三位一体の何が誤りか?:聖霊は神ではない | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

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1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

○天の父と話をすることは信じている人なら誰にもできる

私は2017年秋に「お前を日本の預言者にする」と、預言者としての召命を、天の父から受けました。

天の父とのコミュニケーションの形は、それ以来、少しずつ変化してきました。当初は、いわゆる幕屋の祈りと呼ばれる、ヘブル8〜10章を元に故チョー・ヨンギ牧師が開発した祈りの技法により、霊的な至聖所に入らなければ、天の父とコミュニケーションすることはできませんでした。

2020年前半に、第一ヨハネ冒頭にある御父と御子との交わりができるようになりました。

それ以来、天の父とのコミュニケーションの際の距離はだんだんと縮まり、今では、日常的に会話をするような形での交流ができるようになっています。モーセが、神である主と顔と顔を合わせるように話をしたとありますが、あれに近い形なのではないかと解釈しています。

 

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。

出エジプト33:11

これは、非聖書的なことではありません。主イエス・キリストを信じる人ならば、誰でもできることです。ヨハネ福音書14:23には、主イエス・キリストを信じて、その言葉を守る人を、天の父も愛され、天の父と御子イエスとは、その人の所に行って、一緒に住むということが書かれています。
一緒に住んでいれば、会話もします。

第一ヨハネ冒頭にある御父と御子との交わりとはそういうことです。一緒に住んでいる、一緒に生活しているので、会話もするのです。

また、それがヨハネ福音書冒頭で、イエス・キリストを信じた人には神の子どもとされる特権が与えられた、と書いてあることです。神の子どもだから、神、すなわち天の父と話をするのです(ヨハネ17:3)。もちろん、御子であられるイエス様とも話をすることができます。

○既存のキリスト教会には聖霊がいないことに気づく

三位一体がおかしいのだと確信するようになり、2021年半ばに、英文資料をリサーチして回りました。(小職はリサーチで食べてきた所があり、1995年にWindows95とプロバイダが普及して日本でもインターネットが一般に使われるようになった当時から、ライター、編集者、書籍執筆者、シンクタンクのリサーチャーとして、インターネットやITのありとあらゆるものを英文資料によって調べて書き、それで報酬を得てきました。英文資料の調査では25年以上の経験と職業的な勘があり、極めて効率的に核心的な資料を探し出すことができます)

325年ニカイア公会議に集った司教達300名余のバックグラウンドがグノーシス教徒であり(神としてのソフィア=知恵を崇拝→キリスト教史の中で一つの宗教となっている神学になって行く)、また神秘主義に他ならない新プラトン主義者であることも理解された後で、歴史的な事実として、4世紀後半に成立した三位一体の教義が、誤りであることを論理的に確信しました。

同時並行で、既存のキリスト教会には聖霊がいないということに、気づき始めました。ローマ10:9-10を元に「イエスは主」だと告白すれば、それで聖霊が内住するようになるというプロテスタント教会の論理も、無理があります。迷信、いや盲信となっています。聖霊が内住していれば、先に起こることを知らせてくれますし、第一コリント12章の御霊も賜物のいくつかは普通に見られます。それが既存のキリスト教会の司祭、牧師、信徒にはありません。

なぜ、既存のキリスト教会には聖霊がいないのか?上記のように、日常的に天の父とコミュニケーションを行なっている流れの中で、尋ねてみました。

○真理の御霊は、嘘がある三位一体の教会には宿らない

天の父の説明はこうでした。

神は、天の父と主イエス・キリスト。
聖霊は、神ではない。
聖霊は、真理の御霊。
嘘があるところに、聖霊は宿らない。


つまり、三位一体の教義は嘘である。なぜなら聖霊は神ではないから。そうした嘘があるところに、真理の御霊である聖霊は宿ることができない。

そういう説明でした。目から鱗が落ちるような理解が得られました。

 

(なお、例外的に、三位一体を掲げる教会に所属していても、使徒の働きに記されている、またパウロがコリント第一で書いた、本当の聖霊が下っている人がいるということはあります。しかしその人は、そのことを公言しません。迫害されるからです。牧師からうとまれます)

○聖霊は喜ばれる、お気持ちがある

聖霊が神ではないと主張すると、「いや聖霊は悲しまれるから、お気持ちがあるから、聖霊は神だ」という反論が返ってきます。これは、聖霊をよく知らない方が、聖書の文字だけで理解している、受験生的な神の理解、聖霊の理解から来る誤解です。

聖霊には、もちろん、お気持ちがあります。
悲しまれますが、喜ばれもします。時々は、笑いを感じることさえあります。キリスト信徒同士で、経験に基づく、何か面白い話題を話している時に、内にいらっしゃる聖霊が笑っているように感じることがあります。

私は悪霊の追い出しに積極的に取り組んで5年程度になりますが、悪霊がいる人、霊的に汚れた人のことを、聖霊が教えてくれるということを、数え切れないぐらい経験してきました。また、Twitterの投稿であれば、悪霊に取り憑かれている人の投稿は、聖霊が、そこに悪霊が付いていると教えてくれます。これもまた、主イエスのヨハネ14-17章の説明にあることです。

聖霊が喜ばれることほど、喜ばしいことはありません。神の御心にかなう行動をした時、天の父も御子イエスも天で喜んで下さいますが(それを感じ取ることができます)、内なる聖霊も喜んで下さいます。聖なる喜びです。清らかさがあります。

そうした経験は、するのです。

しかし、聖霊は、神ではないのです。わかりますか?

 

神は、無から有を創造する存在です。存在そのものです。しかし、霊は、無から有を創造する神ご自身から流れてくる霊です。息です。風のようなものです。聖霊は、そうした神の息です。アダムに吹き込まれた神の息なのです。

聖霊は、天の父から、御子イエスの名によって、信じる人に遣わされる霊。神の息。神ではありません。

 

三位一体の教義を作り上げた4世紀の司教達(当時ローマ帝国領内に1,800名いたとされています)、初期神学者達はグノーシス/新プラトン主義の影響下にあったため、聖霊はそこに霊的な汚れ(異教の忌まわしさ)を認めてそれら司教達、初期神学者達の中には入れなかったのです。聖霊はイスラエルの神の聖なる霊です。汚れた所には居られません。

よって彼らは聖霊を経験することがないまま、手元にある文献だけを手掛かりに、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を書き上げました

 

いわく、

聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。

 

↑これは、聖霊を経験していない、テキストだけで頭で聖霊を理解している人の記述です。聖霊に対する愛もありません。杓子定規な受験勉強生の作文です。


そのように、聖霊を神だと教える三位一体の下にある限り、そこに嘘がありますから、真理の御霊である聖霊は、入りたくても入れません。下りたくても下れません。そこに、嘘があり、その神は偶像だからです。

ということで、西暦325年、381年の公会議で三位一体が成立して以降、三位一体を掲げる全ての教会群には、聖霊が宿っていないのです。だから御霊の賜物を経験するキリスト信徒がいないのです。異言がおかしなものになっています。教会内の預言も占いのようなものに留まっています。悪霊の追い出しは魔術師によるマジックショーです。



Courtesy of Stanley Zimny