坂本龍馬 明智光秀の子孫説 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■龍馬の先祖は明智光秀?


幕末のヒーロー・坂本龍馬。

そんな龍馬には明智光秀の子孫であるとされる説があるのをご存知でしょうか?

明智光秀と言えば、本能寺の変で織田信長を討ち、僅かの期間ながら天下を取った「三日天下」の戦国武将として有名ですが、そもそも、龍馬の生まれた土佐(高知県)は元々長宗我部一族が治めており、龍馬達下士の先祖は、この長宗我部に仕えた武士であったとされています。

ですので、一見、坂本龍馬の先祖が明智家と繋がりがあるのかと問われれば、その可能性は非常に低い様に感じます。

しかし、明智光秀を語る一つの伝承「明智後裔説」において、坂本龍馬の坂本家は明智光秀の娘婿の「明智秀満」の末裔であると紹介されています。

その続きでは、本能寺の変で明智光秀は豊臣秀吉に討たれ、共に戦った明智秀満は影武者を立て何とか土佐に逃れます。

その後、土佐の長宗我部に匿われた明智秀満の末裔は、光秀の居城の坂本城の地名「坂本」を姓にして帰農し、その十代目が龍馬の兄権平であり、坂本家の桔梗紋は明智家に由来するとされています。

この「明智後裔説」が、記録として最初に残っている書物は、明治16年にジャーナリストの坂崎紫瀾が坂本龍馬を主人公にした「汗血千里駒」という伝記小説から始まっており、その中の一説に「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ケ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とあります。

これは龍馬と同じ土佐出身の坂崎紫瀾が、龍馬の伝記を書くにあたり、当時まだ生存していた龍馬の血縁者や関係者に聞き取りを行ったり、資料を調べる中で「坂本龍馬の先祖は明智光秀の重臣である明智左馬之助光俊である」という考えに至ったと言われています。


■明智左馬之助光俊とは?


では、「明智後裔説」で坂本龍馬の先祖と紹介されている「明智左馬之助光俊」とはどんな人物だったのでしょうか?

「明智左馬之助光俊」は、正式には「明智秀満」と言います。

優秀な戦国武将であったようですが、出自は複数存在しており、非常に謎が多い人物であまりよく分かってはいません。

元々明智家の家臣で「三宅」氏を名乗った者も多く、この明智秀満は当初、三宅弥平次と名乗っていた事から、三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、児島高徳の子孫と称した備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もあります。

また江戸時代中期に書かれた「明智軍記」によれば、明智秀満は三宅ではなく明智氏の出身であるとされています。

明智光秀の叔父である明智光安の子であり、そこに「明智光秀とは従兄弟の関係だった」と記されています。


明智秀満は「左馬之助」という通称で知られ、人気アクションゲーム鬼武者の主人公としても有名になっています。

史実での明智秀満は天正10年(1582年)6月、明智光秀の謀反で織田信長を討った本能寺の変では、明智光秀軍の「先鋒」となって京都の本能寺を襲撃します。

その後、安土城の守備に就き、13日の夜、羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗れたことを知り、14日未明、安土を発して坂本城に向かったとされます。

明智秀満は明智光秀の家臣の中でも、数々の功績を上げており、光秀の信頼が厚かったとされています。

実は明智光秀が本能寺で織田信長を討つ際に、「最も最初に相談」したとされているのも、この明智秀満だとされます。


その際には秀満も思い留まるよう光秀に説得しましたが、その後、明智光秀は斎藤利三など、他の家臣にも相談した結果、皆、同じ意見だったので思い留まる様にしたと明智秀満に話すと、一転して秀満は急いで織田信長を討つことを光秀に主張したそうです。

それは「複数」の者に相談したとなると、戦国の時代ですから忍びに聞かれたり、家臣の裏切りに合うかも知れず、何処から話がもれるか分かりません。

そうなれば、いずれ「織田信長の耳にも入る」事となります。

そうなってしまっては手遅れになる。

そうなる前に実行した方が得策だと言う事です。

しかし本能寺の変で織田信長を討つ事には成功するものの、豊臣秀吉の予想外な動きで明智光秀は敗北すると、秀満も「坂本城」へ退く事になります。

坂本城の石垣

その「坂本城」も、豊臣軍の堀秀政勢に包囲されると、明智秀満は明智光秀が所有していた天下の名物・財宝をまとめて、目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろします。

これは明智が織田を討ったのは、目先の財宝に目が眩み、私利私欲の為に行ったのではないという事を証明する為です。

そして、1582年6月15日の夜、明智秀満は明智光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺し、自ら坂本城に火を放って自害したとされます。


ところが、それから暫くすると世間では明智光秀生存説が浮上してきます。


後の書物に明智光秀の生存を示す書物が出て来たり、明智光秀が逃げ延びて徳川家康の側近・南光坊天海となったとする説もあります。

確かに南光坊天海には明智と密接な繋がりを感じさせる点が多々ありますが、年齢的に明智光秀とは離れているので、近年では光秀の子か、この「明智秀満」が坂本城では死なず逃げ延び天海になったとする説が有力視されています。

