佐野光来 -2ページ目

佐野光来

佐野光来

  旅のときの、小分けのリンスやら化粧品などのスタメンが確立した。まず、リンスはミルボンの。ディーセスリンケージミュー4シリーズ。これはトリートメントお試しキットのようなもので、チューブになって4本セットのものが売っているんだけど、短期の旅行なら、これが使える。髪が長くなければ一本につき2回分は使えるので、そういう計算で持っていくのがオススメ。ちょっと高めだけどかなりさらさらになるし、水問題で髪がばきばきになったりするの、これでだいぶ防げる気がする。
  メイク落としと洗顔は、無印の。両方がセットになって、使い捨てフィルムで売っているやつがコンパクトだし、使い勝手もよかった。これもメイクがよほど濃かったりしなければ1セットで2回分いける。
  化粧水、美容液などは普段使ってるものを小さな容器に入れ替えたりしていたんだけれど、今回たまたまいつもスキンケアで使ってるアルビオンで、旅セットのようなものをみつけて、美容液と化粧用油と化粧水がミニサイズになって売ってるのを買ってみた。化粧用油と化粧水は初めて使うシリーズだったけれど、これがとても良くて、リピートするつもり。乳液はコンタクト保存ケースに使う分だけプッシュして持って行ったけど、これもかさばらなくて○でした。美白パックも何枚か持った。
  あと、雑誌シュプールの付録についていたポールアンドジョーのミニパウダーがかなり重宝した。お化粧品って、特にパウダーなんかはもっとこのサイズのものだしてくれたらいいのになあと思う。ミニサイズ展開したら絶対に売れると思うんだが。外に持ってく用のポーチもすごく小さくて済むし。
  シャンプーとボディクリームだけ次回の課題だな。
  こんな感じで、荷造りが少しだけ得意になった気がする。から、またどこかへ行きたい。
  無事に、帰ってきた。
  快適すぎるほどの旅だった。恐れていた怖いことはなにも起こらなかったし、その何倍もの安全さと楽しさで、私は堂々と街を歩き回った。地下鉄にもバスにも、めいっぱい乗った。一日にいくつもの予定を入れて、どこへでも出掛けて行った。行く先々で、ひっそりとたくさんのことに感動した。
  「いる場所が世界」であることを身体の底から実感した旅になった。どこにいて、だれといて、なにをするか、みたいなこと、その選択の、純度について、ずっと考えていた。美術館をたくさんみて回ったけれど、どの作品が、どこに、どんなふうに、置かれているか、だれにみられているか、ということが重要だったように、じゃあ私はいったい、どういたいんだろう、というぼんやりとした問いかけ、その輪郭を、なぞるような体験をした。結局、生きていなくちゃ・身体がなくちゃ・だめなんだって思って、あー、生きててよかったのかもしれないと思った大切な旅になった。
  お騒がせした皆様、ほんとにすみませんでした。
  でもやっぱりね、向こうで気が緩みました。喉のいがいがが悪化して声がでなくなる事態が。喋っても苦しくて咳でるし、一度咳き込むとなかなか止まらないしでがさがさの声だから、二度聴きされたりして、なんでこんな喉になってしまったの。伝わらないことばが益々伝わりづらくなったという、おもいで。
  旅の前に詰め詰めで、仕事やら用事を入れまくってしまったので、前日の準備では間に合わないだろうなと目論んで、出発までの毎日を、少しずつ準備するような日々を送った。なにせとても緊張していたから、こんなに時間をかけて準備するのは初めてだったのだけれど、あれがあるといいな、これもあるといいな、は、一日一日よくもまあ思いつくものだった。仕事の帰りに、無印や百均に何度寄ったことか。そして旅二日前のパッキング事前練習にて、また新たに必要なものが見つかる(圧縮袋×4)。機内持ち込みできる小さなキャリーバッグで行くことにしたから、パッキングは困難を極めた。