やる気がふっと出た時は同じ勢いで消えていってしまう。もう少し力を貯めてから書き始めても良かったかな。


毎年梅雨のたびに思うが、この気候は西洋音楽から感じることがない。

雨がモチーフの曲はあるだろうが、この妙に暗く、しかも湿度に満ちた空気は…。

環境が人間の在り方に大きな影響があるのは明白だ。晴れ間を見たら気持ちも晴れるし、きっと気圧などは潜在的に大きく影響を与えているだろう。ヨーロッパにおいて、春を待ち侘びる気持ちは特別なものだろうし、その音楽も特別だ。今の日本はどうだろう…四季折々異なる自然に楽しみを見出す文化は確かにあるように感じるが、年々そもそも「季節に対する感情」は薄れているように感じる。食べ物も季節性がどんどんなくなっているし。


話がそれてしまった。

世界的な気候変動がここ300年でどう起きたか、専門家になる必要はないけれども、ある程度知っておくと音楽も面白く聴けるかもしれない。そして未来はどうなっているかな…気候をコントロールできるようになってたりね。

・ヤクルトが弱い


呆れてアンチになりなけた時期も含めて20年以上ファンでいるが、まぁひどいもんである。

このチーム負け始めるといつもこうなってしまう。良くも悪くも流れに乗ると止まらない。黄金期はどうだったっけな…

そんなところも魅力だけど、いい加減勝つ、もしくは希望が見えてほしいものである。


・自分のフォーム


自分のフォームはとかく不恰好に見える。特に利き腕でない右は上腕を使いきれていない感覚がある。肘をうまく抜いて押し込まないように意識したいが…肘を動かすには抜けているべきは肩、脇か。この流れだと、肩、脇を自由にするためには腰、背中が、となるんだろうな。時折見かける、背中からエネルギーを、という論への理解に繋がるやもしれぬ。


・満員電車


嫌い。

何でも知れば良いというものではない気がするが、知りたいという気持ちは抑えられない。

そもそも、知っていることと、知らないことの境目は非常に曖昧だと思う。さらに言えば、「知る」という言葉も曖昧だけれど。


私の感覚では、分かっている、説明できることよりも、分からないものの方が尊いことが多い。

人間自分が無意識に出来ることほど説明できない。だから「なんで出来ないの」という注意、意識がどうしても生まれてくるのだろう。だから、教えられることが身についた技術だというのもよく分かるが、果たして「説明できる状態」が1番良いのかはわからない。


作曲家の作曲技法は確かに素晴らしいし、理解できることにきっと意味はあるだろう。しかし、作曲家が伝えたかったことは作曲技法ではないだろう。聴く側に立ってみても、この曲はここが優れているから素晴らしい、という事実を求めているのではないだろう。それは読むことによってだけでも得ることが出来るし、結局のところ音楽は音である。

作曲技法や楽譜にある音楽を既に知った上で、音楽を聴く時、何を欲しているのだろうか。果たして「既に知っているもの」を欲するだろうか。

これは私個人の話に過ぎないのかもしれないが、「それはないだろう」という音楽を欲さないのと同じくらい、「そうだろう」という音楽も欲さない。何を求めているかといえば、「予想もつかない感動」だ。

むしろ、作曲技法に関しては演奏者も知らなくていいのかもしれない。もしくは知ろうとしたって知り尽くせないのだろうか。全てを知っているよ、という演奏は私は嘘のように感じてしまう。


知らないことはそのままに、自分の感覚に従う態度が良いのか、知ろうとすればするほど知らない世界が広がっていく、という希望と共に知る道を求め続けるのか。どちらがいいのかは私にはわからないし、きっとこの2択以外にもいくらでも選択肢は見つかるだろう。


ただ、私が1番憧れるのは、こんなことまるで感じさせない音楽、人間だ。そしてそれが人間の希求するものであり、やはりモーツァルトはそこに最も近い存在だったのではないかなと感じる。





録音技術の発達は音楽界を大きく変えた出来事の一つだろう。

 

録音は良くも悪くも、一つの独立した芸術作品になっていると思う。演奏会、ないし演奏とは全く別物だ。

演奏は再現性がほぼ有り得ないものだが、(聴く人の状態が常に変化していることを考慮しないと)録音は逆に再現しかできない。

そして演奏会の生録音を除き、録音は録り直し、繋ぎなど様々な加工ができる。録音されたもの、特にCDは「その当時完成し得る最も良いと考えられたもの」を固定した形であり、一回性の強い演奏とは異なる作品性があると思う。

 

一昔前はきっと演奏を直で聴くことが、今より格段に機会は少なかったとしても「普通」であったと思うが、現在はあまりにも簡単に録音を聴くことができ、むしろ演奏会に行くことが特別なことになっているだろう。

昔は様々な録音に触れることも難しかっただろうし、想像もしなかっただろう。だからこそ素晴らしい音楽を求める力も大きかったのではないだろうか。さらに、作曲家が生きた時代は録音がそもそもなかった時代なのだ…

そこら中に良い録音が溢れ、手軽に聞ける現在、我々はどう録音、音楽と向き合うのか。よく一人一人が考えねばならないと思う。

何事も、求めれば求めるほどに遠くなるように感じる。


いつまで経っても、どうやっても良くならないな、と思うことも多いが、これは先に進むたびに、さらに先が見えてしまうから仕方がない。

むしろ恐れるべきは、こうしたらいい、という形が決まってしまった時だろう。その先が見えなくなっている時に他ならないし、芸術というものを人が為している以上、常に状況は変わっているからだ。


どうやっても良くならないと感じるのは仕方ないとして、そもそも「よくなる」とはなんなのか。

特に芸術において、何がよいことなのかは判断が難しい。よくなる、ことが何かすらはっきりしないのだから、どうやっても「良くなった」とは感じ得ないのだと思う。その時点での確からしいことを追い求め続け、音楽と共に歩むことがきっと自然な姿なのだろう。


なので良くならないということは良くないことではない。わからんわからん、と進むしかないのだろうきっと。