イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -32ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と交わりは以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
12月 11日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/shd-aini-xfb

交わり
12月 11日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/pki-bpiq-vzf


本日の礼拝テーマは、

 改めて、「神の国」とはどんな「国」なのか?

です。

新約聖書には「神の国」に関する記述が67箇所、「御国」に関する記述が63箇所あります。どちらも同じ「国」、英訳聖書ではKingdom、すなわち「王国」を指しています。王が治める国です。

この「神の国」は、不思議な記され方をしています。

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

ルカ17章

これはどういうことでしょうか?
「神の国」が、私たちの間にあるとはどういうことでしょうか?

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と聖餐式は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
12月 4日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/uhy-oukb-zgv

聖餐式
12月 4日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/shd-wxbp-jvf


本日の礼拝テーマは、

 

イスラエルから見て東、また、日の上る方

 

です。

 

旧約聖書には、終わりの日に関する預言がたくさんあります。

「東」に関する言及がずいぶんとあります。

また、「日の上る方」に関する言及もかなりあります。

 

それらを見ていくと、イスラエルの神であられる天の父が、日本をどう見ておられるかがわかってきます。

 

ハレルヤ!

 

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と交わりは以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
11月 27日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
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ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/adv-kimu-mko

交わり
11月 27日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/scr-kuvw-zfa


本日の礼拝テーマは、

なぜキリスト教史最大のリバイバルが日本から起こるのか?

です。

イザヤ書では次のように書かれています。

そうして、西のほうでは、主(YHWH)の御名が、日の上るほうでは、主(YHWH)の栄光が恐れられる。主(YHWH)は激しい流れのように来られ、その中で主(YHWH)の息が吹きまくっている。
イザヤ59:19

旧約聖書で、太文字の「主」、ダブルクオーテーションで囲まれている"主"は、ヘブライ語原典ではYHWHと記されています。
上の聖句は、「YHWHの名が、日の上るほうでは、YHWHの栄光が恐れられる。」と読まれなければなりません。

抽象的な「主」ではないです。固有名詞のある"YHWH"。アブラハムに現れた神。モーセに現れて、I AM WHAT I AM.(「わたしは、『わたしはある』という者である。」)とおっしゃった神です。固有名詞があります。しかしその名はみだりに口にしてはならない名なので、ユダヤ人はAdonai(英字表記)と振り仮名を振って読みました。それが「主」、英語で"LORD"と訳されているゆえんです。
元々は、YHWHが神の名なのです。

その YHWHの栄光が、日の上るほう、つまり日本で、畏れられる。YHWHの息が吹きまくっているという状態になります。旧約聖書で「息/ルアハ」とは『霊』です。
神であるYHWHの霊が吹きまくる状態が訪れます。

これはヨエル2章で預言されていることにもつながって行きます。

あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたし(YHWH)がいることを知り、わたしがあなたがたの神、主(YHWH)であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。
その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

ヨエル2章

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と聖餐式は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
11月 20日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/mpf-qtfh-sig

交わり
11月 20日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/mbb-asgx-phc

本日の礼拝テーマは、

アブラハムの信仰に学ぶ

です。

パウロは、アブラハムは、その信仰のゆえに義とされたと書いています。

それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、
ローマ4:9

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
ローマ4:13

その原理によって、異邦人も、義とされます。

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
ガラテヤ3:8

では、その「信仰」とは何なのか?どのようなものだったのか?
それについて説明します。

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

 

本日の礼拝と聖餐式は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
11月 13日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/ryb-wsid-ixo

交わり
11月 13日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/wrk-txzh-rip

本日の礼拝テーマは、

なぜ愛のない者に神はわからない(第一ヨハネ4:8)のか?

です。

第一ヨハネ4:8では続く部分で「神は愛だからです」とあります。

 

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

第一ヨハネ4:8

神は愛だから、イエス・キリストの新しい戒め「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)があります。「互いに愛し合いなさい」という戒めを守っていると、次の聖句にあるように、父と子が来て、その人と一緒に住みます。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。
ヨハネ14:21

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人(原文は複数形)のところに来て、その人とともに住みます。
ヨハネ14:23

この「互いに愛し合いなさい」は、ヨハネ14章〜17章のイエス・キリストの最終説教で展開される父と子が互いに愛し合っている関係にあることに照応します。

父と子が互いに愛し合っているので、兄弟姉妹も互いに愛し合うのです。これがイエス・キリストの新しい戒めの意味です。

兄弟姉妹が互いに愛し合っていると、父と子が互いに愛し合っている「愛」がどういうことだかわかります。子は父の命令に従って、十字架で死ぬのです。そこにある「愛」です。父の愛は子に向けられており、さらにこの先にいる人間に向けられています。

この人間が兄弟姉妹で互いに愛し合うことがなくて、父の子に向けた愛を理解することもなければ、父が人間を愛している愛を理解することはできません。
また、子が父を愛しているがゆえに、十字架に付けられることを受け入れたその子の愛も理解できません。

そこにある「愛」がどれだけのものなのか?

人間はその「愛」を今度は父に向けて愛し、子に向けて愛します。
そうして、父と子が互いに愛し合う中に、人間も入るのです。それがヨハネ14章〜17章の真意です。