大きいので行けばいいだけのことなのだが、着いてすぐあの荷物レーンで寂しくなりたくなかったし、荷物少ないの、憧れてたし、空港を早く飛び出して少しでも長く滞在したかった。どれだけ時間をかけても充分すぎることなどないのだけれど、いい加減もう準備のこととか忘れたいと思い始めた。思うたび全く忘れられないことに、焦りさえ覚え始めていた。心配のあまり強いストレスが、身体を蝕みつつあるのだった。出発一日前に、喉が異常にいがいがしだした。「これ、少しでも気を緩めたら終わりだな」な、雰囲気を携え、どうにか気合いで出発の日を迎えた。
  寝る前にする心配事はそのまま夢に立ち上がって、最近なんかは毎日、夜道でひとり、道に迷う夢をみる。恐ろしくなって起きてからひたすらに、グーグルマップの、あのリアル地図みたいなやつで歩くべき道を再確認する。すると、地図上でも私は迷子になって半べそをかく。ほんとうの道、に迷ったわけでは決してないのに、「迷った、これどうしよう、ほらまた迷った」とかぶつぶつ言いながら大騒ぎしている。最終的にはあのリアル地図の、ぐんぐん変わる景色に(ときどき操作を誤って空など仰いでしまったり・建物のなかに突撃したりして)、猛烈に酔っぱらってしまう。一度ほんとに気持ちが悪くなって、トイレに籠ったまま30分寝落ちしたときは、危険だ、と心底思った。
  旅に出るのだ。たったの一週間ではあるが、出掛けるのだ。本来なら楽しみで仕方がないはずのそれも、愉快な道中を一ミリも想像することができない。そこは、スリの巣窟らしいのである。行く場所を告げれば「またまた、心配しすぎだって」と言われてしまいそうなのであえて言わないでおくがしかし、たかが一週間の日程だとはいえ油断は禁物なのである。その為に地図をある程度頭に入れようとしている次第である。携帯を見ながらきょろきょろと、歩けないほどのそんな場所なのだったらどうしようか。懸念されるのは、基本的には私の、女の、からだひとつであるということ、インターネットで仕入れた知識ばかりで実際の治安を知る由がないということ、そしてやはり、ことばが通じないこと、あとたぶん寒いこと、と、まあこうして挙げられる問題だけでもなんと憂鬱なことだろう。ひとりで、というのは、自分で決めたことなのでなんとも言えないけれど、こんなにも憂鬱になるなんて思ってもいなかった。「一生のうちでいつか」と思っていたところにふたつも行く夢が叶うのだから、もっとずっとわくわくしていられるものだと思っていた。ここまで心配性な自分には正直いって驚いた。そのことを非常に疎ましくも感じながら、高いのか低いのかわからないこの異常なまでの危機管理能力においては讃えるべきではないのんかと思ったりして、朦朧とした頭で地図を見続ける。どうにか出発の日を迎えようとしている。
  台風過ぎ去った今日、東京は快晴だった。
  柔らかい布のような風が肌をなで、くるみ、優しく吹いているのだけれど、こんなにも昨日と今日とが違うとはほんとに、ね。なにを試されているんだろうかと思うほどです。
  日差しが眩しいなあと思って目を細めた朝に、細めている場合ではないのだと頭をぶるぶるさせて、降りそそぐこれ、光の塊を有効に使わねば。押し入れから羽毛を引っ張りだして、ぎゅうぎゅうに畳まれていた羽毛に空気と太陽を注入することにして、ついでに寝具まわりのものもぜんぶ洗ったのだった。一息つく頃、清潔な香りが部屋じゅう立ち込めて、それだけでなんかもう、いいなあって思って、なにがいいのかってことを考えたけど、よくわからなかった。それから昨日の晩にハンバーグの付け合わせで作った北あかりのマッシュポテトの残りを、生クリームとお砂糖で甘くしてスイートポテトに作り直したりもした。スイートポテトってサツマイモだったと思うんだけど、北あかりって切るととても黄色くて、まるでサツマイモだったよ。
  さて、いろんな毎日があるけれど、凝りもせず、明日も頑張りましょうう。
