びに溢れる。御霊の内在を深く実感した。平安が全身にみなぎり、御霊の御愛がひしひしと身にしみて感ぜられた。かつてより、自らに足らざるものあるを感じ、切に求めて来たものに触れしめられた思いである。今その入口に立たしめられて我が心は望みに踊っている。」

 

と書かれています。

 

これは、イスラエルの神から、御子であるイエスの名によって信徒に遣わされる霊ではなかったかと、考えています。「伝道させる霊」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

ローマ人への手紙でパウロは「肉」と「御霊」とを対比させています。
また、第一コリントとガラテヤで「御霊の人」がいるということを書いています。「御霊の人」がいるということは、「肉の人」もいるということです。



「御霊」。英語訳聖書では定冠詞theが付く「the spirit」。N.T.ライトによれば、原文のギリシア語聖書ではプネウマが大文字付きで記されている訳ではないので、「the Spirit」ではなく「the spirit」だそうです。日本語の平たい語感で言えば、「あの唯一の霊」という感じです。書簡を書き送っている相手全員が「the」(文脈からわかる『あの』)をわかるので、「the spirit」と書けば、「あなたたちがよく知っている、また、何度も経験している『あの霊』」という意味になります。

そうした「あの霊」のことを、例えばローマ人への手紙の中で、何度も何度も書いている。日本語訳聖書になじんだ人は「御霊」と訳されているので、また、「御霊」は日本の土着宗教的な文脈を宿している言葉なので(靖国神社の御霊祭り)、新約聖書の中の「御霊」のことを、「御霊というものがあるのだ」的に理解するのが普通ですが、パウロが書いているのは「あの霊」のことです。つまり、書簡を読んでいる人が、説明不要で「あの霊」と書けばよくわかる、そうした「霊」。



これはもちろん、この世に渦巻く諸々の汚れた霊、悪い霊とは違います。全く違う。



ピーター・ワグナーのいわゆるNew Apostolic Reformation神学の影響を受けたペンテコステ的な、カリスマ的な教会群のことも、聖書主義であるという意味でプロテスタントに含めて言うと、3つのプロテスタント教会にいた17年間のことを振り返ってみて、「あの霊」を経験している牧師、クリスチャンは、いなかったと、断言します。



パウロが書いている「あの霊」は、イスラエル的な霊であり、旧約聖書の文脈を豊かに持っている「霊」です。500年前にルターが創始したプロテスタントの流れの中で、初めて発見された「霊」ではないです。聖書をよく読み込まないと理解できない「霊」ではないです。



私たちは、イスラエルの神から見て異邦人ですから、「あの霊」に遭遇するのは、極めて稀なケース、エペソ1:4に記されている天地創造の前から主イエス・キリストに似るように選ばれている人、第一ペテロ1:2に記されているイスラエルの神の「予知」に従って召されている人、そう言う人が、不思議な巡り合わせで聖書を読むようになり、イエス・キリストの救いがあるのだと自覚するようになって、聖書を読んだり、キリスト教会に通ったりしているうちに、ヨハネ福音書によれば、天の父が教える事柄に従って、また、経験することにより、ある日突然に下る「霊」。

新約聖書の中で、最もわかりやすい事例ということで言うと、最後に石を投げられて殉教することになるステパノに、滔々と、経験したことを証しさせる「霊」。イエス・キリストの救いを熱情を持って「言わせる霊」。イエス・キリストのことを、言わなければと、内から突き動かす「霊」。



この「霊」は、18世紀から20世紀前半にかけて、英国(スコットランドリバイバル)や米国(ペンテコステ発祥のアズサストリート)に見られた「リバイバル」の熱狂をもたらす霊とは、本質的に異なります。全く別な文脈にあるものです。あの「リバイバルの霊」は、「リバイバルの悪霊」とも言うべき霊で、あれに取り憑かれると、大正と昭和に東京新宿で起こったキチガイ騒ぎに他ならなかったリバイバル騒動のような、熱病にうかされるような宗教現象を求めるようになってしまいます。全くの悪霊です。

それとパウロが書いている「あの霊」は全く違います。出自がイスラエルです。イスラエルの神から来る霊です。


 

 

Courtesy of Fr Lawrence Lew, O.P.

