録音技術の発達は音楽界を大きく変えた出来事の一つだろう。

 

録音は良くも悪くも、一つの独立した芸術作品になっていると思う。演奏会、ないし演奏とは全く別物だ。

演奏は再現性がほぼ有り得ないものだが、(聴く人の状態が常に変化していることを考慮しないと)録音は逆に再現しかできない。

そして演奏会の生録音を除き、録音は録り直し、繋ぎなど様々な加工ができる。録音されたもの、特にCDは「その当時完成し得る最も良いと考えられたもの」を固定した形であり、一回性の強い演奏とは異なる作品性があると思う。

 

一昔前はきっと演奏を直で聴くことが、今より格段に機会は少なかったとしても「普通」であったと思うが、現在はあまりにも簡単に録音を聴くことができ、むしろ演奏会に行くことが特別なことになっているだろう。

昔は様々な録音に触れることも難しかっただろうし、想像もしなかっただろう。だからこそ素晴らしい音楽を求める力も大きかったのではないだろうか。さらに、作曲家が生きた時代は録音がそもそもなかった時代なのだ…

そこら中に良い録音が溢れ、手軽に聞ける現在、我々はどう録音、音楽と向き合うのか。よく一人一人が考えねばならないと思う。

何事も、求めれば求めるほどに遠くなるように感じる。


いつまで経っても、どうやっても良くならないな、と思うことも多いが、これは先に進むたびに、さらに先が見えてしまうから仕方がない。

むしろ恐れるべきは、こうしたらいい、という形が決まってしまった時だろう。その先が見えなくなっている時に他ならないし、芸術というものを人が為している以上、常に状況は変わっているからだ。


どうやっても良くならないと感じるのは仕方ないとして、そもそも「よくなる」とはなんなのか。

特に芸術において、何がよいことなのかは判断が難しい。よくなる、ことが何かすらはっきりしないのだから、どうやっても「良くなった」とは感じ得ないのだと思う。その時点での確からしいことを追い求め続け、音楽と共に歩むことがきっと自然な姿なのだろう。


なので良くならないということは良くないことではない。わからんわからん、と進むしかないのだろうきっと。


脱力もそうだが、楽譜をよく見て、というのもよくある注意の一つだろう。


楽譜を見る、読むことは実はとても難しい。


まず単純に、書いてある情報全てを把握することが困難だ。間違い探しゲームと同じように、人から指摘されれば、何故こんなものが…となることが多い。人間は見たいものを見たいように見てしまっていることが多いように感じるが、演奏は結局のところ人間のすることなのだから、もしかしたらそのままで良いのかもしれない。

それを完全に避ける必要があるのならば、現代なら簡単だ、AIか何かに画像を読み込ませて情報を箇条書きで出してもらえば良い。もちろんAIが演奏すれば良いなど全く思わないが、そもそもこのように情報のみを完璧に知ろうとする行為、もしくは読み落としを過剰に悪いことと見なすこともまた危険なように私は思う。作曲家への最大限の尊敬は当然だが、書いてあることを全て知っていること、表現していることが全て正義ではない。

そもそも、書いてある情報には優先順位が確かに存在する。そして、箇所によって意味も異なる。全てのfが同じ大きさなどと言う人はいないだろう。

ただ、だからと言って自分が見たいものだけ見ていればいいわけではない。自分が見たいものだけ見るのであれば、白紙の楽譜に全て自分で書けば良い。


そうすると、「自分はどう楽譜を読むか」という姿勢、バランスが大事になる。

そしてそれはどういう演奏をしたいのかという問いに繋がっていくだろう。




まあ、天才はきっとそんなことも全く考えずただひたすらに素晴らしい演奏をするのだろう。


音楽という言葉、訳はどこからきたのだろうか。


恐らくMusicを訳したら音楽とはならなかっただろう。いや、音と楽(楽器)という意味なら成り立つかもしれない。


とにかく、音を楽しむことだけがMusicではないのだ。

芸術は人間の魂に作用するものであり、何も楽しむことだけではない。どうしても、「楽」という字の持つ力に引っ張られる「音楽」という言葉。音術、なんてどうだろ。



今日は疲れているのでこの辺りで。

力を抜いて演奏する、とはどういうことなのか。

 

まず演奏、音を出す際に必要な力とは何なのか考えてみたい。

ピアノだったら鍵盤が下に動く力が加われば良い(難儀な楽器で、発音しているものそのものに触れることはできない)。弦楽器ならば弦が振動する力、管楽器なら管が振動する力だろう。そういう意味で、声楽は最も物を介さずに音が出せる故に最も人間の求める音なのではないか思うが、それは置いておいて、私の本業であるピアノ・器楽について考える。

 

器楽は常に物を介し、物を動かして音を出す。それ故(もちろん専門ではないが)、物理学の要素は非常に大きい。

当然この世界にあるものとして、重力の存在は重要である。

私たちはそもそも立っているだけで重力に抗っている。ピアノは座って演奏するが、鍵盤に手を置く際に、すでに上に腕を持ち上げているため、実は相当重い、関節でカクカク曲がる腕を、重力に抗って鍵盤の上のちょうど良いところにちょうど良い形でキープするという大層な力を使っている。鍵盤というものは触ればすぐわかるように意外なほどに少ない力で動いてしまうので、案外精密なことをしているのである。そして当然上方向の力が強すぎたら指が鍵盤に届かなくなってしまう。

 

この「その場に止める力」によって各関節の角度が定まるわけだが、当然常に同じ角度でいては「動かす」ことができない。どこかしらの関節の角度を変える、筋肉のバランスを変えることで動かすことができる。どこかの関節の「止まる」力が入りすぎるとその関節は動かなくなり流動性を失う。難しいのは、完全に脱力するということは、(特に腕は)止まる力もなくなることを意味するため鍵盤の上に止まることすらことすらできなくなることだ。脱力しても腕が前に出ている人は想像できない。手に関しては私はどんなに力を抜いてもある程度丸みを帯びた形になるが、これは個人差があるかもしれないし、後天的にトレーニングすることで良くなるのかもしれない。

 

これで完全に脱力することは不可能ということはわかった。

長くなってしまったので今日はこの辺りで。

 

 

私の現時点での一意見、考えを書き記しているだけなので、頓珍漢なことを書いていても悪しからず…きっと未来の私が見て今笑っていることでしょう。