前回からの続きです。
「歴史は繰り返す」がマルクスの言葉だという説を、その根拠とされている著作と年代の両方から(一応)否定したところまで至っていました。
そしてマルクスとは別に、歴史家クルティウス=ルーフス(Quintus Curtius Rufus)説があります。
この連載の最初に示したように、ルーフス説は、『大辞林 第3版』(1988年)や『大辞泉 第2版』(1995年)にも掲載されています。
ほかには、『故事・俗信 ことわざ大辞典』(1982年)p.1232、『新編故事ことわざ辞典』(1992年)p.1378、『成語林 -故事ことわざ慣用句-』(1992年)p.1238に、ルーフス説が見つかりました。
こちらは、History repeats itselfの並記までなされています。
ただ、以前も書いたとおり、諸外国では「歴史は繰り返す」にルーフスをあげた資料そのものが実質的に皆無に等しいというほど少なく、一見、日本だけで伝わっているようにも思える状況です。
(複数の国語辞典に、誰の言葉なのかということまで含めて「歴史は繰り返す」が見出し語で掲載されているのも、今のところ確認できているのは日本だけですが。)
マルクス説やトゥキュディデス説は、根拠文献があがっているのに、なぜかルーフス説だけは、どこにも根拠が見当たりません。
日本経済新聞社発行の『人口波動で未来を読む』という書籍に次のような文もありましたが、ここにもやはり根拠が出ていないのです。
「歴史はくりかえす」という有名な格言は、ローマ帝政前期(一~二世紀)の歴史家クルティウス・ルフスの言葉である。歴史上では、過去に起こった事象と同じようなことが、何度もくりかえして起こる、というほどの意味だ。 しかし、こうした考え方はそれ以前にも存在したようで、最も古い言及は古代ギリシアの代表的歴史家トゥキュディデスの書いた『戦史』(紀元前三世紀)の中に発見できる。彼はペロポネソス戦争の最中に多くの年で発生した政争について、「この時生じたごとき実例は、人間の性情が変らないかぎり、個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも繰返されるであろう」注(1)と述べ、歴史の進歩とはいわば羅線状の循環との見解を示している。 その後、この種の循環論は、小アジアの修辞学者(ハリカルナッソスの)ディオニュシオスの「歴史は前例が教える哲学である(『修辞学』・紀元前二五年)を経て、古代ローマのルフスに伝わり、さらにさまざまに形を変えながらも中世から近世を貫いて、現代まで脈々と引き継がれてきた。 古田隆彦著 『人口波動で未来を読む』 p. 1 |
『戦史』や『修辞学』など、他は根拠があがっているのに、やはりルーフスだけが何もないのです。
そもそもルーフスには、ほとんど記録が残っておらず、ほぼ唯一と言えるのが著書の『Historiae Alexandri Magni』ですので、ひとまずこれをあたってみました。
日本語については、京都大学学術出版会から刊行されている
クルティウス・ルフス 著、谷栄一郎 訳、上村健二 訳 『アレクサンドロス大王伝』
英語のほうは
Quintus Curtius, "History of Alexander" with an English translation by John C. Rolfe
を使用しています。
結果・・・・
アレクサンドロス大王の偉業について細かく記された非常に興味深い読み物ではありましたが、「歴史は繰り返す」どころか、『戦史』にあるような内容的に近い言及すら、まったく出てきませんでした。
あえていえば、次の一節くらいでしょうか。
彼は多くのものを自分の美点に負っていたが、さらに多くのものを幸運に負っていた。すべての人間のうちただ一人それを掌中に握っていたのである。何とたびたび、それは彼を死地から救ったことか。何とたびたび、軽率にも危機に陥った彼を、絶え間ない幸運が守ったことか。 『アレクサンドロス大王伝』 p.450 |
戦利品を、戦争で奪い取った相手に返したり贈ったりする寛恕さを含め、いろいろな意味でたぐいまれな王だったようですが、奇跡的な幸運にも何度も助けられています。
ようするに、非常に良い意味で、過去に一度あったことが何度も繰り返されてはいるのです。
ただ、王の度重なる幸運をもって、その生涯を描いたストーリー全体から「歴史は繰り返す」がルーフスの言葉だとするのは、いくぶん無理があるように思います。
もっとも、トゥキュディデスにしてもマルクスにしても、根拠とされる著作に、「歴史は繰り返す」自体が出ているわけではありません。