天海並びに明智生存説については、以外の記事もお読み下さい。

 そして「坂本家」については、この「明智秀満の子孫」が、土佐(現在の高知県)に移り長宗我部に匿われ、明智光秀の居城として築かれ、明智秀満が最後に戦った城である「坂本」に由来して姓を改めたとされます。 


ただ、残念な事に現在の坂本家の資料の中には、「明智家との血縁関係を示す資料が残されていません」

その為、坂本家と明智家の両家の関係は実証されていません。


この事から否定的な考えも多く、この説は「汗血千里駒」を書いた坂崎紫瀾の作り話であるとする意見もあります。


しかし、言い伝えとして、坂本家の中で代々「坂本家は明智の末裔である」と受け継がれているようですので、資料が無いからと、全て否定することもできないと考えられています。



■坂本龍馬の先祖の名前は?


坂本龍馬自身は自分の先祖についてどう考えていたのでしょう?


実は龍馬自身は生前、土佐国国司・紀貫之ら紀氏の子孫だと名乗っていました。



紀貫之(きのつらゆき)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人で、「古今和歌集」の選者の一人。

三十六歌仙の一人です。


あれ?明智じゃないの?


そう思われた方もいらっしゃると思います。


坂本家には先ほど記述した「明智の末裔である」とする言い伝えの他、「紀氏の子孫」だとする二つの伝承が代々口伝にて受け継がれてきたとされています。


現に京都霊山護国神社の坂本龍馬の墓石には「坂本龍馬紀直柔之墓」と「紀」の文字が記されています。


これについては、はっきり分かっていませんが、坂本家は本当に「紀氏の子孫」だと考える説と、「明智光秀は謀反人である為、明智の末裔を名乗る事を避けた」とする二つの考えがあります。


ここで、坂本家の家系図を辿ると、ある人物に行き着きます。


その人物こそが、坂本家初代の「太郎五郎」です。


「太郎五郎」は明智秀満の子と考えられており、南国市にある坂本太郎五郎の墓には「弘治永禄の頃(1555~70年)畿内の乱を避け、土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とあります。


これを正確なものと考えると、応仁の乱以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。


土佐を治めていた「長宗我部元親の妻」と、「長男・信親の妻」は、二人とも石谷氏の娘で、「石谷氏は明智家」と深い繋がりがあります。


このことから考えても、坂本家が明智家と血縁関係があったならば、「長宗我部元親を頼って、土佐に来る」可能性も十分に考えられるそうです。


ただその場合、「由緒ある明智の子孫」を平野部の一定の領地を与えられてもおかしくはないのに、「才谷村のような山間部」に住まわせたことから、やはり謀反人の一族としての扱いだったのか、それとも、やはりこの説自体が作り話なのか疑問視されています。



■明智の家紋と坂本の家紋


龍馬が明智の子孫だとする理由の一つに家紋が似ているとする考えがあります。


そもそも家紋は、日本特有の文化で武士にとって大事な「家」を表し、明治までは主に武士とそれと同等と身分の者にしか持つ事を許されてはいませんでした。


その上、大名の家紋は特別であり、その他の者が同じ図柄の物を持つ事は出来ませんし、似た図柄の家紋は血縁者の可能性が高いと考えられています。


では坂本龍馬の家紋と明智光秀の家紋を見比べてみましょう。


坂本龍馬の家紋「組合角に桔梗紋



明智光秀の家紋「水色桔梗紋」




明智光秀の家紋は「水色桔梗紋」と呼ばれ、「桔梗紋」は、美濃の土岐家とその一門の代表的な紋です。

土岐一族の明智光秀は桔梗紋を受け継ぎ「水色桔梗」にしたと考えられます。


坂本龍馬の「坂本家」の家紋は、明智家の「桔梗」を枠で囲む「組合角に桔梗紋」という家紋です。


坂本龍馬の先祖である「大浜直海」は、才谷屋という町人から武士となり苗字帯刀を許されて分家しました。


このとき家伝にあった明智家との繋がりを信じ、坂本城にちなんで「大浜」から「坂本」と改名したとされています。


坂本家が改名する前の「大浜」という姓を名乗っていた頃は、家紋が「丸に田」を使用していた事もあり、現在の坂本家の家紋「組合角に桔梗紋」は大浜直海が「坂本」に改名する際に変更したのでは無いかと思われ、昔から明智光秀と家紋が似ていた訳ではない様です。


大浜氏の家紋「丸に田」


その事から、現在の坂本家の家紋が明智家の家紋に似ているというだけでは、坂本家と明智家の繋がりを証明する決定的な証拠としては弱いと思われています。


しかし、江戸時代の明智光秀は、豊臣秀吉の情報操作により主君を裏切った大悪人としてのイメージが定着していた為、仮に本当に明智家の末裔だったとしても、坂本家は表立って好評をする事は避けたのでは無いかと感じます。


ですので、「坂本龍馬が明智光秀の子孫かどうか?」については、確実ではないが「坂本龍馬の先祖は明智光秀の従兄弟である明智秀満である可能性はある」という事になると思います。