脱力もそうだが、楽譜をよく見て、というのもよくある注意の一つだろう。


楽譜を見る、読むことは実はとても難しい。


まず単純に、書いてある情報全てを把握することが困難だ。間違い探しゲームと同じように、人から指摘されれば、何故こんなものが…となることが多い。人間は見たいものを見たいように見てしまっていることが多いように感じるが、演奏は結局のところ人間のすることなのだから、もしかしたらそのままで良いのかもしれない。

それを完全に避ける必要があるのならば、現代なら簡単だ、AIか何かに画像を読み込ませて情報を箇条書きで出してもらえば良い。もちろんAIが演奏すれば良いなど全く思わないが、そもそもこのように情報のみを完璧に知ろうとする行為、もしくは読み落としを過剰に悪いことと見なすこともまた危険なように私は思う。作曲家への最大限の尊敬は当然だが、書いてあることを全て知っていること、表現していることが全て正義ではない。

そもそも、書いてある情報には優先順位が確かに存在する。そして、箇所によって意味も異なる。全てのfが同じ大きさなどと言う人はいないだろう。

ただ、だからと言って自分が見たいものだけ見ていればいいわけではない。自分が見たいものだけ見るのであれば、白紙の楽譜に全て自分で書けば良い。


そうすると、「自分はどう楽譜を読むか」という姿勢、バランスが大事になる。

そしてそれはどういう演奏をしたいのかという問いに繋がっていくだろう。




まあ、天才はきっとそんなことも全く考えずただひたすらに素晴らしい演奏をするのだろう。


音楽という言葉、訳はどこからきたのだろうか。


恐らくMusicを訳したら音楽とはならなかっただろう。いや、音と楽(楽器)という意味なら成り立つかもしれない。


とにかく、音を楽しむことだけがMusicではないのだ。

芸術は人間の魂に作用するものであり、何も楽しむことだけではない。どうしても、「楽」という字の持つ力に引っ張られる「音楽」という言葉。音術、なんてどうだろ。



今日は疲れているのでこの辺りで。

力を抜いて演奏する、とはどういうことなのか。

 

まず演奏、音を出す際に必要な力とは何なのか考えてみたい。

ピアノだったら鍵盤が下に動く力が加われば良い(難儀な楽器で、発音しているものそのものに触れることはできない)。弦楽器ならば弦が振動する力、管楽器なら管が振動する力だろう。そういう意味で、声楽は最も物を介さずに音が出せる故に最も人間の求める音なのではないか思うが、それは置いておいて、私の本業であるピアノ・器楽について考える。

 

器楽は常に物を介し、物を動かして音を出す。それ故(もちろん専門ではないが)、物理学の要素は非常に大きい。

当然この世界にあるものとして、重力の存在は重要である。

私たちはそもそも立っているだけで重力に抗っている。ピアノは座って演奏するが、鍵盤に手を置く際に、すでに上に腕を持ち上げているため、実は相当重い、関節でカクカク曲がる腕を、重力に抗って鍵盤の上のちょうど良いところにちょうど良い形でキープするという大層な力を使っている。鍵盤というものは触ればすぐわかるように意外なほどに少ない力で動いてしまうので、案外精密なことをしているのである。そして当然上方向の力が強すぎたら指が鍵盤に届かなくなってしまう。

 

この「その場に止める力」によって各関節の角度が定まるわけだが、当然常に同じ角度でいては「動かす」ことができない。どこかしらの関節の角度を変える、筋肉のバランスを変えることで動かすことができる。どこかの関節の「止まる」力が入りすぎるとその関節は動かなくなり流動性を失う。難しいのは、完全に脱力するということは、(特に腕は)止まる力もなくなることを意味するため鍵盤の上に止まることすらことすらできなくなることだ。脱力しても腕が前に出ている人は想像できない。手に関しては私はどんなに力を抜いてもある程度丸みを帯びた形になるが、これは個人差があるかもしれないし、後天的にトレーニングすることで良くなるのかもしれない。

 

これで完全に脱力することは不可能ということはわかった。

長くなってしまったので今日はこの辺りで。

 

 

私の現時点での一意見、考えを書き記しているだけなので、頓珍漢なことを書いていても悪しからず…きっと未来の私が見て今笑っていることでしょう。

演奏会の始まりと終わりはどこなのか。

 

実際の音楽、音としては、音の振動が始まり、収まった瞬間が始点と終点になる。しかし、その音をどのように認知するのか、が演奏会を聴くことの本質だとすると少し様相が変わるように思う。

聴き手にとって、演奏会の会場、そこまでの道のりはもちろん、経験や環境、生全てがそれに影響するのであれば、生まれた瞬間から、そのある瞬間の音楽への道は始まっているとも言える。

(まあさらに言えば、その音楽自体が世に現れた瞬間はいつなのか、という思索も必要になるのだが、それは演奏会というよりも演奏という行為への吟味になる。)

 

さて、実際に演奏会に対して演奏家が関与できる部分だが、実はかなり広範である。

音が出ている時間はもちろんだが、どのようなお辞儀をするのか、どのタイミングで扉から出ていくのか、歩くスピードは…など舞台上だけでも枚挙にいとまがない。その瞬間から聴き手は常に舞台に意識を向けているのだから、その立ち居振る舞いによって、音楽がどう聞こえるか、も当然変わる。

チラシのデザインもそうだ。見た瞬間にその演奏会への思惑が始まる。

会場に関してはまあ厳密に言えば演奏家のみが決められることではないが、その選択も演奏会の一部であろう。

 

こうして考えていくと、そもそも演奏家の在り方自体が演奏会に大きく関わっていることに気付かされる。演奏会に関わること全ての選択が演奏会という場に影響を及ぼすのであれば、それは演奏会の場が演奏家の在り方の顕現と言えるだろう。

演奏会の始まりはこうして見えなくなっていき、人の在り方が変化していく以上、終わりもまたないのだろう。

 

先日の演奏会にご来場いただきました皆様、誠にありがとうございました。

いつものことながら、自分の出来る限りを尽くしましたが、まだまだ至らぬところも。

 

というか、芸術は永遠に到達点などないもののように思うので、結局弾き手も聞き手も(きっと書き手も)、遠くて見えない何かを探し求めるんだろうな。きっとその過程の一瞬の交差点のようなものが演奏会なんだろう、と悟ったような書き方をしていますがまだまだ模索中です。

 

最近は特に、常に聞き手も動的なものだと思うようになった。

音に触れるということは自分の耳が聞いていることに他ならない故、その瞬間の自らの姿勢、本来一番近いところにあるはずの魂が反映されている…そこに対して、現在の音の出し手としてどんな責任があるのか。そんなことを考えながら自分の内面、そして自分の望む音が出るような肉体を目指して今後も鍛錬していきます。