それに近い内容が書かれているくだりが、「歴史は繰り返す」の根拠とされているだけなのです。
思うに、「歴史は繰り返す」は著名人の言葉「ではなく」、どこかで誰かが言ったものを、後世の人々が著名人と結びつけただけ・・・ではないでしょうか。
ここで、視点を変えて外国の古い新聞を調べると、イングランドでは1840年代の時点ですでに「history repeats itself」が何度も紙面に登場しています。
アイルランドの新聞も検索してみたところ、やはり1840年代から「history repeats itself」が複数の紙面に出てきました。
一方、米国をはじめとする他の英語圏で、新聞にこの表現が登場するのは、ずっとあとになってから。
念のため、ドイツ語、フランス語など他の言語で対応する表現を探してもみましたが、これもずっとあとのことでした。
現時点で思うに、「歴史は繰り返す」は、トゥキュディデスのギリシャ語、ルーフスのラテン語、マルクスのドイツ語などではなく、名も知れぬ誰かが使った英語のhistory repeats itselfが最初で、これが日本語を含む諸外国語に翻訳され、いろいろな根拠説があとから付け加えていったのではないかな、と。
マルクス説の「History repeats itself, first as tragedy, second as farce」など、典型的です。
1800年代は、「太陽の没するところのない」との形容までなされた、大英帝国の時代。
イギリス国内外で、植民地化や大小の反乱、暴動、戦争が繰り返されています。
まさに、トゥキュディデスが『戦史』で書いたとおり、「個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ」同じようなことが歴史の中で繰り返されているわけです。
こうした中、英国の記者が最初に使い、新聞で広まっていたとしても、不思議はありません。
むしろ、自然な流れにすら見えます。
新聞以外の文献で、ドイツ語のGeschichte wiederholt sichや英語のhistory repeats itselfが、1840年より前に使用例があるのですが、英国の新聞にも、検索対象になっていないだけで、もっと前から出ていた可能性はあります。
単行本より新聞のほうが、人々に広まりやすいでしょうし。
新聞には往々にして簡潔でストレートな表現が使われますし、そのわかりやすさがゆえ、あっというまに世界中に広まった・・・のでは?と。
ちなみに日本語のほうは、1900年代初めには、かなり知られていたようです。
これはほぼ間違いなく、英語からの翻訳だろうと思います。
『歴史は繰り返す』といふ語が、近來諺の樣になつてしまつたが、渠に據れば、自然はいつも同一のことを繰り返して居るのである。 岩野泡鳴『神秘的半獸主義』 (1906年) 「歴史は繰り返す」と云ふ諺がある。之は恐らく時の古今を問はず同じ原因があれば必ず同じ結果が生ずることを云ふたものであらう。 丘浅次郎『人類の将来』 (1910年) 歴史は繰り返すなんて、どだい、あれは、君、弁証法を知らんよ 太宰治『春の枯葉』 (1946年) 歴史は繰り返す。方則は不変である。それゆえに過去の記録はまた将来の予言となる。 寺田寅彦『科学と文学』 (1948年) |
寺田寅彦は「歴史は繰り返す」をかなり好んでいたようで、『科学と文学』『読書の今昔』『ステッキ』など複数の著書に使用例が見られます。
太宰治も、『春の枯れ葉』のほか、『苦悩の年鑑』にも使っています。
おそらくこうして著名人たちが使うことで、広まっていったのでしょうね。
以上をもちまして、「歴史は繰り返す」の由来調べは終了です。
最後に、余談をひとつ。
外出時にはいつも本を1冊持って出るのですが、ここ数日は、『アレクサンドロス大王伝』でした。
いつもは新書からせいぜい四六判の薄い本なので、片手に本、反対の手でつり革を持てます。
ところが今回は久々に分厚い本だったので、寄りかかるところがないと読みにくい・・・。
それで周りをあらためて見渡して思ったのは、とにかく「本を持っている人が少ない」ということです。
みんな、携帯端末。
携帯で本を読んでいる人もいるのかもしれませんが、ほとんどは指が動いていることからして、たぶん、違うでしょう。
せめて翻訳者は、現在もこれからも、本を読む習慣を忘れないでいたいと思った、数日でした。
(完)
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