■坂本龍馬、師弟の地
坂本龍馬ゆかりの地を語る上で、絶対に欠かせない場所があります。
それが、東京都港区赤坂。
皆さんは東京にも、坂本龍馬像が建っている事をご存知でしょうか?
一つは立会川駅近く、品川区立北浜川児童遊園に建つ坂本龍馬のブロンズ像。
そしてもう一つが、ここ港区赤坂6丁目に、ある人物の像と供に建っています。
その人物とは誰なのか?
「坂本龍馬」と「赤坂」には、どのような縁があるのか?
まず「赤坂」とはどういった場所だったのでしょうか?
「赤坂」という地名の由来は、赤坂1丁目から、旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂である「紀伊国坂」にあるとされています。
「紀伊国坂」の名前自体は、江戸時代に坂の西側に「紀州藩上屋敷」があったことから名付けられたそうです。
この「紀伊国坂」の坂上に茜草が生えており、そこから「赤根山(あかねやま)」と呼ばれ、赤根山にのぼる坂を「赤坂」と称することになったそうです。
現在の赤坂といえば、TBSテレビ局や邸宅街、高級ホテル等が建ち並び、この夏の時期ともなれば赤坂サカスなどの観光地としても賑わいのある場所です。
では、そんな赤坂と坂本龍馬とはどのような繋がりがあるのでしょうか?
実はここには、龍馬の像と隣に立つ人物であり、坂本龍馬が生涯の師と仰いだ「幕臣・勝海舟」の屋敷がありました。
勝海舟の自伝「氷川清話」によると、坂本龍馬は元々、勝海舟を白昼堂々斬りに赤坂の勝邸に来たとされています。
しかし、斬る前に勝海舟の話しを聞いているうちに感激し、刺客であった龍馬は、その場で心変わりし弟子入り、勝海舟もそれを受けたと言います。
この話しには諸説あり、龍馬は初めから勝海舟を斬りに行ったのではなく、勝という男を見定めに行ったとする説もありますが、事実は分かっていません。
ただし、この時の事を「氷川清話」で勝海舟はこう語っています。
「坂本は俺を殺しにきたやつだが、なかなかの人物さ。そのとき俺は笑って受けたが、落ち着いてなんとなくおかしがたい威厳があって、いい男だったよ」
1863年3月20日。
脱藩してちょうど一年が経った頃。
龍馬も勝海舟との出会いを、愛嬌一杯に姉・乙女に手紙でこう綴っています。
「そもそも人間の一生など、分からないのは当然のことで、運の悪い人は風呂から出ようとして、きんたまを風呂桶の縁で詰め割って死ぬこともある。
それと比べると私などは運が強く、いくら死ぬような場所へ行っても死なず、自分で死のうと思っても、また生きなければならなくなり、今では、日本第一の人物勝麟太郎殿という方の弟子になり、毎日毎日、前々から心に描いていたことが(海軍のことが)できるようになり、精出して頑張っています。
ですから、40歳になる頃までは、うちには帰らずに働こうと思っています。兄さんにも相談したところ、最近は大変ご機嫌がよくそのことについてもお許しが出ました。
国のため、天下のために力を尽くしています。
どうぞお喜び下さい」
■赤坂氷川神社
東京都港区赤坂6丁目10−12
勝海舟邸より近く、勝海舟がとても愛した神社です。
赤坂氷川神社には「幕末三舟掛軸」と言い、勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟がそれぞれに「氷川神社」と記した掛け軸が所蔵されています。
勝海舟の自伝「氷川清話」の氷川も、この氷川神社から取られたものです。
この銀杏は氷川神社ができる前からあり、神社ができる前には、ここには備後国三次藩浅野家の下屋がありました。
忠臣蔵で描かれる南部坂雪の別れでの舞台にもなっています。
勝海舟を始め、数々の偉人に愛された氷川神社は、坂本龍馬も勝に連れられて参拝されていたのでは無いでしょうか?
この社名印は勝海舟の墨跡を用いられています。
・アクセス
赤坂駅より約徒歩15分
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突き当たりを右へ進みます。
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コンビニ(セブンイレブン)が見えますので、手前を左折します。
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そのまま坂を直進すると、右手側に赤坂氷川神社が見えてきます。
■幕末の勝海舟屋敷跡
港区赤坂6丁目10番39号ソフトタウン赤坂
赤坂氷川神社から徒歩約7分。
安政六年(1859)~明治元年(1868)の、江戸城無血開城を終えるくらいまでの約10年間、勝海舟が暮らしていた場所です。
幕府政事総裁職であった松平春嶽の紹介状を持って、幕府軍艦奉行並であった海舟を龍馬は訪ねました。
勝海舟の自伝「氷川清話」によれば、坂本龍馬は勝海舟を斬りに来て、そのまま弟子入りしたとされています。
しかし、龍馬は最初から勝海舟を斬る事が目的では無く、「開国論者の勝海舟の真意を知りたかった事」や尊皇攘夷の思想の強い龍馬の剣術の「兄弟子・千葉重太郎が勝海舟を斬りに行くのを止める為」に同行したなど、様々な説があり、本当の所は分かっていません。
ただ、どちらにしても龍馬にとって勝海舟との出会いは、その後の龍馬の運命を大きく変える事になります。
現在はソフトタウン赤坂という集合住宅になっています。
■明治以降の勝海舟邸跡
東京都港区赤坂6丁目7−17
明治5年から亡くなられるまで勝海舟が住んでいた屋敷の跡です。
幕末の勝海舟屋敷跡から徒歩10分ほどのところにあります。
氷川清話もここで書かれました。
隣にある区立施設の1階には、海舟屋敷の発掘調査で出土した史料などを無料展示されています。
入口から入ると、正面奥に案内が出ており、食器類がいくつかありました。