味方づらして腐った構造に加担する人達の特徴1今の反ヘイト運動の弊害 | 原発解体!!!

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あんまり原発自体のデータがないので勉強します。
使える記事は転載で使ってください。

MIXI 原発解体 コミュ
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ヒバク・被曝・被爆・癌・医療
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元々はMIXI日記→http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1931416470&owner_id=110966
カットしたりしましたけど、リンク先に詳しく書いてあります。

反ヘイト運動・・反在特に絞られてる今の運動ってなんだか変?って私が思うことなんですが、

1.反ヘイト運動の中に、憎悪・差別表現を好んで使う人間が数多く存在すること。
2.とりあえず黙っていればいい、差別の構造自体には言及しないという立場のように見受けられる。


まぁ、もちろん、憎しみと言うのは人の自由のうちの一つだと私は思います。
だけど、差別する自由なんて言うものは存在しないと思いますけど、どう思われますかね?


で、反ヘイト運動の人の中には、先天的(或いは自分のどうしようもない環境に追いやられた人)に対する差別は許さないけど、自分で選びとった思想 宗教みたいなものに関しては『徹底的に攻撃してもいい』みたいな考え方を持ってる人が結構いるように思います。まーツイッターでギャーギャー言ってる人が 2・3人いるだけかどうかわかりませんけど、間違ったらどんな手段でも取ってもいい。(誹謗中傷脅迫なんでもあり)って言うのは、なんとなくこう、あるよ うな気がするんですよね。

まぁ、反ヘイト運動だけに限らないですけど。




wiki・・・・まだ議論の途中にあるようですが。

ヘイトスピーチ
Split-arrows.svg
このページの一部を「日本のヘイトスピーチ」に分割することが提案されています。
議論は「このページのノート」を参照してください。なお、分割を行う際には履歴不継承にならないように注意してください。(2014年8月)


この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

正確性に疑問が呈されています。(2013年10月)

ヘイトスピーチ(英: hate speech)とは「憎悪表現」と訳される概念で[1][2]、特にそうした種類の言論が”地域の平穏を乱すことをもって規制されるべき”と議論する場合 には「憎悪を煽る表現」と呼ばれる[3][4]。喧嘩言葉[5]と同様に相手方の内部に憎悪を生み出すような言論(表現)類型と考えられており、話者(表 現者)の側の憎悪感情が問題とされる[6]。

ある個人や集団を、人種(民族)・国籍・性といった先天的な属性、あるいは民族的文化などの準先天的な属性、あるいは宗教などのように人格との結 び付きが密接な特別の属性で分類し、それを有することを理由に、差別・排除の意図をもって、貶めたり、暴力や誹謗中傷、差別的行為を煽動したりするような 言動のことを指す[7]。ヘイトスピーチの対象は言論(speech)以外に表現(expression)全般に及び[8]、例えば宗教的象徴を中傷する 漫画や動画の公開や[9]、歴史的経緯を踏まえた上で民家の庭先で十字架を焼却する行為[10]なども議論の対象に含まれる。



・・・


これ、キチンと本当に議論しないといけないと思うんですけど、じゃぁ、弱者の怒りは表現出来ないのか。とか言う話にも及ぶと思うんです。

まぁ、表現問題に関しては、誰を対象にするのだ?と言う事に関しては散々私もっと議論すべきだと主張してきました。


そこは話が長くなるので、割愛しますが。





で、言いたいのは、腐った構造に加担する人の特徴としては、


1.まともな議論はしない。(事実関係の検証は行わない)
2.心が狭いとか狭くないとかでよくわかんないことで優劣をつけようとする。
3.大勢を味方につけるには、『些細な』問題は問題にならない。と言って『大事な』問題をおざなりにする。



まぁ、個々人のヘイトをやっていても、埒が明かない部分って言うのは確かにあると思うんですよ。

例えば、安倍しんぞーをいくら馬鹿だなんだのと言っても、あれを誰かが暗殺したところで、あんまり変わらない、ちょっとぐらいマシになるかもしれないけどって話。

構造を支えるのは誰か。と言うこと。


まぁ、特定の人が『軸』というか、『ボトム』になってることはあるので、その人を批判することで問題を見る。って言うのはあると思うんだけど、『軸』だけ見ても、全体の構造論は見えない。

そういう意味では、敵は自分たちの中にいる。http://ameblo.jp/sakanauta/entry-11912019530.html



と言う事なんだと思うんですよね。


・・・・・


コメントいただきました。



  • 個人の価値観に善悪を定めない、というのが人権思想の出発点であると私は書きました。

    憎悪を抱いた差別感情も、まさにその人にとっては正義なのだと思います。

    しかし当然ですが、このような考えは「社会正義」とはいえませんよね。

    このような感情が多数派によって形成され、政治領域に持ち込まれることで、過去に悲惨な結果をもたらしました。

    立憲民主主義における「表現の自由」の意義とは、相互のコミュニケーションによって、健全な人格形成をはかるためにある、とされています。

    差別感情剥き出しの表現は、自由というより、たんなるわがままとしか思えません。

    さんざん日記に書いてきましたが、「多数派が必ずしも正しいわけでなく、むしろ少数派が正しい場合もあった」という過去にあった現実を反省として、常に迫害されやすい少数派をいかにして守るか、ということのために人権思想が生まれたといってもよいでしょう。

    ヘイトスピーチも、反ヘイトスピーチも、「表現の自由」を履き違えています。




返事>>


  • 的を射たコメントありがとうございます。

    >常に迫害されやすい少数派をいかにして守るか、ということのために人権思想が生まれたといってもよいでしょう。


    ああ、これが、これが、私がいつもカチーーーーーーーーーーーーーーーンと来る人に、ごっそりごってり、欠落してる部分なんだなーと思いました。




追記】なんかそういう人権と言う事がごっそり抜けてる人が『運動』とかやってると、自分の運動のために弱者を利用するみたいなことになってるような気がするんですよね。



まぁ、しかし、在特の暴力って私現場で見てますから、あれはホント何とかしろと思うんで、カウンター有難い人もいるとはおもいます。


しかし、、例えばA組のヤクザが自分がやってる店で暴れ込んできて、B組のヤクザが止めてくれました。ヤクザにもいろいろいる。ヤクザは悪くないみたいな構造って言うのかな、でB組のヤクザは、うちの店では暴れてないかもしれないけど、余所で暴れてるみたいなね。


そういうのと似てる気がしますネ。



本当に人権の事も考えてカウンターに参加してる方もいるのも知ってますからひとくくりには出来ないと個人的には思ってますけど、人権の事を考えて参加されてる方も、どの構造に組み込まれていってるのか、構造に加担しないためにどうしたらいいかということに、もっと意識的になったほうがいいんじゃないのかなあと思うんですけどね。



まー現場行かないくせにケチばっかりつけやがって。

って言われるだけなんでしょうけど。



で、これ、なんで原発関係のブログに書いてあるの?って話ですけど、これがイロイロつながることだからなんですよ。ってことで、続きは又。