演奏する曲、作曲家の得手不得手、ないし好き嫌いは演奏者、聴衆にとって大きな影響を持つ。

 

そもそも得意不得意は誰が判断するのだろうか。

演奏者が主観的に「得意だと感じている」から得意と定められるのか、聴者の評価によって定められるのだろうか。

これが一致する場合は話は簡単だが、実はそうでもないことが多いように思う。がまあ、これに関しては考えても仕方ない。よっぽどでない場合、聴者の意見は様々だし、想像することはできないから。

 

さて、得意な曲を弾くことはいいことだろうか。

この問題もまた、答えが出ることはない。一人一人答えが違うことだし、その個別の答えが出る時は演奏をやめるとき…ですらないかもしれない。

 

ただ、どのような信念を持って曲を選択していくかはとても大事な問題だ。

私は常に、得意と感じるものが最終的に最も良い状態になるために、どんな曲を選択していくべきか、と考えている。

「得意だ」と感じているものは基本的に自分の範疇で処理できるものが多い。それ故に、厳しく自分を見つめない限り、自分の範疇を超えていくことは難しい。

苦手だと感じるものはその逆で、自分の範疇で処理できない故に、その曲、作曲家を理解しようと努めることが自然と新しい見聞、感覚を深めることに繋がる。それにより得意と感じていたものに別の世界が広がる可能性がある。

 

ただ、常に正解はない。

有限の人生、振り返った時に後悔のない曲選択を続けていきたい。

 

音楽において、「こうしかない」というものはほぼなく、基本的にはあり得ないと考えて良い。


しかし、正しくもなく誤ってもいないものなのだ、と認識しているままの状態は、正常、「よいもの」なのだろうか。正誤の判断は出来ないもの、と他人行儀に捉え、ニュートラルを目指すことは、感覚的に間違っていると感じられる。


そもそも、正誤があるかないかという考え方も必要なように思う。

ものの正誤を判断するのが自他の枠を超えた絶対的な存在だとしても、そのものは正誤がある状態であり、相対的な状態である。

正誤から解き放たれた状態こそが目指すべき場所、絶対的な状態なのではないだろうか。


正誤から解き放たれた境地は極めて強力である。他者、さらには自分の判断にすら干渉されないのだから。驕りによる排他的、高圧的な態度とは全く異なる次元である。

私は時折レッスンでそのような言葉に遭遇してきたが、そういう言葉はきっと無限に私に力を及ぼし続けていくのだろう。



まあ、そんなところに辿り着いてみたい。

やる気がふっと出た時は同じ勢いで消えていってしまう。もう少し力を貯めてから書き始めても良かったかな。


毎年梅雨のたびに思うが、この気候は西洋音楽から感じることがない。

雨がモチーフの曲はあるだろうが、この妙に暗く、しかも湿度に満ちた空気は…。

環境が人間の在り方に大きな影響があるのは明白だ。晴れ間を見たら気持ちも晴れるし、きっと気圧などは潜在的に大きく影響を与えているだろう。ヨーロッパにおいて、春を待ち侘びる気持ちは特別なものだろうし、その音楽も特別だ。今の日本はどうだろう…四季折々異なる自然に楽しみを見出す文化は確かにあるように感じるが、年々そもそも「季節に対する感情」は薄れているように感じる。食べ物も季節性がどんどんなくなっているし。


話がそれてしまった。

世界的な気候変動がここ300年でどう起きたか、専門家になる必要はないけれども、ある程度知っておくと音楽も面白く聴けるかもしれない。そして未来はどうなっているかな…気候をコントロールできるようになってたりね。

・ヤクルトが弱い


呆れてアンチになりなけた時期も含めて20年以上ファンでいるが、まぁひどいもんである。

このチーム負け始めるといつもこうなってしまう。良くも悪くも流れに乗ると止まらない。黄金期はどうだったっけな…

そんなところも魅力だけど、いい加減勝つ、もしくは希望が見えてほしいものである。


・自分のフォーム


自分のフォームはとかく不恰好に見える。特に利き腕でない右は上腕を使いきれていない感覚がある。肘をうまく抜いて押し込まないように意識したいが…肘を動かすには抜けているべきは肩、脇か。この流れだと、肩、脇を自由にするためには腰、背中が、となるんだろうな。時折見かける、背中からエネルギーを、という論への理解に繋がるやもしれぬ。


・満員電車


嫌い。

何でも知れば良いというものではない気がするが、知りたいという気持ちは抑えられない。

そもそも、知っていることと、知らないことの境目は非常に曖昧だと思う。さらに言えば、「知る」という言葉も曖昧だけれど。


私の感覚では、分かっている、説明できることよりも、分からないものの方が尊いことが多い。

人間自分が無意識に出来ることほど説明できない。だから「なんで出来ないの」という注意、意識がどうしても生まれてくるのだろう。だから、教えられることが身についた技術だというのもよく分かるが、果たして「説明できる状態」が1番良いのかはわからない。


作曲家の作曲技法は確かに素晴らしいし、理解できることにきっと意味はあるだろう。しかし、作曲家が伝えたかったことは作曲技法ではないだろう。聴く側に立ってみても、この曲はここが優れているから素晴らしい、という事実を求めているのではないだろう。それは読むことによってだけでも得ることが出来るし、結局のところ音楽は音である。

作曲技法や楽譜にある音楽を既に知った上で、音楽を聴く時、何を欲しているのだろうか。果たして「既に知っているもの」を欲するだろうか。

これは私個人の話に過ぎないのかもしれないが、「それはないだろう」という音楽を欲さないのと同じくらい、「そうだろう」という音楽も欲さない。何を求めているかといえば、「予想もつかない感動」だ。

むしろ、作曲技法に関しては演奏者も知らなくていいのかもしれない。もしくは知ろうとしたって知り尽くせないのだろうか。全てを知っているよ、という演奏は私は嘘のように感じてしまう。


知らないことはそのままに、自分の感覚に従う態度が良いのか、知ろうとすればするほど知らない世界が広がっていく、という希望と共に知る道を求め続けるのか。どちらがいいのかは私にはわからないし、きっとこの2択以外にもいくらでも選択肢は見つかるだろう。


ただ、私が1番憧れるのは、こんなことまるで感じさせない音楽、人間だ。そしてそれが人間の希求するものであり、やはりモーツァルトはそこに最も近い存在だったのではないかなと感じる。