咲寿太夫
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芸名
この度、豊竹より竹本になりました咲寿太夫です。
人形浄瑠璃文楽の太夫は
・竹本
・豊竹
の二つの姓の芸名ばかりです。
人形浄瑠璃文楽の音楽様式である義太夫節を確立した、我々の大元となる方が
竹本義太夫
と言います。
この竹本義太夫師が竹本座を道頓堀に開き、その後、豊竹座ができました。
この竹本座と豊竹座の人たちの弟子筋が、現在の人形浄瑠璃文楽座の演者たちなのです。
なので、太夫は竹本・豊竹なのです。
三味線弾きは現在、
- 鶴澤
- 竹澤
- 豊澤
- 野澤
人形遣いは
- 吉田
- 桐竹
- 豊松
となっています。
入門時にお名前をいただく際、師匠と同じ名字を名乗るのが通常なので、日本の舞台芸能は多くの人が同じ名字です。
メディアでは、文化部での報道ではフルネームで報道されることがほとんどで、会話の中や記事の中での名前表記は下の名前で表記され、混同のないように呼称されます。
舞台芸能となかなか縁が遠くなってしまう社会部やニュース番組では名字だけで報道されることが多々ありますが、それは誤りで、私たち舞台芸能の芸名は必ず下の名前を大切に呼んでいただくことをお願いしています。
豊竹咲太夫の元に入門し、豊竹咲寿大夫を名乗りました。
当時、太夫の表記は芸名のみ「太夫」ではなく「大夫」表記で、お名前をいただく際に字画数をみて「寿」の名前をいただきました。
字画数が関わっていたので、十数年前に「大夫」から「太夫」表記に統一された後も個人的には咲寿大夫の表記にしていました。
当初は「つばき太夫」というお名前が候補にあり、当時いらっしゃったつばさ太夫兄さんと並べると
つ つ
ば ば
さ き
で咲の字が浮かび上がるという構想だったそうですが、幼い私は無邪気にも恐れ多くも失礼を知らずに「咲の字がほしいです」などと言ったため、その場で困った師匠が現師匠(当時豊竹咲甫太夫)に「おい、なんかええ漢字ないか」と尋ね、「寿の字なら字画数問題ありません」と返答、咲寿となりました。
名付け親は亡き師匠と現師匠のお二人でした。
ちなみに、亡き師匠はもともと竹本姓でした。
師匠の師匠(私からは大師匠)は豊竹山城少掾師で豊竹姓でしたが、竹本綱太夫師の子息なので「竹本綱子太夫」でした。
二十代の頃に諸先輩や師匠方のすすめで「豊竹咲太夫」と名前を変えました。
弟子の私たちも「豊竹」でしたが、現師匠が織太夫になる際、それは改名ではなく襲名でしたので、きっちりと歴代「織太夫」が名乗っていた「竹本」を名乗られたのです。
そして、この度私も竹本織太夫の弟子となり、竹本となりました。
このように、芸名は変わることがあります。
襲名、改名、退団をしていた人が再入座など、理由はさまざまですし、その一方で一生芸名を変えない方もいらっしゃいます。
芸名にはその演者の人生が詰まっているのです。
竹本咲寿太夫
人形浄瑠璃文楽
太夫
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽公演に主に出演。
モデルとしてブランドKUDENのグローバルアンバサダーをつとめる。
その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
オリジナルLINEスタンプ販売中

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