「夫婦」 | 佐野光来

佐野光来

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  「夫婦」も、見てきた。初演を見ていたけれど、あれなんだろうこの場面初めて見るなあみたいなところがたくさんあって、散文的だけど人間の感覚に近いという舞台の構造を今回の再演で(やっぱり体感的に)、理解できた気がした。雑多でばらばらで唐突な、昔のこと思い出そうとするときの頭のなか、そのものを見ているみたいだった。
  「て」から一週間のあいだを空けてみたおんなじ家族の風景は、おばあちゃんの空白と、またひとり空白になってゆくお父さんという存在の、ひとりの人間の死がもたらす、家族への影響の大きさについて、ひしひしと考えさせられるものだった。とりわけ、死んでしまえ!と思い続けていたお父さんの最期の姿、お父さんの暴君に耐え抜いたお母さんが選んだ最期の寄り添い方、が印象的だった。長い時間をかけなくては、たどり着けない場所があるのかと思うと果てしない気持ちになったし、その景色を2時間の演劇でみれた自分はとても幸運だと思った。(なんかどうして演劇みたりするのかなあって思うときがあるけれど、やっぱり自分の人生では感じきれないなにかとか、経験できないなにかを、きっと知りたいからだし、そんなふうに自分が広くなれば、より豊かになれる気がするからなのかもしれなくて、だからもっと良くなるために、人の力を借りて私は私を少しだけ満たしている気がします。)
  暴君お父さんの、「食らいついていけよ」ってことばが、観劇後の日常生活で度々思いだされては、さてこれこの状況、食らいついたほうがいいのではないかと反芻する時間が私の毎日にうまれて、なんだかなあ。
  夫婦別々に食事をつくり、別々に食べ、そういう毎日のなかで病気が分かり、お父さんがお母さんを食事に行かないかと誘うところは、今世紀最大の名夫婦シーン(という言い方をするとなんだか軽くなってしまうけれど)だった。あの空気、あのことば、あの発露は一生忘れたくないものとして残った。特にお母さんのあのときの気持ちを考えると、いろんな感情がない交ぜになってえぐられる。人間のからだには、一度にあれほどたくさんの感情が流れるものなのか。
  実は2回観劇したのだけれど、病院のお父さん、あれは人形なのだけど、の、お腹が上下していて、見間違いでなければ、あの人形は呼吸をしていたと思う。生きてた。その細やかさに涙がでた。
  どんなに腹が立ったことも、許せなかったことも、許さないでいることも、そのこと考えた時間分、悔しかった気持ち分だけはせめて心の筋肉的なものにして、ほんとどうもありがとな!くらいの気持ちで生きようって、思った。ね、そうしよう。
  それでさいごは、優しいのがいいなあと思います。