10分で分かる「一谷嫩軍記」【分かりやすい文楽・歌舞伎あらすじ】 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫


ふたばの物語。








  一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんき




物語の時代は源平の戦いで平家が敗北しかかっている頃。


主人公は





熊谷次郎直実です。







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平家が源氏に追い詰められている時代



かつては宮人のようだった平家も、源氏に追い詰められ、須磨の海岸で陣を固めています。


そんな平家の陣門の総大将は

平敦盛たいらのあつもり

十代後半に差し掛かったばかりの若者です。



義経軍はそこを攻め落とすため、熊谷たちを差し向けました。
陣門へと一番最初にたどり着いたのは、熊谷の息子の小次郎

敦盛と年齢が近く、今回が初陣です。
平家の陣を偵察していると、陣の中から管弦の音が聞こえてきました。

小次郎はそれを聞いて、こんな雅な心をもつ人を、野蛮に刃で押し倒してよいのだろうか、と考えこんでしまいました。




とそこへ、熊谷の同僚にあたる平山がやってきました。
戸惑う小次郎を見て、あの管弦の音は敵を惑わすためのハッタリだから遠慮せずに斬り入るのだ!と言いました。

その言葉に押され、小次郎は平家の陣へ斬り込んでいきました。






ですが、、
平山はその後に続きませんでした。




ひと足遅れて、熊谷がやってきました。
息子が平家の陣へ斬り込んだことを聞き、慌てて熊谷も平家の陣へ乗り込んでいきました。




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平山は熊谷親子を囮に、楽して手柄をたてようと思っている!















  敦盛と熊谷の闘い


熊谷は傷を負った小次郎を抱えて飛び出してきました。


そうして、平山に「後は頼む!」と言って源氏の陣へ引き返していきました。
平山としては、熊谷親子が死に物狂いで平家の戦力を削いでくれることを期待していたため、予想外の熊谷の行動に慌ててしまいます。

そこへ、平敦盛が陣から出てきました。
平山は踵を返して逃げていきました。








源氏が攻め込んできたことで、平家は須磨の海上へ逃げています。
小次郎を源氏の陣で安息させた熊谷は、平家を追って須磨へ戻っていきました。

ちょうど同じタイミングで敦盛も味方の軍勢と合流するため、須磨の浦で馬を駆けていました。




2人は邂逅します。
そのまま一騎討ちになだれ込みました。
しかし、敦盛は総大将とはいえ、歴戦の戦いで生き抜いてきた熊谷とは力の差は歴然。
敦盛は組み負けてしまいます。


熊谷は息子のことを思います。
敦盛をひとり討ち取っても戦況がひっくり返ることは今やありえません。
誰も見ていない戦いです。
熊谷は敦盛を逃がそうとしました。
しかし、それを見逃さなかったのが平山です。
山の影から見ていたのです。
敦盛を逃すつもりか!と言われ、熊谷はどうしようもなくなってしまいました。
敦盛自身も首を差し出します。

そうして、
熊谷は敦盛の首を討ったのでした。





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熊谷は敦盛の首を討ち取った!?












  熊谷の陣となった須磨




総大将が討ち取られ、須磨は熊谷の陣となりました。
そこへ2人の女性が訪ねてやってきます。
1人は、息子が心配でやってきた熊谷の妻の相模
もう1人は、逃げ込んだ先が須磨だった、敦盛の母、藤の局


この2人、昔は同じ職場で働いていました。
その職場というのは、なんと宮中です。

宮中で仕えている時に熊谷と恋に落ちた相模でしたが、不義はご法度、罪に問われていたところを助けたのが藤の局でした。

熊谷が須磨へ帰ってきました。
そこを、藤の局が息子の仇!と熊谷に斬りかかりました。
熊谷は藤の局を制すると、敦盛の最期の様子を話して聞かせました。








やがて義経がやってきました。
敦盛の首実験のためです。
熊谷は敦盛の首が入った首桶を義経に差し出して、首をあらわにしました。
ちょうど相模のいる場所からはその首の顔が見え、藤の局の角度からは見えません。

