13回目の春を迎える石巻 | 堺市の交通まちづくりを考える会

13回目の春を迎える石巻

 私たちは2011年3月、6月、9月に宮城県石巻市へ延べ60名ほどで災害支援ボランティアを計3回企画した。

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 12年経った去年2023年11月、現在進行形の石巻を確認した。今回は特に、第2回支援ボランティアで伺った市立石巻保育所や「がんばろう石巻」看板があり最も被害の大きかった南浜一帯を訪れた。

 

1、南浜復興祈念公園で開催中の第8回青空マーケットで早めの昼食をとった。第2回支援ボランティアでも活動した場所だ。今の看板は100mほど海側に移設された新しいものだった。
↑移設された新しい看板と鎮魂の鐘。マーケットでは被災前に石巻デパートで有名だった白いたこ焼きを復刻したお店でいただいた。
 
2、全員避難できた門脇小学校(今は震災遺構門脇小学校に初めて訪れた。当時は通りがかりにチラッと確認した程度で、被災状態のままだった。今は津波避難の資料館として様々な品が並ぶ。改めて事実を知ることができた。こういった資料館は県内外に100以上も設置され、同じ過ちを踏まないと決めた人々の決意が伝わってきた。

 

 

 

 

3、第2回支援ボランティアでは千葉元市議のアテンドをいただき、市立石巻保育所と河北総合センター「ビックバン」にて500名分の生クリームいちごショートケーキ🍰を一緒に作って振る舞った。今回は保育所にお邪魔した。南浜にあった旧門脇保育所では毎月避難訓練が行われていたお陰で被災時は3kmも離れた石巻保育所まで避難したなど、当時を知る職員から新しい事実も知ることができた。

↑材料を全て大阪から持ち込み、子どもたちと一緒に作ってみんなのお誕生日を迎えられることを祝った。アテンドいただいた千葉元市議ご家族とお友達とともに。

 
4、第2回支援ボランティアでは復興除外地域へも赴いた。泥水がまとわりついた畳を階下に下ろし、先程まで人が居たかのような部屋の片付けを手伝った。依頼者のプライベートに、正に土足で上がり込む気持ちで申し訳なく思った。一転、現在は空き地が広がる有様。行政が復興支援しないと決めた町。工場や家屋がひしめき合い、人々の息遣いが伝わってくる町が今では「空っぽの町」になったままだった。

上段が現在、下段が2011年6月被災後3ヶ月

 
5、被害が大きかった南浜は、防波堤や市営住宅など新しい建造物が目立った。しかし12年経っても以前のような人の営みは感じられなかった。

左上:新設の防波堤

右上:南浜中央道は第2防波堤として盛り土したバイパスに改築された

左下:空き地が目立つ幹線道路沿い

右下:南浜は水産加工会社も戻らない

 
6、新しい試みとして、「石巻工房」(石巻ホームベース)を体験宿泊した。齢50を過ぎるとこういったアイデアが浮かばない。若いアイデアとエネルギーがみなぎっていた。こういった試みが本当の維新だと感じた。大阪の維新は竹中平蔵の使いっ走りだ。

↑各部屋ごとにデザイナーのアイデアが詰まった素泊まりの宿泊。

7、当時アテンドいただいた千葉元市議と夜は一献交わした。地酒を出す居酒屋にて宮城県産の銘柄を4種類ほどいただいた。それまでは日本酒をいただき機会が少なかったが、米どころ宮城県の地酒の旨さにひどく感銘した。中でも「浦霞」「伯楽星」「一ノ蔵」は絶品で、帰りの搭乗制限いっぱいまでのお酒を仕入れた。これがきっかけで「一ノ蔵」の復興支援を知り、今回そこ酒蔵ネットショッピングで購入した。
 
株式会社一ノ蔵(宮城県大崎市松山千石字大欅14)

 

 

 

 

↑ 3.11未来へつなぐバトン

 

醸造発酵で子どもたちを救おうプロジェクトで購入した日本酒と同封された便り

https://ichinokura.co.jp/news/5212

 

 今回の確認の旅に出て、復興とはなんだろう?物と気持ちの満足度はどちらが幸せの糧になるのだろうか?などと疑問がさらに膨らんだ。また被災の恐ろしさをこれほどまでに伝えているにもかかわらず、学ばない政府っていったいなんなんだろう?北海道、新潟、東北、能登の次は東南海か?
 復興路半ばどころか何も始まっていないと感じた。下地はできたが箱も中身も充分ではない被災地。行政でありがちな市民ニーズを無視した行政や首長のシーズ優先で箱物行政をしたのではなく、市民協働で進んではいるように感じるが、なかなか進まないようだ。
 もっと声をあげていかねばならないと感じる。自分のことのように、人の気持ちに寄り添うことが肝要だと考えた。