信仰がない - 三位一体の何が問題か?(6) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

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1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Stanley Zimny

 

これまで書いてきた以下の投稿の続きです。

三位一体の何が誤りか?:聖霊は神ではない
祈りがかなえられない - 三位一体の何が問題か?(2)
天の父を一生知ることがない - 三位一体の何が問題か?(3)
クリスチャンに聖霊がいないという問題 - 三位一体の何が問題か?(4)
「イエス・キリスト」が偶像になっている - 三位一体の何が問題か?(5)


信仰がない。これが、三位一体の教会群にいらっしゃる教職者達(司教、牧師等)、および信徒達に共通した特徴です。

どうして、このようなことを言うのか?

聖書では、主イエス・キリストは、信仰のある者はこれこれのことを行うとか、弟子達に対して信仰がないのはどうしたことですと叱責していたりとか、イエス・キリストを信じる人には「しるし」伴うと言うことが書いてあります。聖書に照らせば、三位一体の教会群の中にいる人達は、残念ながら、「信仰がある」とは言えない現実があります。聖書に照らせば、主イエス・キリストの教えに従えば、です。

三位一体の教会群の特徴として、聖書の中のある聖句を、当然のように無視する。それが自然であるかのごとく無視する、と言うことがあります。これは、神に反する者、サタン(ヘブライ語原義は、反対する者)が、目に見えない霊として、それらの教会群を覆っており、福音の光を輝かせないように働いているからです。

例えば、主イエス・キリストは、次のようにはっきりとおっしゃっています。

わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

ヨハネ14:11-12

イエス・キリストを、イエス・キリストが福音書の中で教えた文脈で -- それは人間の頭が派生させた神学が教える文脈とは異なります -- 「信じた人」は、ヨハネ14:11-12に書かれたことを行うのです。「またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」と、イエス・キリストが明言していることを見落としてはなりません。

これに本気で取り組まない全ての教会群は、イエス・キリストを信じているとは言えないし、これをどう言うことなのか教えていない全てのキリスト教会には、イエス・キリストを信じる信仰はありません。聖書に照らすならば、そう言えます。神学がどう解釈しているか、小職の知ったことではありません。

○イエス・キリストは信仰についてどう言っているか?

信仰とは何か?

イエス・キリストは、信仰があれば、次のことができると教えています。それが信仰です。

そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。
そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

マタイ17:18-20

使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。

ルカ17:5-6

信仰がないのを、神学でごまかすことはできません。
信仰がないのを、関連聖句を引用する聖書解釈でごまかすことはできません。

イエス・キリストは、信仰があれば、これこれのことができると、何箇所かでおっしゃっている。それができないのは、誰もが間違うことがない正確性を具えた論理で言えば、「信仰が、ない」のです。

三位一体の教会群の人々に「信仰が、ない」ことを証明する聖書の関連聖句は多数あります。