坂本龍馬の剣の腕 其の三 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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坂本龍馬記念館に寄贈された皆伝書の存在を示す文書

安政元年六月二十三日、龍馬は江戸での剣術修行を終えて土佐藩(高知県)に戻ります。
閏七月、日根野道場から「小栗流和兵法十二箇条」と「同一五箇条」をそれぞれ伝授され、さらに安政三年八月二十日、龍馬は一ヶ月の国暇をふただび得て、再度江戸へと剣術修行に旅立ちます。
途中、一ヶ月の国暇の延長を申し出て、安政五年九月六日、土佐へと帰国しました。

龍馬は二度目の剣術修行において、安政五年一月に千葉道場から「北辰一刀流長刀兵法目録」と流派の最高位「北辰一刀流免許皆伝」を授かったと口伝されています。
しかし、実態は長刀の初伝程度の長刀目録しか見つかっておらず、本当に坂本龍馬が北辰一刀流免許皆伝を有していたかは不明と言われてきました。

ところが近年ニュースでも話題になりましたが、坂本龍馬が北辰一刀流の免許皆伝を紛れもなく取得していたことを示す決定的な文章を、高知県立坂本龍馬記念館が初めて確認をしました。


経緯としては、北海道にある坂本家が2014年夏、坂本龍馬記念館に寄贈した龍馬の関連史料の中から見つかったとのことです。
坂本龍馬記念館によると、 皆伝書の存在を示す文書は、7代当主の弥太郎が明治43年8月30日付で、龍馬の甥の妻に書いた預かり書の中にありました。

その預かり書は、北海道で行われた坂本龍馬遺品展に出品する際に書き記したもので、秘伝巻物として、
「北辰一刀流兵法皆伝」
「北辰一刀流兵法箇条目録」
「北辰一刀流長刀兵法皆伝」
と書かれていました。

これは、坂本龍馬が北辰一刀流の「免許皆伝」と「目録」、更に「長刀の皆伝」も取得していたことを示しています。

ではなぜ長刀目録以外の、その免許を示す証明書は現存していないのか?

その理由については、別の展覧会に出品された龍馬の遺物の目録(昭和4年)の中に記されていました。

そこには「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」と記述されています。
つまり全てを要約すると、坂本龍馬は北辰一刀流免許皆伝を取得していたが、その証拠である免許の書状を、大正2年に釧路で起きた大火で坂本家が延焼した際、 長刀以外の剣術の皆伝書は全て焼失してしまったということだそうです。

「免許皆伝」とは最高位でありながら、だだ強さだけを示すだけのものでは無く、その道場主が与えた者に己の流派の道場をつくる許しを出す免許でもあり、その者の人格や指導力が試され、龍馬がいかに周りから信頼をされていたのかを読み取る事が出来ます。
道場主の千葉定吉は龍馬に娘の千葉さな子と一緒になり、千葉道場を支えてほしいという思いもあったそうです。

また安政四年、江戸の土佐藩邸で江戸三大道場の門下生による御前試合が行われます。
玄武館からは千葉栄次郎。
士学館からは桃井左右八郎。
練兵館からは斎藤弥九郎。
以上三名が審判を務め、天下の剣豪を集めた大試合が開催されました。
これは当時の剣の腕No.1決定戦と言っても過言ではないほどの立ち合いです。

龍馬は千葉道場桶町代表として、練兵館の島田駒之助と試合します。
島田駒之助は「今武蔵」の異名をとる二刀の剣士で、その腕は相当なものでした。
しかし、龍馬はその島田にあっさりと打ち勝ったと伝わっています。

翌安政五年、桃井道場にて千葉家を招いて試合が行われた際も、龍馬は長州藩の桂小五郎、のちの木戸孝允と立ち合います。

この桂小五郎は、明治維新の政治家として有名ですが、おそらく剣術の腕前は、この時代の名声から憶測すると坂本龍馬と立ち合うまでは天下一であったとされます。

神道無念流免許皆伝で、剣術と柔術の達人であり、桂の剣声は江戸中に知れ渡っていました。
長州藩、毛利敬親は大いに自慢し、他藩の藩主までもが桂の剣技を一目見たさに自藩の江戸屋敷に招待し、その太刀さばきに感嘆したとされています。

龍馬はこの桂小五郎との立ち合いにも勝利し、龍馬と親友の武市半平太は感激のあまり、故郷の小南五郎右衛門へ手紙で「この試合、龍馬がみごと勝利した」と書き記しています。

ところが、これらの試合での一件は、武市の手紙の他はやはり口伝で伝わったものであり、土佐藩の公式な記録には記されていないことから、創作の可能性もあるのではないかと言われています。

また最近になって一部、龍馬が桂に敗れたとする資料も発見されました。
その資料の内容は、群馬県立文書館に保管されていたもので、安政四年三月一日、江戸鍛冶橋の土佐藩上屋敷で催された剣術大会で坂本龍馬と桂小五郎が試合を行い、二対三で龍馬が敗れたと記されています。
この資料が示す剣術大会が御前試合をさしているのかは定かではありませんが、少なくとも龍馬と桂は拮抗した実力で数回立ち会っている可能性があります。 

坂本龍馬が剣術大会で桂小五郎に敗れたことを記す史料(群馬県立文書館所蔵)

以上の事から、龍馬の剣士としての記録は、まだまだ確証の持てる資料が少なく謎が多いのも事実です。
しかし土佐藩では下級の身分である龍馬の活躍を、土佐藩主山内豊信が良く思うはずもなく、それ故にあえて記録に残さ無かったのではないかとも考えられます。

どちらにしても、坂本龍馬の剣術の腕前は、かなり完成されたものであった事は間違いなさそうです。

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