ハイバイ15周年記念同時上演、「て」と「夫婦」の「て」 の方を一足先に観劇してきました。メモのような感想になるけれど、色々思うことがあったので、書いておこうと思います。
認知症の祖母のもとへ集まったばらばらの家族が、もう一度ひとつになろうとするけれど、過去のことを清算しきれず、もっとばらばらになってしまうという演出家の自伝的なお話。ばらばらになり方がほんと家族の、家族独特の、いやあ〜な感じを孕み続けている。母親役を男性が、祖母役をおばあさんには到底みえない女優さんが、演じている。家族が再集合してから、祖母が亡くなってしまうまでの時間が、視点を変えて二度繰り返される。暴君お父さん、子どもたちみんなの味方お母さん、正義感強めお姉さん、不器用お兄さん、楽しくいたい弟、恥ずかしがりやの妹、記憶を行き来するおばあちゃん。
これから先の(あるかもしれない)人生の時間のなかであと何度、大切な人を失うのか、大切な人を失った大切な人の顔を見なくてはならないだろう、ということをずっと考えていた。目の前で起こってることを頭の端で捉えながら、こころはひとり、遠く静かな場所にいて、果てしなさだけが広がっていたけれど、おなじように果てしない気持ちを交差させ合う家族の姿が舞台上にずうっとあった。それぞれがそれぞれの正しさとか優しさとか愚かさを押しつけたり、隠したり、隠しきれてなかったり、気付いてすらいなかったりするのをみていれば、不思議と、ああなんか大丈夫、これから先のことなんか、怖がることなどないと思えた。ひとりの場所から何度も引き戻された気持ちがした。
こうだと思ってた人が・こうだと思ってたことが、別の視点からみればほんとはこうだったのだった、みたいな出来事の、あとから解ってしまう感じというのが私は昔からあまり得意じゃなくて、だってじゃあいつも、そのときにほんとをみせてよって思うし、ほんとをみつけられなかった自分にも悲しくなるしで、こんなときどうしようもなく暴れたくなる。
人や物事には一体いくつの側面があるのか、何面までのことを考え合えば充分なのか。行き届くのか。
いつだって、一つの対象を同時に多方面から見ることを、どうして私たちはうまくできないんだろう。だから例えばこうして演劇を通して、ふたつの視点から見える景色を、一気に見てしまおうみたいな、知らなかったことを知る、あるいは知る為の努力をする、というの謎の行為をするのかもしれない。し、人生の年を重ねる意味ってこれなんではないかと最近になって受け止められるようになってきたやっと。時間をかけなくてはいけないのだ。せっかちだし、限りある人生なの分かってるから、少しでも早くほんとのことを知らせ合いたくなる私の、良いところもだめなところもよくわかった気がした。
見ている途中に驚いたのは、家族の再集合を「私、本当に嬉しかったのよ」って涙を流して話すお母さんのことばと、暴れながら「俺は嬉しかったんだよー!」って怒り叫ぶお父さんのことばとが、ふたつ重なってエコーみたいにもわもわ、頭で鳴り響いたことだった。全く異なる発され方のそれが、まさか重なるとは思わなかったし、重なったそのことばは、私の知りたい、「ほんと」だったのだと思う。実際に劇中で起こっていないことがこんな風に体感として立体的に立ち上がってしまうの、とても凄いことだなあと関心しました。
どこまでもばらばらになれるくせして、結局はひとつの、てのなか、に収まってしまっているのが、家族なのかもしれないなあ。小宇宙みたいな。それでその、「て」はなにをするためにあるのか、考えたり、忘れたりしたい。
そんなわけで来週見に行く「夫婦」も楽しみです。
では、おやすみなさい。
また台風、大変だけれど気をつけて無事に過ごしましょう。。