  追記、羽毛はまだちょっと早かった模様。
  台風の影響で三時間ほど早く閉まる渋谷のデパ地下で、晩ご飯の材料と明日の朝ご飯を買って帰ってきた。閉店まぎわの店内は、半額に貼られてゆくシールに群がる人々や、今日残りの一日をもう二度と外へ出なくて済むように買い物する人々で溢れていて、何故か皆、いつもより(たぶんいつもより)高めの熱をからだから放っていたみたいだった。お店の人たちもきっと早く帰りたいから、いつもより大きな声でものを売ったり、閉店時間を繰り返し叫んだりしていて、ちょっぴり常軌を逸した場内の熱気に、台風ってすごい。と思いながら、できるだけ誰にもぶつからないよう、身を翻し翻し私もちょっと興奮気味で買い物をした。台風だから・もう家からでないから、と思えば思うほどよく分からない気持ちになってきて、いつもは買わないような、なんかケーキとか、半額シールの貼られた挽き肉を買ったりなどして、ゆっくりハンバーグを作った夜だった。そんなふうに過ごせた夜に感謝しつつ、今、風で揺れる建物に怯えて全然眠れません。無事なのに、そわそわ不安な夜です。みなさんはどうお過ごしですか。大丈夫ですか。
  「夫婦」も、見てきた。初演を見ていたけれど、あれなんだろうこの場面初めて見るなあみたいなところがたくさんあって、散文的だけど人間の感覚に近いという舞台の構造を今回の再演で(やっぱり体感的に)、理解できた気がした。雑多でばらばらで唐突な、昔のこと思い出そうとするときの頭のなか、そのものを見ているみたいだった。
  「て」から一週間のあいだを空けてみたおんなじ家族の風景は、おばあちゃんの空白と、またひとり空白になってゆくお父さんという存在の、ひとりの人間の死がもたらす、家族への影響の大きさについて、ひしひしと考えさせられるものだった。とりわけ、死んでしまえ!と思い続けていたお父さんの最期の姿、お父さんの暴君に耐え抜いたお母さんが選んだ最期の寄り添い方、が印象的だった。長い時間をかけなくては、たどり着けない場所があるのかと思うと果てしない気持ちになったし、その景色を2時間の演劇でみれた自分はとても幸運だと思った。(なんかどうして演劇みたりするのかなあって思うときがあるけれど、やっぱり自分の人生では感じきれないなにかとか、経験できないなにかを、きっと知りたいからだし、そんなふうに自分が広くなれば、より豊かになれる気がするからなのかもしれなくて、だからもっと良くなるために、人の力を借りて私は私を少しだけ満たしている気がします。)
  暴君お父さんの、「食らいついていけよ」ってことばが、観劇後の日常生活で度々思いだされては、さてこれこの状況、食らいついたほうがいいのではないかと反芻する時間が私の毎日にうまれて、なんだかなあ。
  夫婦別々に食事をつくり、別々に食べ、そういう毎日のなかで病気が分かり、お父さんがお母さんを食事に行かないかと誘うところは、今世紀最大の名夫婦シーン(という言い方をするとなんだか軽くなってしまうけれど)だった。あの空気、あのことば、あの発露は一生忘れたくないものとして残った。特にお母さんのあのときの気持ちを考えると、いろんな感情がない交ぜになってえぐられる。人間のからだには、一度にあれほどたくさんの感情が流れるものなのか。
  実は2回観劇したのだけれど、病院のお父さん、あれは人形なのだけど、の、お腹が上下していて、見間違いでなければ、あの人形は呼吸をしていたと思う。生きてた。その細やかさに涙がでた。
  どんなに腹が立ったことも、許せなかったことも、許さないでいることも、そのこと考えた時間分、悔しかった気持ち分だけはせめて心の筋肉的なものにして、ほんとどうもありがとな!くらいの気持ちで生きようって、思った。ね、そうしよう。
  それでさいごは、優しいのがいいなあと思います。
共有すればするだけひとつだと思い込むたびお皿が割れて

