■愛宕神社(あたごじんじゃ)
東京都港区愛宕1丁目5−3
山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山山頂にあり、東京都区部の天然の山としては一番の高さを誇る、東京23区最高峰の神社です。
京都の愛宕神社が総本社とされます。
主祭神:火産霊命
慶長八年(1603)、徳川家康公の命により防火・防災の神様として祀られました。
江戸時代までは、木造の住宅施設がほとんどでしたので、国民にとって最も恐れられていたものの一つが火災でした。
何処かで小さな火が付けば、たちまち隣の家へと燃え広がり、そのまた隣の建物へと、次々とあっという間に大火災となり、多くの命が失われました。
その為、当時の最も重い罪の一つが「放火」です。
放火とは「人の手により火を放つ事」をさします。
現代もタバコのポイ捨てや路上喫煙の燃えカスからの出火が非常に多く、火災原因の大多数を占めています。
しかし、この頃は今ほど消防施設も充実していない時代でしたので、火災の原因となりうる放火は今以上に命を奪われる恐ろしさがあったのだと感じます。
そういった国民の守り神として、愛され続けたのが、愛宕神社です。
■出世の石段
愛宕神社は二つの有名な歴史的な史跡としての側面もあります。
その内の一つが神社入口にそびえる「出世の石段」と言います。
「寛永三馬術」曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事によるものです。
寛永十一年、江戸幕府第三代征夷大将軍・徳川家光が芝増上寺に参詣した帰り道、愛宕神社の下を通りました。
愛宕山には梅が満開に咲いており、それを見た将軍徳川家光が「馬に乗ってあの梅を取って参れ!」と命じます。
しかし、愛宕山の石段はとても急勾配で、馬で石段を上って梅を取ってくる事など、とてもできそうにありません。
無理に馬で駆け上がろうとしたものなら、馬がひっくり返って落馬し、死んでしまうかも知れない。
周りの家臣たちは命欲しさに、誰一人動こうとしませんでした。
そんな中、四国丸亀藩士の曲垣(曲木)平九郎が颯爽と馬に乗って石段を駆け上がり、見事、山上の梅の枝を手で折って徳川家光に献上して見せます。
家光は、戦が無くなった泰平の世であっても、武士の心得である馬術の稽古を怠らない平九郎の真面目な姿勢を称賛し「日本一の馬術の名人」と讃えます。
これにより、平九郎の名は一日にして日本中に響き渡ったと伝えられてます。
この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂は「出世の石段」と呼ばれています。
現在の石段も86段あり約40度と、かなり急で知られます。
参拝の際に、どうしても出世の石段を上るのがキツい方には、脇には緩やかな坂やエレベーターも備えてありますので、安心してお参りする事が出来ます。
仕事運、出世運が上がるパワースポットとしてたくさんの参拝者がいます。
■江戸城無血開城会談の地
江戸城無血開城をご存知でしょうか?