相模は首を見て、思わず声を上げました。


熊谷は義経から与えられた制札を掲げました。
その制札には
「一枝を伐らば
一指を剪るべし」
と記されていました。



「この制札の通り、敦盛の首を討ちました。義経さまの意図を正しく汲み取ることができたでしょうか」
熊谷はそうたずねました。
取り乱す藤の局と、わなわなと震える相模。

義経は「それで間違いない。敦盛の首に、違いない。熊谷、その首を藤の局にも見せなさい」とそう言いました。

熊谷は「女房、この首を藤の局にお見せせよ」と言いました。
相模は涙ながらに首を受け取り、藤の局に見せました。

「その首は・・・!!?」

藤の局は戸惑いの声を上げていました。
その首は
小次郎の首
だったのです。



敦盛は、藤の局の子。
そして、父は後白河法皇だったのです。

院の子息をむざむざ殺すべきではないという義経の考えのもと、源頼朝に察せられないように、制札に「一枝を伐らば
一指を剪るべし」と記し、熊谷にたくしたのです。

そしてなぜ熊谷が敦盛の出生の秘密を知っていたかというと、相模との関係に関わってきます。
相模が小次郎をお腹に宿したのと、藤の局が敦盛をお腹に宿したのは同じ年。

藤の局が相模と熊谷を助けたこともあり、その恩は深いものでした。




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敦盛と小次郎は入れ替わっていた。












  敦盛はどこに




また戦が始まるとのことで、熊谷は鎧をつけに部屋の奥へ行きました。
そこへ、頼朝の家臣である梶原が出てきました。
今の一部始終を聞いていたのです。
義経が平家へ加担していたと頼朝に報告すると宣戦布告しました。

その梶原の背中を手裏剣が貫きました。

その手裏剣を放ったのは、敦盛の石像を作っていた不審人物として囚われていた石屋の親父、自称弥陀六という男でした。

しかし、その素性を義経は見抜いていました。
弥陀六は平家の人間、弥平兵衛
やへいびょうえ
宗清
むねきよ
という男だったのです。
「いえいえ、わたしはただの弥陀六です」
と宗清が言うと、義経は語りました。
彼は幼い時、母と流浪していたころ、一人の男に助けられていたのです。
「はっきりと覚えている、あれはそなただったのだろう」
と。

「恐ろしい眼力じゃのう」
と宗清は言いました。

奥から甲冑姿になった熊谷が戻ってきました。
義経は熊谷に鎧櫃を持ってくるように言いました。
熊谷が持ってきた鎧櫃を、義経は宗清に渡しました。
「ふむ、おもしろい」
と宗清は中身を覗き込みました。


同時に中が見えた藤の局が駆け寄ります。
鎧櫃には敦盛が隠れていたのです。

宗清は鎧櫃の蓋を閉めると、「なんでもない。この中身はなんでもない」と言い、「忝い」と首を垂れました。

相模は熊谷にいつ二人を入れ替えたのかと問いました。
須磨の浦での戦いの時にすでに二人は入れ替わっていたのだと熊谷は言いました。

小次郎は自主的に、その身代わりとなる道を選んだ、と。

そうして熊谷は兜を脱ぎました。
その下の髷は切り落とされていて、戦いが終わったら僧として出家するけじめをつけたのです。

義経はそんな熊谷に、「僧となって、われの父と母の回向も頼む」と言いました。

熊谷は遠くを見て、呟きました。


 
「十六年もひと昔。ああ、

夢であったなあ」
















 





 

 

 

 



とよたけ・さきじゅだゆう:人形浄瑠璃文楽
 太夫
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽
公演に主に出演。


その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
オリジナルLINEスタンプ販売中

 

 

 


豊竹咲寿太夫
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