かけら 星の数 くらいになったとき もういいやって 思ったんだっけ
  ハイバイ15周年記念同時上演、「て」と「夫婦」の「て」  の方を一足先に観劇してきました。メモのような感想になるけれど、色々思うことがあったので、書いておこうと思います。

  認知症の祖母のもとへ集まったばらばらの家族が、もう一度ひとつになろうとするけれど、過去のことを清算しきれず、もっとばらばらになってしまうという演出家の自伝的なお話。ばらばらになり方がほんと家族の、家族独特の、いやあ〜な感じを孕み続けている。母親役を男性が、祖母役をおばあさんには到底みえない女優さんが、演じている。家族が再集合してから、祖母が亡くなってしまうまでの時間が、視点を変えて二度繰り返される。暴君お父さん、子どもたちみんなの味方お母さん、正義感強めお姉さん、不器用お兄さん、楽しくいたい弟、恥ずかしがりやの妹、記憶を行き来するおばあちゃん。

  これから先の(あるかもしれない)人生の時間のなかであと何度、大切な人を失うのか、大切な人を失った大切な人の顔を見なくてはならないだろう、ということをずっと考えていた。目の前で起こってることを頭の端で捉えながら、こころはひとり、遠く静かな場所にいて、果てしなさだけが広がっていたけれど、おなじように果てしない気持ちを交差させ合う家族の姿が舞台上にずうっとあった。それぞれがそれぞれの正しさとか優しさとか愚かさを押しつけたり、隠したり、隠しきれてなかったり、気付いてすらいなかったりするのをみていれば、不思議と、ああなんか大丈夫、これから先のことなんか、怖がることなどないと思えた。ひとりの場所から何度も引き戻された気持ちがした。
  こうだと思ってた人が・こうだと思ってたことが、別の視点からみればほんとはこうだったのだった、みたいな出来事の、あとから解ってしまう感じというのが私は昔からあまり得意じゃなくて、だってじゃあいつも、そのときにほんとをみせてよって思うし、ほんとをみつけられなかった自分にも悲しくなるしで、こんなときどうしようもなく暴れたくなる。
  人や物事には一体いくつの側面があるのか、何面までのことを考え合えば充分なのか。行き届くのか。
  いつだって、一つの対象を同時に多方面から見ることを、どうして私たちはうまくできないんだろう。だから例えばこうして演劇を通して、ふたつの視点から見える景色を、一気に見てしまおうみたいな、知らなかったことを知る、あるいは知る為の努力をする、というの謎の行為をするのかもしれない。し、人生の年を重ねる意味ってこれなんではないかと最近になって受け止められるようになってきたやっと。時間をかけなくてはいけないのだ。せっかちだし、限りある人生なの分かってるから、少しでも早くほんとのことを知らせ合いたくなる私の、良いところもだめなところもよくわかった気がした。
  見ている途中に驚いたのは、家族の再集合を「私、本当に嬉しかったのよ」って涙を流して話すお母さんのことばと、暴れながら「俺は嬉しかったんだよー!」って怒り叫ぶお父さんのことばとが、ふたつ重なってエコーみたいにもわもわ、頭で鳴り響いたことだった。全く異なる発され方のそれが、まさか重なるとは思わなかったし、重なったそのことばは、私の知りたい、「ほんと」だったのだと思う。実際に劇中で起こっていないことがこんな風に体感として立体的に立ち上がってしまうの、とても凄いことだなあと関心しました。
  どこまでもばらばらになれるくせして、結局はひとつの、てのなか、に収まってしまっているのが、家族なのかもしれないなあ。小宇宙みたいな。それでその、「て」はなにをするためにあるのか、考えたり、忘れたりしたい。

  そんなわけで来週見に行く「夫婦」も楽しみです。
  では、おやすみなさい。

  また台風、大変だけれど気をつけて無事に過ごしましょう。。

飛べただろうかあのとき今だって飛べるだろうか君と一緒なら
 
雲と空の独立した夜ふたり 疑っていた火星の発光
 
約束をして順番に破ってく日々割れた爪まあるく切っても