 

 

今では、どういうきっかけで見つけたのかよく思い出せませんが、「黙示録の『六百六十六』はマルチン・ルターである」と記述しているページに、2021年の半ばに出くわしました。

666 - The number of the Beast
http://www.cs.cas.cz/portal/AlgoMath/NumberTheory/RecreationalNumberTheory/666.htm

当時、マルチン・ルターが晩年に記した論文「ユダヤ人と彼らの嘘について」の存在を知り、ずいぶんとひどいことを書く人だと認識し始めていました。

「ユダヤ人と彼らの嘘について」では、次のようなことが書かれており、キリスト教徒はユダヤ人を迫害せよ、ユダヤ人を殲滅せよと、扇動しています。

1. シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし
2. 更にユダヤ人の所有する家をも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし
3. 宗教書を取り上げるべし
4. ラビの伝道を禁じ、従わないようであれば処刑すべし
5. ユダヤ人を撲滅するための方途を穏便に実行すべし
6. 高利貸しを禁じ、金銀を悉く没収し、保管すべし
7. ユダヤ人を農奴として働かせるべし


(Wikipedia「ユダヤ人と彼らの嘘について」




ユダヤ人/イスラエル人は、そもそも、アブラハムの祝福を血筋において受け継ぐ人々であり、アブラハムに現れた神、モーセを率いてユダヤ人/イスラエル人をエジプトの奴隷状態から引き出した神は、別名イスラエルの神であり(旧約聖書の206回現れる呼び名です)、ダビデが次のように歌うように、イスラエルの神こそがほむべき方なのです。

あなたの御名がとこしえまでも真実なものとされ、あがめられ、『イスラエルの神、万軍の主(ヘブライ語原典YHWH)は、イスラエルの神』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立ちますように。
第一歴代誌17:24

神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。
詩篇68:35

彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。
ほむべきかな。神、主(ヘブライ語原典YHWH)、イスラエルの神。ただ、主(ヘブライ語原典YHWH)ひとり、奇しいわざを行なう。

詩篇72:17-18

私たちの神、主(ヘブライ語原典YHWH)よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。
ほむべきかな。イスラエルの神、主(ヘブライ語原典YHWH)。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。

詩篇106:47-48

この神を、御子であるイエスは「唯一のまことの神」と呼んでいるのです。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
ヨハネ17:3

また、この神を、異邦人に対する福音を任されたパウロは「唯一の神」と呼んでいるのです。

知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。
ローマ16:27

そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
第一コリント8:4

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
第一コリント8:6

どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。
第一テモテ1:17



マルチン・ルターについては、この「唯一のまことの神」であられる「イスラエルの神」が、アブラハムに与えた永遠に渡る祝福によって祝福して下さったユダヤ人/イスラエル人を、また、エジプトの奴隷状態から人知をはるかに超えた御業によって、過越によって、救い出して下さった民族を、以下のように迫害せよ、殲滅せよ、奴隷にせよ、と扇動しているとは、何事か?です。あなたは何者か?です。

1. シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし
2. 更にユダヤ人の所有する家をも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし
3. 宗教書を取り上げるべし
4. ラビの伝道を禁じ、従わないようであれば処刑すべし
5. ユダヤ人を撲滅するための方途を穏便に実行すべし
6. 高利貸しを禁じ、金銀を悉く没収し、保管すべし
7. ユダヤ人を農奴として働かせるべし


天地万物を創造なさった神が、ご自身の民として愛されているユダヤ人/イスラエル人を迫害せよ、奴隷(農奴)にせよと、真面目に書いた論文によって、全てのキリスト教徒に扇動しているとは、どういう頭の構造か?と思ってしまいます。

加えて言うなら、異邦人への福音を任されたパウロは、ローマ11章において、「異邦人の完成」を預言していますが、それは天の父が、イエス・キリストを通じてユダヤ人を救うためだと書いています。ローマ11章をよく読んで下さい。野生種である私たち異邦人は、栽培種であるユダヤ人/イスラエル人に対して誇ってはならないのです。ユダヤ人/イスラエル人の『根』が私たち異邦人を支えているのです。

聖書主義に立つマルチン・ルターが、このことを知らなかったはずがありません。旧約聖書の読み込みが足りなかったなどと言うことは、ないはずです。ローマ11章を読んでいなかったなどと言うことは、あり得ません。異邦人に対する福音を任されたパウロ書簡の隅々に至るまで読んでいて、理解していながら、イスラエルの神が愛しておられた/愛しておられるユダヤ人/イスラエル人を、迫害せよ、殲滅せよと扇動しているのです。

これが、悪魔に頭脳を乗っ取られた人の言動でないとすれば、何が悪魔でしょうか?

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は創世記28章、ヤコブが旅をしている場面。

 

ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。

ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。


そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。

彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

創世記28章

 

天にはイスラエルの神であられる天の父がいらっしゃって、天から地に伸びる梯子があり、そこを天の御使いが上り下りしている。そこが神の家、そこが天の門。

 

三位一体の人工的な"神"から遠ざかり、唯一のまことの神であられるイスラエルの神=天の父を、御子であり主であるイエス・キリストの名によって礼拝する集会/エクレーシアは、そこが神の家となり、天の門となります。それは、御父と御子とが互いに愛し合っているように、信徒の兄弟姉妹同士が互いに愛し合うから、起こるのです。互いに愛し合う。これが主イエス・キリストが全世界のキリスト教会に与えた奥義/ミステリウム です。