坂本龍馬が薩摩藩と長州藩の手を結ばせ「薩長同盟」を起こし、日本国民が争い合う事の無いように徳川幕府の支配体制を無くす為に画策した「大政奉還」
大政奉還とは徳川将軍が政権を朝廷へ返上する事を言いますが、これは薩摩や長州などの後に新政府軍となる「勤王」派と徳川幕府を主軸とする「佐幕」派が武力による衝突を起こさない為の策です。
というのも、当時日本の政治権力を握っていた徳川幕府の、支配体制を無くす為に「勤王」派は武力による徳川将軍の排除を望んでいました。
しかし、坂本龍馬は勤王も佐幕も町人百姓身分も問わず、日本国民皆で手を取り合う民主政国家を目指していましたので、勤王派と佐幕派が争わないように戦う理由を無くそうと考えます。
それが「大政奉還」です。
大政奉還を行った事により、佐幕派の頂点である徳川将軍は政権を朝廷(天皇)へ返上し、もう国の権力者では無くなり、一般の大名となります。
迫り来る外敵を打ち払う「征夷大将軍」を朝廷より任命されていながら、徳川将軍は侵略しに来る外国人を打ち払う「攘夷」を決行出来ていないことにより、「勤王と佐幕」は争っていました。
もともと「勤王」とは天皇に忠義を尽くし支えるという意味ですので、徳川将軍は政権を朝廷へ返上した以上、もう勤王と佐幕が争う理由はありません。
これを無視して勤王が戦争を仕掛けたら、それこそ朝廷への反逆となります。
こうして、勤王派と佐幕派が戦争をする事が無く、徳川幕府の武力による支配体制は終焉を迎えます。
もし薩長を中心とする勤王派と佐幕派が全面戦争になっていれば、徳川将軍のいる江戸城へ勤王派が軍備を整え進行してきますから、江戸の町で両者がぶつかり火の海になります。
そうなれば、武士以外の江戸市民も含めて沢山の命が無くなり、町も壊滅的な被害を受けていた可能性があります。
龍馬はこういった市民の命も守りたかったのだと考えます。
この一連の行動を第ニ次伊藤内閣の外務大臣・陸奥宗光は、坂本龍馬の「無血革命」と称しています。
しかし、勤王派が新政府軍となり、国の基盤をこれから造っていこうという所で、慶応三年十一月十五日、坂本龍馬は何者かに暗殺されてしまいます。
その結果、中立だった龍馬がいなくなり、旧徳川を完全に滅ぼし、徳川将軍の首を取りたい「勤王派の新政府軍」と、それを阻止したい「佐幕派の旧幕府軍」との間で戦争が勃発してしまいます。
これが戊辰戦争です。
この戦争で、非常に残念な事に多くの英雄が命を落としてしまいますが、新政府軍がいよいよ旧幕府軍の喉元まで迫った際に行われた会談があります。
幕末という時代の終わりを告げる慶応四年(1868年)三月から四月にかけて、新政府軍の代表である西郷隆盛と旧幕府軍の代表である勝海舟が徳川将軍の首と江戸城の引き渡しに関する交渉会談です。
これを「江戸無血開城」と呼びます。
この時、旧幕府軍より新政府軍の方が遥かに武力は上でした。
そして新政府軍の多くは、徳川将軍・徳川慶喜の死罪を望んでいましたし、武力による攻撃に踏み切れば、確実に新政府軍は勝利し確実に権力を握れます。
しかし、もし江戸城への攻撃になれば、当時人口100万人を超える世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込む事になります。
この江戸市民と日本の未来を賭けた会談は、一月の話し合いを持ち交渉は成功し、徳川将軍・慶喜は死罪を免れ、江戸城を武力で攻める事もせず、新政府軍は旧幕府軍の降参(開城)を認めました。
この世紀の会談を行った場所こそが、ここ愛宕神社だと言われています。
その頃、山の山頂である愛宕神社の地からは、江戸市内が見渡せたそうですので、西郷隆盛と勝海舟は、きっと江戸の町と市民の平和を願い会談に臨んだのでは無いでしょうか?
旧幕府軍の代表であり、坂本龍馬の師匠・勝海舟は、西郷隆盛を「江戸の大恩人」と讃えています。
新政府軍が圧倒的に有利にも関わらず、西郷隆盛が交渉を飲んでくれたからこそ江戸を救う事ができ、最期まで戦って散りたいと考える旧幕府軍の兵士からは裏切り者と冷たい目を向けられながらも平和の為に身を削り交渉に臨んだ勝海舟。
無血で平和的に解決するというのは、本来は亡くなってしまった龍馬が望んでいた事です。
それが最後に実現出来たのは、勝海舟の国民を想う気持ちと真剣さ、西郷隆盛の人望と人としての度量の大きさがあったからこそ成し得られたのだと感じます。
そして同時に愛宕神社は多くの命を救った歴史的な場所だという事になります。
■アクセス
神谷町駅より徒歩約5分
日比谷線神谷町駅の3番出口から地上に出ます。
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少し歩き写真の位置を右折します。
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直進すると愛宕隧道が見えます。
出世の石段を上れない方はこちらから行けます。
出世の石段側入口は愛宕隧道くぐって左折します。
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